歴代誌講解65
共にいる神を頼る
歴代誌下 28:16-27
16 そのころ、アハズ王は援助を求めてアッシリアの王に使者を送った。17 再びエドム人が攻めて来てユダを撃ち、住民を捕虜にした。18 ペリシテ人もシェフェラの町々とユダ領のネゲブに襲いかかり、ベト・シェメシュ、アヤロン、ゲデロト、ソコとその周辺の村落、ティムナとその周辺の村落、ギムゾとその周辺の村落を占領し、そこに住んだ。19 このように主は、イスラエルの王アハズのゆえにユダを辱められた。彼がユダを堕落させ、主に甚だしく背いたからである。20 アッシリアの王ティグラト・ピレセルはアハズを援助するどころか、攻めて来て、彼を苦しめた。21 アハズは主の神殿、王宮、高官の家の財産を一部アッシリアの王に差し出したが、何の助けにもならなかった。22 このアハズ王は、災難のさなかでも、なお主に背いた。23 彼は自分を打ったダマスコの神々にいけにえをささげ、「アラムの王の神々は、王を助けている。その神々に、わたしもいけにえをささげよう。そうすればわたしも助けてくれるだろう」と言った。しかし、その神々はアハズにとっても、すべてのイスラエルにとっても、破滅をもたらすものでしかなかった。24 アハズは神殿の祭具を集めて粉々に砕き、主の神殿の扉を閉じる一方、エルサレムのあらゆる街角に祭壇を築いた。25 またユダの町という町にはどこにも聖なる高台を造って、他の神々に香をたき、先祖の神、主の怒りを招いた。26 アハズの他の事績と全行動は、初期のことも後期のことも、『ユダとイスラエルの列王の書』に記されている。27 アハズは先祖と共に眠りにつき、エルサレムの都に葬られた。しかし、その遺体はイスラエルの王の墓には入れられなかった。その子ヒゼキヤがアハズに代わって王となった。
いざというときの助けは近くにある
先週金曜日の夜に台風15号が静岡県の南を通過し、県内の各地で大雨が降りました。土砂崩れや浸水などの被害もありました。車が水に浸かって動かなくなってしまった方もいます。皆さんは大丈夫だったでしょうか。
天竜区では橋が壊れました。
大きな災害が起こった時、橋や道路が使えなくなることがあります。そうすると車が通れません。車が使えないと、人や物の移動が難しくなります。
山に囲まれた集落が大雨で孤立することがあります。
東海地方を大地震が襲い国道1号線や東名高速道路が使えなくなると、浜松も孤立します。
孤立すると外から人材や物資を入れることが難しくなるので、そこにいる人やそこにある物を使わなければなりません。
だから日ごろから食べ物や飲み物などを蓄えておく必要がありますし、近くにいる人たちとの関係が大事です。
いざというときの助けは近くにあります。
神を無視する罪
今日の本文は南ユダ王国11代目アハズ王の話後半です。
アハズの治世
アハズは主に背き、エルサレムを地獄のようにしてしまいました。
そこで神はアラム王レツィンと北イスラエル王ペカを送り、南ユダの領内を襲います。12万人の勇士が戦死し、20万人の民が捕虜になりました。
それでも神は憐れみを残し、エルサレムには手を出させませんでした。アラムと北イスラエルは撤退。サマリアに連れて行かれた民たちも、善きサマリア人たちによってエリコに送り届けられました。
エルサレムは無事でしたが、アラムと北イスラエルの同盟は脅威です。アハズの心も民の心も、森の木々が風に揺り動くようにザワザワと動揺しました。
そこで神は預言者イザヤを遣わします。神はイザヤを通し、レツィンとペカは燃え残った切り株であり恐れることはないと伝えます。
さらに主は、主を信頼できるようにしるしを求めよと言います。杖がヘビに変わるとか、太陽が止まるとか、羊の毛だけ濡れるとかのしるしを求めていいから、とにかく私を信頼しろと神が言ってくださる。またとないチャンスです。
しかしアハズは「主を試すようなことはしない」と言って拒みます。私は大人ですから。そんな奇跡を見て喜ぶような子どもではありませんとでも言いたいのでしょうか。アハズは神が与えた恵みの機会を自ら捨てました。
そんなアハズに神は自らしるしを与えます。それがインマヌエル預言です。
それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
イザヤ書7:14
おとめ、すなわち男性と関係を持ったことのない女性が妊娠し男の子を産む。そのようなことがあり得るでしょうか。人間的にあり得ない奇跡が起こると神は約束をします。
そして神は数年以内にレツィンとペカが倒れること、アッシリアという新たな脅威が襲うことを告げます。
おそらくアハズの時代に、おとめが身ごもって男の子を産むという預言が何らかの形で成就したのでしょう。
このしるしを見てもアハズは主を信頼せず、勢力を拡大してきたアッシリアに援助を要請しました。遠く離れたアッシリアに貢ぎ物を贈り、助けを求めます。
するとアッシリア王ティグラト・ピレセルはアラムを攻撃し、レツィンを討ちます。
喜んだアハズはティグラト・ピレセルに会いにアラムの首都ダマスコへ行きます。
そこでアハズはアラムの神々の祭壇に感銘を受け、エルサレムに同じものを作らせます。偶像を禁じる神の祭壇より、様々な装飾のあるアラムの神々の祭壇の方が立派に見えたのです。
アハズは全く神を信頼せず、遠くの国の王や神々を頼りました。そして南ユダの国民も堕落させます。
そのため主はエドムとペリシテを送って南ユダを攻め、辱めます。
この災難の中でもアハズは主に背き、神殿を封鎖します。神殿の庭にはソロモンが作らせた「海」という巨大な青銅の水ためがありました。アハズはこれも破壊します。
そしてエルサレムのあらゆる街角に祭壇を築き、アラムの神々を拝みました。
神は私たちと共におられる
アハズの治世を見ていくと、彼がことごとく神に背き続けていることがわかります。
それでも神は憐れみを示し、頼るべき方は神だということを気づかせようとします。しかしアハズは近くにおられる神を無視し、遠くの国の王や神々を頼りました。
頼るべきお方は主なる神様です。
その神様は遠い海の向こうや高い山の上に隠れているお方ではありません。
もちろん遠くにも高いところにもおられますが、遍在する神は近くにも低いところにもいます。
私たちとも共にいます。インマヌエルの神です。
インマヌエルとは、神は私たちと共におられるという意味のヘブライ語です。
インマヌエルの神イエス
このインマヌエル預言の成就として、おとめマリアが聖霊によって身ごもりました。そしてイエス様が誕生します。
このイエス様は神ご自身です。神が人となって私たちの間に宿られたのです。まさに、神は私たちと共におられるという神の言葉がかたちになりました。
神が共にいるのに無視している
それでも私たちは神が共にいるということを忘れていないでしょうか。
日々恵みを与えてくださっているのにそれを無視し、何か不足があるかのように不平不満を言います。私を強める方の力ですべてが可能なのに、何もできないと思い込まされます。
それはまるで子どもが、親は自分に何もしてくれなかったと文句を言うようなものです。子どもが大きくなるために親は共にいてどれほど愛し支えたことでしょう。親を無視する言葉は親を深く傷つけます。
実際には人間の親は不完全なので、このような文句を言われたら親自身も悔い改めなければいけないかもしれませんが。
天のお父さんは間違えることがありません。
それなのに私たちは神に不平不満を抱きます。神様は私に何もしてくれない。なぜ神は私を見捨てみなしごのようにしたのか。
このように共にいる神様を無視するとしたら、これほど神様を悲しませることはありません。
イエス様は聖霊が世の誤りを明らかにすると言いました。
罪についての世の誤りをこのように指摘します。
罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
ヨハネによる福音書16:9
イエス様を信じないこと、知らないことこそが罪です。
イエス様はインマヌエル、私たちと共にいる神様です。
私たちと共にいる神を無視することこそが罪です。
聖霊によって助け合う
アハズ王は共にいる神を無視し、遠く離れたアッシリアを頼りました。
アッシリアはアハズの期待通りアラムを倒してくれました。しかしアッシリアはアハズを援助しようとはせず、逆に攻めてきました。貢ぎ物を贈っても何の助けにもなりません。
それでアハズはアラムの神々を頼りますが、無力な偶像は何もしてくれません。
間違ったものを頼ると痛い目にあいます。
教会を支えるのはこの世の力でなく聖霊
今、教会という組織がどうあるべきか世間から問われる時代です。日本ではキリスト教系に分類される宗教団体が問題になっています。
私たちキリスト教会も同じくキリスト教系の宗教団体に分類されます。
日本で活動する宗教団体ですから、日本のルールを守ることは大事です。宗教法人の法人格を取って献金や建物など教会の財産を守ることも大事です。
しかし世間からよく見られようとこの世に調子を合わせることを優先するなら、教会はただの公益法人になってしまいます。
かつて日本の教会は宗教団体法によって国の管理下に置かれました。そして国家神道の一部になりました。
戦時中は礼拝の中で天皇を崇拝することもしました。そして日本のアジア侵略に協力し、韓国など東アジアの教会に神社参拝を勧めました。
法律を守ることはもちろん大事です。
教会が教会であるためには、法律がそれを保障するのではするのではありません。キリストの教会であることが欠かせません。
ペンテコステの日に聖霊が降って誕生した教会は、聖霊の働きなしに教会が立ち続けることはできません。
何がこの教会を支えるのか。国などこの世の力が私たちを支えるのではありません。
共にいる聖霊が教会を建て上げていきます。
そばにいて助ける聖霊
16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
ヨハネによる福音書14:16-18
十字架で死んで復活したイエス様は天に上げられ、地上にはいません。
しかし弁護者なる聖霊が遣わされ、永遠に私たちと一緒にいます。神が私たちを見捨てみなしごにすることはありません。
弁護者と訳されるパラクレートスというギリシア語には、そばにいて助ける者という意味があります。
聖霊は私たちのそばにいて助けます。
互いに助け合う
日本での宣教は難しさがあり、今まさに苦難の中にあるかもしれません。
そのような状況でもパラクレートスなる聖霊は私たちと共にいます。
聖霊は私たち一人一人と共にいます。だからそばにいる兄弟姉妹との協力関係も大事です。ここに集う兄弟姉妹たち、そしてこの町に建てられた教会同士が共に助け合うのです。
もし大地震が襲って浜松が孤立するようなことがあっても、近くにいる兄弟姉妹で助け合うことでこの地域に仕えることができます。
地域の教会で協力した宣教も行われています。
神は私たちと共にいます。
互いに助け合いながらこの地の宣教を進めて行きましょう。