創世記10
エデンの東で
創世記 4:1-16
1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。11 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。12 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」13 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
神を見上げて生活する
エデンの東での生活
人はエデンの園で神と共に生きていました。しかし人は神に背き、禁断の木の実を食べます。罪の呪いを受けて人はエデンの東に追放されました。アダムとエバはそこで生きていきます。
エデンの園では食べるものが十分にありましたが、エデンの東では土を耕して栽培しなければなりません。土を耕し、種を蒔く。やがて芽が出る。しかし日照りが続くと枯れてしまいます。雑草が生えて成長が遅くなることもある。害虫に食べられたり病気になったりすることもあります。せっかく実がついても嵐がやってきて台無しになってしまうこともあります。
人は顔に汗を流してもパンを得られるかわからない。神の恵みがなければ生きていけないことを実感させられます。
アダムは収穫を得られた時、その土の実りを神様と共に喜びたいと願ったことでしょう。
エデンの東で生活する中で、アダムはエバを知ります。
前から一緒にいたじゃん。それまで知らなかったの?
聖書で使われる「知る」という言葉は、ただ知識的に知るという意味の他に、体験的に知るという意味もあります。何かを理解する。相手と出会う。
そして男女の深い結びつきについても使われます。これは二人が一つになるための重要なコミュニケーションの一つであって、神が結び合わせた夫婦の間でのみ許されるものです。
罪を犯した時は他の人を非難していた二人ですが、夫婦として深い関係を持てるようになりました。
そんな二人に神様は最初の子カインを与えます。
エバは初めての妊娠と出産を経験しますが、それは大変な苦しみでした。
新しい命が生み出されるとき、祈らずにはいられません。
カインが生まれたとき、エバは「わたしは主によって男子を得た」と神様に感謝しました。
神様がアダムに与えた役割は土を耕すこと。毎日畑に出て農作業をしていたことでしょう。
カインはそんな父の姿をマネして、畑について行ったと思います。
アダムもカインが自分の跡を継いでくれると期待したでしょう。
カインも長男として父の期待に応え、お父さんの言いつけを守るいい子であろうと思ったかもしれません。
やがて弟のアベルが生まれます。
次男のアベルには長男に対するような期待も責任もありません。自由奔放に自然の中で遊びます。
牧畜をアダムの時からやっていたのかはわかりませんが、羊を連れて青草の原や水辺に出かけていきます。
というストーリーは私の勝手な想像ですが、皆さんどうですか。
カインの立場になって考えてみてください。
自分には長男としての期待と責任があり、いつも父と一緒に働いている。
弟のアベルは自由に遊んで暮らしているように思えませんか。
ズルいですよね。
カインとアベルの礼拝

そんなストーリーがあったかどうかはわかりませんが、アベルは羊を飼う者、カインは土を耕す者になりました。
収穫の時が来て、カインは土の実りを神様の前に持って行きます。
アベルは羊の群れの中から肉付きの良い初子を持ってきました。
すると神様はアベルとその献げ物に目を留めましたが、カインとその献げ物には目を留めませんでした。
実際に見える形で神様が現れて献げ物を受け取られたのか、天からの火のようなサインがあったのかはわかりません。
そしてなぜ神様がアベルとその献げ物だけを受け取られたのか、聖書はその理由を明らかにしていません。
カインにとってこれは不公平に思える出来事でした。カインは激しく怒って顔を伏せます。
神を見上げて礼拝しているか
カインに神様は問いかけます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。」
アダムが罪を犯した時にも神様はまず「どこにいるのか」「何をしたのか」と問いかけましたね。
カインに対しても悔い改めの機会を与えています。
その怒りは正しい怒りか。その怒りの裏にはどのような思いがあるのか。
聖書は、主が「カインとその献げ物」に目を留めなかったと書いています。
献げ物だけでなく、ささげた人をも問題にしています。
アベルは自然の中で羊を飼いながら、神様の恵みで自分たちも養われていることを感じていたかもしれません。
そして羊が赤ちゃんを産むとき、祈らずにはいられない。
神様が新しい命を与えてくださった。だから一番良いものを神様にささげようと思った。
アベルは神様を見上げ、信仰をもって礼拝しています。
カインは、父親のマネをしてきました。父親と一緒に土を耕し、種を蒔く。収穫を得たら神様にささげる。
カインは神様を見ていません。
だから献げ物の質などどうでも良いと思っています。ただ義務感で礼拝しているだけです。
罪に心を奪われてはいけない
カインがこの間違いに気づいて、神様を見上げて礼拝する者になればよかったです。
誰でも間違える。神様はよく知っています。
間違った道を進むとしても、間違いに気付くのが早ければ修正できます。
しかし間違った道を進み続けると取り返しのつかないことになります。
罪が戸口で待ち伏せています。
放っておくと取り返しのつかないことになります。
罪は私たちの心の扉をノックしてきます。
「お前は良くやったよ。これはお前が勝ち取った報酬だ。お前の好きに使え。」そうして神様のことを考えない高慢な心が入り込んできます。
「お前はこんなに努力しているのに正当な評価が得られない。それなのに世の中には遊んで暮らしているやつがいる。ズルいよな。妬ましいよな。」そうして他の人と比較して妬む心が入ってきます。
「こんなのは間違っている。正義の鉄槌を振り下ろせ。神の間違いをお前が正すのだ。」このような激しい怒りがわいてきます。
高慢、妬み、怒り。これはカインの心に入ってきたように、私たちの心に入ろうとしてきます。
戸口で待ち伏せている罪に、心を奪われてはいけません。
罪の声に惑わされないでください。
むしろキリストの声を聞いてください。
神様に対して心を開き、神様を見上げるのです。
もし心の中に人に対する悪い思いがあるなら、神様を見上げて礼拝することはできません。
23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
マタイによる福音書5:23-24
教会の誰かに不平不満を持ったまま礼拝はできません。
礼拝に来ていない人のことで腹を立てないでください。
ただ神様だけを見上げるとき、私たちは神に受け入れられる礼拝者になります。
罪が死を生む
人類最初の殺人事件

神様はカインに悔い改めの機会を与えましたが、カインはそれを拒みました。
そして激しい怒りは憎しみに変わります。
なぜ自由奔放に暮らしている弟が評価されるのか。
弟が憎い。あんなやついなくなればいい。
そうすれば自分が正当な評価を得られる。
カインは弟を消すことにしました。
そして弟を野原に誘い出し、殺します。
アベルが人類最初の死者です。死因は他殺です。殺したのは兄です。
アダムとエバはエデンの東で家庭を築き、働きながら生きてきました。
その結果が、兄弟間の殺人。
親として、子ども同士のケンカは見ていられません。それが殺人にまで発展してしまった。
なぜこんなことが?
始まりはアダムの罪です。
最初は小さな罪のように思ったかもしれない。
しかし罪は大きくなって死を生みます。
罪の悲惨さを思い知らされます。
知りません。わたしは弟の番人でしょうか。
主は再びカインに問います。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
もちろん神は知っています。アベルの血が土の中から神に向かって叫んでいます。
ここでも神は、カインが自ら罪を認めることを待っています。
ところがカインは言います。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
ただ罪を否認しただけではありません。愛するべき弟のことなど知らない。自分とは関係ない。そのような無関心な態度。あまりにも冷たい答えです。神がアベルを探しているというのに心配する素振りも見せません。
弟がいなくなってよかったとさえ思う
いなくなった弟を探す神の姿は、放蕩息子の父を思い起こさせます。
息子の帰りを待ち望んでいた父は、まだ遠く離れている息子を見つけて走り寄り、宴会を開きます。
放蕩息子にはお兄さんがいました。兄はいつも父の家にいて父の言いつけを守るいい子でした。
しかし彼は父の思いを理解していませんでした。
父はいなくなった弟を心配している。それなら兄が弟を探しに行くべきではないですか。
しかし兄は無関心でいます。
むしろ遊んで暮らしていた弟がいなくなり、これで父の愛を独占できると喜んでいたかもしれません。
そして兄は、弟が帰って来て宴会を開く父に怒ります。
キリストはいなくなった神の子たちを探す兄
私たちの心には「あんなやついなくてもいい」という無関心があります。
そして「あんなやついなくなれ」と思います。
神にとっては、いなくなってもいい人などいません。
だから失われた人を探して救うために御子キリストを送りました。
私たちのお兄さんが探しに来てくれました。
その愛を受け取り、互いに関心をもって祈り合い連絡を取り合っていきたいです。
平安を与えるしるし
神様はカインに罪の呪いを宣告します。
「土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
土を耕すことが仕事なのに、耕しても作物が得られない。どうやって生きていけばいいの。
しかしこれは自分がしたことの報いです。責任を負わなければなりません。
ところがカインは重すぎて負いきれないと逃げます。
自分が蒔いた種は自分が刈り取らないといけない。土を耕す者であったカインはよく知っているはずです。
神から離れると平安を失う
カインは「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」と心配しています。
誰を恐れているのでしょう?聖書には息子たちのことしか書かれていませんが、アダムとエバには娘たちがいたかもしれません。自分が兄弟を殺したように、自分も兄弟に殺されるかもしれない。そのような恐れがあります。
神から離れると平安を失います。
そんなカインに主はしるしをつけて守りました。
どのようなしるしだったかわかりませんが、神から守られているという平安が得られたでしょう。
正しい人を妬んで殺す
私たちも神から離れ、エデンの東で生きる者でした。
そこで私たちの心は高慢、妬み、怒り、無関心、恐れに捕らわれます。
神に従う人はそうではありません。彼らの心は愛、喜び、平安に満たされています。
彼らを見習い、私たちも神に従えばいいですね。
しかしそれができません。私たちは正しい人に妬みを覚えます。
そして彼らのように正しく生きられないので、正しい人を殺します。
イエス様の時代の宗教指導者たちはイエス・キリストを殺そうとしました。
イエス様が間違っていたからではありません。正しかったからです。
自分たちより正しいので、妬んで殺すことにしました。
私たちも同じことをします。
私たちが神の子を殺したのです。
私たちはその罪の責任を負わなければなりません。
重すぎて負いきれない罪をキリストが代わりに負った
しかしこの罪は重すぎて負いきれません。
大丈夫。この負いきれない罪を解決するためにこそ、イエス様は十字架で死なれたのです。
私たちの罪は十字架の血によって償われました。
そのしるしが私たちにつけられています。それが聖霊の証印です。
何か目に見えるしるしがあるわけではありませんが、「イエスは主」という信仰告白によって、私たちが既に聖霊を受けていることがわかります。
高慢、妬み、怒り、無関心、恐れに心を明け渡してはいけません。
心の真ん中に聖霊を迎え入れ、神の愛と赦しを受け取ってください。
もう私たちはエデンの東でさまよう者ではありません。神と共に歩む者です。
神と共に歩むなら、心は愛と平安に満たされます。
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