創世記11

神を求める弱い者

創世記 4:17-26

17 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。18 エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。19 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」25 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。26 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。

最強王とざんねんな生き物

 子ども向けの図鑑や辞典は色々な工夫がしてあります。写真やイラストが多く使われていたり、人気のキャラクターが登場するDVDがついていたりします。
 最強王図鑑というものもあります。動物や昆虫、恐竜などが架空の戦いを繰り広げます。実際に強さを比較することは難しいですが、その戦いの様子から動物の特徴について学ぶことができます。
 動物の生態だけでなく、小学生男子の生態をよく把握した図鑑です。強さにあこがれますよね。
 一方で、動物のざんねんな一面に注目した辞典もあります。
 人間から変な名前を付けられたなどの残念さもありますが、弱さというのもその動物を特徴づける魅力の一つになっています。
 私たち人間にも強さと弱さがあります。
 強みを生かし最強王を目指すのもいいですが、弱さを認めることも人間らしく生きる上で大切なのではないかと思います。

苦難の中での創意工夫

 アダムとエバの長男カインは弟アベルを殺しました。
 土はアベルの血を飲み込み、もうカインのために作物を実らせることはなくなります。
 彼は自分の罪の責任を負おうとしませんでしたが、神はカインにしるしをつけて守られます。
 地上をさまよう者となったカインは、エデンの東ノドの地に住みます。ノドという地名はさまようという意味があります。

さまようことをやめる

 カインには奥さんがいました。妹のうちの1人でしょうか。
 カインとその奥さんの間にはエノクという子が産まれます。
 ここでは1人の子しかいないように書かれていますが、実際には他の兄弟姉妹がいたと思ってください。
 重要な子孫へのつながりを際立たせるために、他の子は省略されています。

 カインは町を建てており、その町の名をこの子にちなんでエノクと名付けたとあります。
 あれ、カインはノドに住んだのでは?
 カインは神の前を去ってさまよう者になりました。
 しかしさまようことを止め、町を建ててそこに住む。
 神に対する抵抗だったかもしれません。

力強い若者レメク

 エノクはイラド、イラドはメフヤエル、メフヤエルはメトシャエル、メトシャエルはレメクを産みます。
 アダムとエバを初代の人間と数えるなら、レメクは7代目ということになります。頭の片隅に入れておいてください。

 レメクという名は、力強い若者という意味があります。
 実際にはつよしという名前の弱々しい人や体の大きな細井さんもいますが、聖書の登場人物はだいたい名前と特徴が一致します。
 レメクは生まれた時から力強かったのでしょう。でかい赤ちゃんで、泣き声も大きい。「おお、力強い子だ。この子の名はレメクだ!」みたいな。

結婚の改変

 レメクは成人すると、2人の奥さんと結婚します。
 さらっと当然のように書いていますが、当たり前じゃないですよね。
 前の前の章で神様が結婚という祝福を人間に与えてくださいました。それは一人の男性と一人の女性が結び合わされ、一体となるというものでした。
 それが一人の男性と複数の女性が結婚するというかたちに変わってしまっています。それでどうやって一体になれるというのでしょう。
 レメクは神が定めた結婚を勝手に変質させてしまいました。
 しかしこれが上手くいっていまいます。
 レメクにはこの歪んだ夫婦関係を維持する力強さと経済力がありました。そしてレメクの力強い血を受け継いだ子どもたちが多く生まれます。
 このモデルに従い、権力を持った男たちが複数の女性を妻にすることが一般化します。ヤコブ、ダビデ、ソロモンなども複数の妻がいました。

技術や文化の発展

 レメクの子どもたちの中でヤバルは家畜を飼いテントに住む遊牧民のようになり、ユバルは竪琴や笛を奏で、トバル・カインは青銅や鉄で道具を作る鍛冶職人になりました。
 先祖のカインは土を耕す者でした。しかし神の呪いによって土の実りが得られません。どうやって生きていけばよいのでしょう。
 アベルがしていたように家畜の世話をするという選択肢もあったでしょう。
 狩猟採集の生活という選択肢もあります。大きな動物を仕留め解体するためには道具が必要。そこで道具の改良がおこなわれました。
 神の呪いはカインの一族を苦しめる困難でした。
 しかしその逆境の中でカインの一族は工夫をし、新たな技術や文化を生み出していきます。
 また苦難の中で高ぶった思いは歌となり、世代を超えて受け継がれていきます。
 こうしてカインの一族からレメクの息子たちのように様々な職業の者たちが生まれてきました。

人間の発明も神から与えられたもの

 現代も人間は生きていく上での様々な課題を克服しようと技術や文化を発展させてきました。
 その中には神への反抗によって生み出されたものもありますが、すべてが悪いものとは言えません。
 人間は創意工夫することができますが、その力は神から与えられたものです。
 だから人間が生み出したものも、神から与えられたものとして感謝して用いることができます。
 実際、後の世代で神は臨在の幕屋というテントで現れ、礼拝では竪琴や青銅の道具が用いられました。レメクの息子たちが生み出したものが礼拝に使われています。

 イエス様はあらゆる病気や煩いを癒されました。だから信仰者は薬に頼らず癒しを祈るべきでしょうか。
 いいえ、イエス様はラオディキア教会に目薬を買えと言います。
 医療など科学技術も感謝して用いてください。

 技術革新によって礼拝のインターネット配信もできるようになりました。
 近年はAIの発展も目覚ましいです。
 これらをどう用いるかは知恵が必要ですが、神の栄光のため、隣人を愛するためによく用いていければと思います。

暴力ではなく平和のために用いる

 カインの一族にはそのような視点はありませんでした。
 神から離れ、神のいない世界で生きていきます。頼れるのは自分の力だけ。
 トバル・カインは青銅や鉄の道具を作りました。
 その中には動物を仕留め解体するための弓矢やナイフもあったでしょう。
 その矛先は動物だけでなく、人間にも向けられていきます。

 レメクは77倍の復讐をうたっています。
 カインのしるしは神が与えたものですが、レメクは自分で宣言しています。
 暴力による支配です。
 これはやがて人類全体を覆う思想になります。
 そして神の子を人間が作った道具で十字架につけて刺し貫くのです。

 今も力ある者が弱い者を支配しています。
 80年前には人間が作った兵器で世界中の人が殺し合いました。
 このような世界にあってキリストは罪の赦しを語ります。7の70倍も赦せと言います。
 暴力の連鎖を止められない弱い私たちですが、神から与えられた創意工夫という力を平和のために用いていきたいです。

どうしようもない弱さの中で神を求める

 息子たちを失ったアダムとエバはどうなったのでしょうか。
 神はアベルに代わる子、セトを授けてくださいました。

弱い者エノシュ

 そしてセトにはエノシュという子が産まれます。
 エノシュという名前は、弱い者という意味です。
 息子にそんな名前つけますか?よわいくんみたいな。
 生まれた時から弱々しくて、蚊の鳴くような声でやっと泣いた。「おお、やっと泣いた。お前はエノシュだ~。」このような誕生だったかもしれません。

主の御名を呼び始めた

 ざんねんな名前がつけられたエノシュですが、聖書はこのエノシュの時代から主の御名を呼び始めたと言います。人々が神を礼拝し始めたということです。
 礼拝自体は以前からありました。それはカインとアベルがしたように、感謝をささげる礼拝です。
 エノシュの時代からは、主の御名を呼び始めます。
 「主よ助けてください。」「主を憐れんでください」神様の助けを求める礼拝です。

 それはエノシュの弱さと関係があったのではないかと思います。
 父母は弱々しく生まれたエノクを元気づけようと、栄養のあるものを食べさせたり運動させたりする。風邪をひけば懸命に看病する。
 しかし親がどんなに愛を注いでも、小さく細く弱いエノシュを助けられるかどうかわからない。
 もう神を頼るしかありません。
 エノシュ自身も神を頼るしかありません。
 周りの同年代の子と比べて、自分の体は弱々しい。年下の子にできることも自分にはできない。元気な子にはからかわれる。
 そうした中で、エノシュも神様に祈るしかなくなります。

 苦難の中で人は創意工夫しますが、それではどうしようもない問題があります。
 そのような弱さに直面するとき、人は神を求めずにはいられなくなります。

弱さを通して神の業が現れる

 あるところに生まれつき目が見えない人がいました。これも一つの弱さです。
 力強さが重視される価値観の中では、このような弱さは呪いのように思えます。
 弟子たちも何かの罪の呪いだと思いました。
 しかしイエス様は、この人の目が見えないのは罪の呪いではなく、神の業がこの人に現れるためだと言います。
 弱さは呪いなどではありません。

 私たちも弱さに直面することがあります。
 人が生きていくということはなぜこんなに苦しいのだろうかと思わされます。
 弱さを隠そうとして虚勢を張ることもあるし、弱い自分を惨めに思うこともあります。
 しかし弱さを恥じる必要はありません。素直に「できません」「わかりません」と弱さを認めていいです。
 この弱さがあるからこそ、人は創意工夫という神から与えられた力を生かすことができます。
 そして神の力強さを体験します。

ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

コリントの信徒への手紙二12:9

弱さを誇る

 ある人は「神を頼るなんて弱い者のすることだ」「宗教は弱い人がはまるものだ」と嘲ります。
 いいでしょう。私たちは弱い者です。
 だから神を頼ります。
 どうしようもない罪人だからイエス様の救いが必要なのです。
 私たちはむしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 私たちは弱いからこそ、この世界で生きていくことが苦しいからこそ、神を求めます。
 そこに神の力が現れます。
 私たちは神を求める弱い者です。


0件のコメント

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください