創世記12

神と共に歩む

創世記 5:1-32

1 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、2 男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。3 アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。4 アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。5 アダムは九百三十年生き、そして死んだ。6 セトは百五歳になったとき、エノシュをもうけた。7 セトは、エノシュが生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。8 セトは九百十二年生き、そして死んだ。9 エノシュは九十歳になったとき、ケナンをもうけた。10 エノシュは、ケナンが生まれた後八百十五年生きて、息子や娘をもうけた。11 エノシュは九百五年生き、そして死んだ。12 ケナンは七十歳になったとき、マハラルエルをもうけた。13 ケナンは、マハラルエルが生まれた後八百四十年生きて、息子や娘をもうけた。14 ケナンは九百十年生き、そして死んだ。15 マハラルエルは六十五歳になったとき、イエレドをもうけた。16 マハラルエルは、イエレドが生まれた後八百三十年生きて、息子や娘をもうけた。17 マハラルエルは八百九十五年生き、そして死んだ。18 イエレドは百六十二歳になったとき、エノクをもうけた。19 イエレドは、エノクが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。20 イエレドは九百六十二年生き、そして死んだ。21 エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。22 エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。23 エノクは三百六十五年生きた。24 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。25 メトシェラは百八十七歳になったとき、レメクをもうけた。26 メトシェラは、レメクが生まれた後七百八十二年生きて、息子や娘をもうけた。27 メトシェラは九百六十九年生き、そして死んだ。28 レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。29 彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。30 レメクは、ノアが生まれた後五百九十五年生きて、息子や娘をもうけた。31 レメクは七百七十七年生き、そして死んだ。32 ノアは五百歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた。

死の呪いを打ち破る

アダム時代のダイジェスト

 今日の本文は長いですが、第5章全体を扱います。これはアダムの系図です。
 このように「誰々の系図」という表現が創世記に何度か出てきます。この言葉が一つの時代の区切りのようになっています。
 ここでは天地創造から始まるアダムの時代が幕を閉じ、次の時代につながっていきます。

 神様は人を、神に似た、神にかたどった神のかたちとして、男と女に造りました。この系図に女性の名前は出てきませんが、男性も女性も対等に神様に祝福された存在です。
 またこの系図には書かれていませんが、アダムが罪を犯したためにすべての人は罪の呪いの中にあります。大地は呪われ、人は顔に汗を流してパンを得ることになりました。

親に似た子を神が与えてくださった

 アダムが130歳の時に息子のセトが生まれました。
 セトはアダムにとって、自分に似た、自分にかたどった息子でした。
 神が人を造ったときの表現が繰り返されています。
 子どもが親に似るというのは現代では遺伝子などで説明できます。
 神が人をご自分に似せて造られたように、親に似た者として神が子どもを与えてくださった。
 そのように神がこの子を与えてくださったという視点も大事でしょう。

長生きの時代

 セトは3番目の息子です。上にカインとアベルがいました。しかしアベルは殺され、カインは神から離れて生きています。
 他の人も何人か息子や娘がいる中で、代表的な子孫の名前を書き記しているのでしょう。
 それにしても高齢出産ですよね。130歳で父親になる?現代では考えられません。先に死んでいますよ。
 他の人も、若い人でも65歳、ノアにいたっては500歳で父親になっています。どういうこと?
 この系図は代表的な子孫を記録しているので、実際の息子ではなく孫やひ孫などの子孫を記録した可能性もあります。
 しかし前の章を見れば、明らかにセトはアダムの息子です。

 亡くなった年を見ても、アダムは930歳、メトシェラは969歳です。約1000年。木ですか。
 この年齢も実際の年齢ではなく何世代かをまとめた年数ではないかと言われることもあります。
 しかしエノクやノアは、明らかに個人の年齢として書かれています。
 他にも年齢の数え方が今と違ったのではないかという説もありますが、それでもアダムは長生きです。

 生まれた年を足していくと、誰が何年に生まれたかを計算できます。
 アダムが造られたのを0年とすると、セトが生まれたのは130年、エノシュは235年、そしてレメクは874年です。

 アダムは930年に亡くなりますから、レメクの誕生まで生き延びていたことになります。
 レメクは9世代目になります。
 4世代目のひ孫を目にするご長寿の方はいても、9世代目はないでしょう。

 無理やり今の感覚に合わせようとしないで、この時代の人たちは神様がそうデザインされたのだと思ってください。
 あの弱い者エノシュも905歳まで生きています。長生きできてよかったですね。
 たとえ高齢出産でもこれだけ長生きして息子や娘が生まれれば、人は産んで増えて地に満ちていったことでしょう。

アダムの死

 そんな長生きのアダムにも最期が来ます。
 これまで聖書の中で明確に死が描かれているのはアベルだけです。それから800年以上は、人が死ぬということがなかったかもしれません。
 しかしアダムも年老い、土を耕せなくなる。体力が落ち、寝ていることが多くなる。食事ものどを通らなくなり、やがて息を引き取る。
 神がその鼻に息を吹き入れて生きる者になったアダムは、その息を神様にお返ししました。
 そして土の塵から造られたその体は次の世代の人々の手で葬られ、土に返っていきました。
 人はいつか死ぬ。
 神の呪いとして空しい死がやってくる。
 その現実を人々は目の当たりにしました。

死を経験しなかったエノク

 系図を見れば、何年生き、そして死んだと繰り返し出てきます。アダム以降の人も死んでいきました。
 死はすべての人に襲いかかります。
 しかし例外もあります。
 エノクについては、死んだとは書かれていません。
 「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」と書かれています。
 神が取られたのでいなくなった…。神隠し?
 聖書には他にも、預言者エリヤが生きたまま火の戦車と共に天に上げられたという例があります。
 死を経験しない人がいました。

 この系図の中では、アダムの次にエノクがいなくなっています。
 アダムの死を目の当たりにした人々は、エノクが神に取られていなくなったことで、死の呪いにも解決策があることを知ったでしょう。
 その解決は神にあります。

神と共に生きる永遠の命

 死の呪いの解決を明確に示したのはイエス・キリストです。
 イエス・キリストは私たちと同じ人として生きました。そして十字架で息を引き取り、死にました。
 生きて死ぬ。人が誰しも通る道です。
 しかしイエス・キリストは死んで終わりではありませんでした。
 復活したのです。
 私たちの罪を取り除くために十字架で死なれたキリストは、死の力をも打ち破りました。
 私たちも生きて死にます。
 しかしキリストに結ばれた私たちは神と共に永遠に生きます。

25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

ヨハネによる福音書11:25-26

 キリストに結ばれるとき、死は空しい終わりではなくなります。

この世に流されない

 エノクについてもう少し見ていきます。
 エノクという名前には従う者、後継者という意味があります。
 カインの息子の名前もエノクでしたね。この場合は後継者、カインの跡を継ぐ者ということでしょう。
 この系図に出てくるエノクは誰に従う者だったのでしょうか。
 それは神です。
 エノクは神に従い、神様の御足の跡に従う者でした。
 それが神と共に歩んだということです。

神を知らない世の影響力

 それは簡単なことではありませんでした。
 エノクは、アダムを第1世代とすると7世代目に当たります。
 先週見たカインの子孫たちの中では、レメクも7世代目でした。同世代です。住んでいた地域は違ったでしょうが、生きていた年代は重なっていたと思います。
 自分の力を頼りとし暴力による支配をうたっていたレメクと、神と共に歩むエノクが同じ時代に生きていました。
 カインの一族はその時代の技術や文化の先駆者でした。大きな富と権力を築いていたに違いありません。この世で影響力を持っていました。現代でもそのような影響力のあるセレブ達がいますね。
 その中で神に従うことは簡単ではありません。

 私たちもこの世の影響を受けます。
 この世の価値観があります。この世は神などいない、神は死んだと私たちに思わせます。そして神を頼っても無駄だと思わせてきます。
 私たちも日頃の生活の中で目の前の仕事、勉強、経済的な問題などに心を奪われ、神を見失います。
 この世の価値観に従って自分を頼りに生きることに安心感を覚えます。あえて周りの99%と逆行する生き方をして摩擦を生むより、流された方がいい。
 その行き着く先がただ空しさであることに目をつぶって。

共にいる神を信頼する

 神はいない、神は死んだなどというウソに惑わされないでください。
 神は、インマヌエルです。私たちと共にいる神です。
 確かに神は死にましたが、復活し今も生きておられます。
 神は私たちのことを知っておられ、神を求める私たちの祈りに報いてくださいます。

 私たちは迷い、悩み、道を踏み外します。神と共に歩むことができません。
 それでもイエス様は私たちを見捨てず、共に歩んでくださいます。
 神様の方が私たちの歩みに付き合ってくださる。
 私たちがイエス様を見失っても、イエス様は共にいます。
 このお方を信頼して生きることが神に喜ばれる道です。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

ヘブライ人への手紙11:6

 信仰によって私たちは神と共に歩みます。もうこの世に流されない。
 イエスが神の子であるという信仰によって、私たちは世に打ち勝ちます。

神の心を行っていく

神と共に歩む人は世界の希望

 最後にノアについて少し触れます。
 ノアが生まれたのはエノクが天に上げられた後です。
 ノアの父レメクにとっては、偉大な信仰の父を失った気持ちだったでしょう。
 罪によって呪われた世界で生きていく人たちにとって、エノクのような信仰者は大きな希望だったでしょう。
 それで生まれて来る息子にも、そのような希望になってほしいという願いを込めて名前を付けました。
 ノアという名前の元の意味は休みです。レメクはそこに慰めという意味を付け加えました。
 神を無視する人たちが増え広がる世界の中で、純粋に神に従う者の存在が希望になります。

キリストの愛と悩みを知る

 今この時代にあって神と共に歩む人の存在が希望になります。
 そのような人がいるところに、キリストは共にいます。
 キリストは私たちと共に歩んでくださいます。私たちの歩みにキリストが歩調を合わせてくださる。
 私たちもキリストと共に歩みましょう。キリストの歩みに私たちが歩調を合わせるのです。
 そのためにはキリストの心を知る必要があります。

 イエス様の愛はどこに向けられているでしょうか。
 イエス様はこの世界をご覧になってどこに心を痛めておられるでしょうか。
 イエス様の愛と悩みを知るとき、私たちはイエス様が見ているところに目を注ぎ、イエス様が聞こうとする声に耳を傾け、イエス様が助けようとする人に手を差し伸べ、イエス様が向かおうとする道を歩んで行けます。

 私たちがこのようにキリストと共に歩むなら、そこに神の国が現れます。
 私たちが歩む一歩一歩で、神の国がこの地に広がります。


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