創世記14
悔いなく生きるために
創世記 6:9-22
9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。10 ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。11 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。12 神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。13 神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。14 あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。15 次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、16 箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。17 見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。18 わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。19 また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。20 それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。21 更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」22 ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。
後悔はあっても思い残すことはない人生
神と共に歩んだノア
創世記6章からはノアの物語になります。
ノアの名前は5章の最後から出ていましたが、ここでもノアのことが紹介されています。
ノアは神に従う無垢な人、神と共に歩む人でした。神に取られていなくなったエノクと同じ表現が使われています。
5章の記述によると、この時ノアの年齢は500歳。セム、ハム、ヤフェトという3人の息子がいました。
同世代の人たちはいつも心に悪いことを思い計っていましたが、ノアだけは神に従っていました。
人の罪があらゆる被造物を破滅へ導く

神様が地上を見ると、そこは堕落していました。自ら破滅への道を進んでいたということです。
神はこの状況を放っておきません。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」と神は言います。
先週、この時代の人口を計算してみました。私の計算では約52億人です。その内の1名を除いて皆が神に背いているわけです。
ここで神は人を滅ぼすと言わずに、すべて肉なるものを終わらせると言っています。人間だけではなく動物や鳥なども対象に含まれています。
動物たちは霊的なものとして造られていないので、神に背いて罪を犯すという概念には当てはまりません。あくまで罪は人間の問題です。
その人間の堕落の影響が、動物たちや自然などあらゆる被造物を破滅へと向かわせているということです。
腐ったミカンが他のミカンを腐らせてしまうように、悪をもたらす人間を取り除かなければ世界全体が壊れてしまいます。
それで神は一度この世界を滅ぼし、罪の影響を洗い流そうとしています。
神は心を痛めている
神は世界の創造主であり、すべてを治める主権者です。リセットボタンを押して「はじめから」やり直すことができます。
できますが、神はいきなり世界を終わらせるようなことはしません。
ニネベの人々が悪の道を進んでいた時、神はヨナを通してニネベの滅びを伝えました。神はニネベの12万人を大切に思っていたからです。
それならば神が52億の人々を簡単に滅ぼせるわけがありません。その中の一人でも滅びることは、天の父の御心ではありません。
それで120年の猶予を与えました。
救い主によって過ちの多い人生も贖われる
終わりを意識することで人生の歩みを振り返ります。すると自分の間違いに気づきます。それで神に立ち帰ります。
これを何度も繰り返します。人生は後悔の連続です。
悔いなく生きるという主題ですが、残念ながら後悔のない人生はないです。
しかし人生の最期に思い残すことなく逝くことはできます。

シメオンというおじいさんがいました。
彼は救い主を見るまで死なないとお告げを受けていました。
彼が神殿にいるとき、ヨセフとマリアが生まれたばかりのイエス様を連れてきます。
マリアの腕に抱かれる赤ちゃんを見たシメオンはこう言いました。
29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
ルカによる福音書2:29-30
安らかに去る。安心して死ねる。もう思い残すことはない。
シメオンは悔いのない最期を迎えたということです。
彼も人間だから間違えることがあったはずです。たくさんの後悔があったでしょう。なぜ自分だけ生き続けていて、他の人が先に逝ってしまったのかというもどかしさもあったかもしれません。
それでも救い主に出会ったなら、悔いはありません。
これまでの間違いも悲しみも贖われます。
私たちの過去の出来事は変えられません。
しかしイエス・キリストに出会うとその出来事の解釈が変わります。
天国の希望をもって過去を振り返るなら、すべてが神の御手の中にあったことがわかります。
間違えたことは後悔ではなく感謝に変わるのです。
私たちの人生が後悔の連続だとしても、救い主に出会ったなら思い残すことはありません。
残された時間を救いの計画のためにささげる
神はご自分の計画を人に伝える必要がありません。
しかしノアに話します。
アブラハムやヨナにもご自分の計画を話しました。
神がソドムとゴモラを滅ぼそうとしていると聞いてアブラハムは、「あの町に正しい人が10人いても滅ぼすのですか」と執り成しました。
悪に染まったニネベの街を滅ぼすと神からのメッセージを受け取ったヨナは逃げます。神の言葉を伝えれば、憎いニネベの人が悔い改めて救われてしまうからです。
神がご自分の計画を話すとき、人にしてもらいたいことがあります。
神がここでご自分の計画を話したのは、ノアにしてもらいたいことがあるからです。
それは箱舟を造るということです。
自分だけが救われてもうれしくない
この世代の中で、ノアは神と共に歩んでいました。
神と共に歩んだエノクは、神が取られたのでいなくなりました。
ノアも神と共に歩んだのだから、死を経験しないように天に移されてもよかったですよね。120年待たなくても救いは確定しています。
それで先にノアだけが天に上げられたらどうでしょう。
うれしいですか?自分だけ救われて。家族も友だちも救われなかったら。
自分が救われるのはうれしいですが、自分だけが救われるのはうれしくありません。
正しい人ノアは、自分だけ救われればいいなどと思いません。

それで神はノアだけを救おうとはせず、ノアを通して世界を救う計画を立てました。
それが箱舟です。
タンカーのような巨大な船です。
1アンマを0.5mとすると、長さ150m、幅25m、高さは3階建てで15mになります。ここも3階建てですが、この教会より高さがあります。
そこに家族や動物たちが入ります。
たとえ世界が滅んでもノアとその家族、動物たちは救われます。
力、時間、富を箱舟建造に費やす
ノアは100年ほどの残された時間で神から命じられたことを果たしていきます。
神がノアに示した設計図は曖昧なので、このままでは造れません。材料の種類と全体のサイズだけではどうしていいかわからないですね。
だからノアは様々な人の手も借りながら、持てる知力と体力を総動員して造ったでしょう。
時間もかかります。
材料費に人件費、莫大なお金が必要になります。
ノアは自分に与えられたものすべてをささげて箱舟を造ったことでしょう。
誰かのために生きる
私たちの人生にも終わりが来ます。
残された時間をどのように使いたいですか。
1回限りの自分の人生ですから、自分の好きなことしたいことのために使いたいという方もいますね。

先日私は、北九州にある東八幡バプテスト教会の奥田知志先生の講演を聞いてきました。
お話の中でマララ・ユスフザイさんのことを紹介していました。
彼女はパキスタンのタリバンが支配する地域で暮らしていました。タリバンの支配下では女性の権利が制限されてしまいます。
マララさんは11歳の時に、タリバン支配下の人々の状況をブログで発信しました。それがイギリスのBBCの目に留まり、世界の注目を集めます。
16歳の時には国連総会で演説をしました。
そして17歳でノーベル平和賞を最年少受賞します。
なぜこの子はこんなことができたのだろう。奥田先生は友人の脳科学者である茂木健一郎先生に聞きました。
すると茂木先生はこのように言ったそうです。
「人間の脳は持っている力を十分に発揮していない。自分のことだけを考えて生きるなら、脳は省エネモードに入って自分が生きる分の力しか出さない。しかし人のために生きようとするなら、その人の分の力も発揮できる。もし世界のために何かをしようとするなら、脳は無限の力を発揮する。」
私たち人間には神から分け与えられた力があります。
自分の持っている力、時間、富を自分のためだけに使うなら、自分の分しかその力を発揮できません。
もし誰かのために生きようとするなら、本来の力を発揮できます。
世界を救おうなんて思わなくてもいいです。ただ目の前の誰かを救いたい。家族を、あるいは友人を救いたい。目の前で困っているこの一人を救いたい。そのような愛に生きる時、私たちの内から大きな力が湧いてきます。
それは誰かのために生きる人生と言うこともできますが、誰かのために死ぬ人生とも言えます。
皆さんは、自分の命をかけてでも愛したい人が1人でもいますか。
救いの計画を成し遂げるために生きて死んだキリスト
イエス・キリストは全く自分のために生きようとしませんでした。ただ神の御心を行い、人々を救うために生きました。いや、神の救いの計画を成し遂げ私たちを生かすために、イエス・キリストは死にました。
今私たちが生きているのは、キリストの愛のゆえです。
それならば、私たちはこの命をどのように使いますか。どのような人生を送りますか。
もう自分のために生きようとはせず、命を与えてくださった主のために命を使いたいと思うようになりませんか。
7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
ローマの信徒への手紙14:7-8
私たちはキリストの血潮で買い取られた神のもの。
もう自分のために生きることも、自分のために死ぬこともしない。
ただ主のために生き、主のために死ぬ。
この人生を主のためにささげます。
誰かをキリストに導くなら思い残すことはない
神と共に歩んだノアは、神から与えられた命を神のためにささげました。
神から与えられた力を、救いの計画を成し遂げるために使いました。
それが箱舟です。
そしてノアは、すべて神が命じられたとおりに果たしました。
まだノアの人生は終わっていませんが、神から任されたことを果たしたとき、思い残すことはなかったでしょう。
私たちの人生にも、神から任されてことがあります。
それは人によって違いますが、神の救いの計画を成し遂げるための役割があります。
誰か一人でもいい。誰かの救いのためにこの人生をささげるなら、これ以上に有意義なことはありません。
そのような人生を歩んだなら、最期に私たちは言うでしょう。
「わが人生に一片の悔いなし」と。
0件のコメント