創世記22

信仰の旅を続けよ

創世記 11:10-32

10 セムの系図は次のとおりである。セムが百歳になったとき、アルパクシャドが生まれた。それは洪水の二年後のことであった。11 セムは、アルパクシャドが生まれた後五百年生きて、息子や娘をもうけた。12 アルパクシャドが三十五歳になったとき、シェラが生まれた。13 アルパクシャドは、シェラが生まれた後四百三年生きて、息子や娘をもうけた。14 シェラが三十歳になったとき、エベルが生まれた。15 シェラは、エベルが生まれた後四百三年生きて、息子や娘をもうけた。16 エベルが三十四歳になったとき、ペレグが生まれた。17 エベルは、ペレグが生まれた後四百三十年生きて、息子や娘をもうけた。18 ペレグが三十歳になったとき、レウが生まれた。19 ペレグは、レウが生まれた後二百九年生きて、息子や娘をもうけた。20 レウが三十二歳になったとき、セルグが生まれた。21 レウは、セルグが生まれた後二百七年生きて、息子や娘をもうけた。22 セルグが三十歳になったとき、ナホルが生まれた。23 セルグは、ナホルが生まれた後二百年生きて、息子や娘をもうけた。24 ナホルが二十九歳になったとき、テラが生まれた。25 ナホルは、テラが生まれた後百十九年生きて、息子や娘をもうけた。26 テラが七十歳になったとき、アブラム、ナホル、ハランが生まれた。27 テラの系図は次のとおりである。テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた。ハランにはロトが生まれた。28 ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。29 アブラムとナホルはそれぞれ妻をめとった。アブラムの妻の名はサライ、ナホルの妻の名はミルカといった。ミルカはハランの娘である。ハランはミルカとイスカの父であった。30 サライは不妊の女で、子供ができなかった。31 テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。32 テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。

世代を越えて実現する神の約束

 今日の本文はセムの系図とテラの系図。
 以前も話しましたが、これが一つの時代の区切りになります。
 洪水後にノアの3人の息子たちが世界中に広がっていく。バベルの塔の事件をきっかけに言語が分かれ、様々な民族集団が生まれる。
 それぞれの民族には、その集団をまとめるリーダーが必要になってきます。
 聖書は様々な民族の中からヘブライ人に焦点を当て、その族長に注目していきます。族長時代の始まりです。

ヘブライ人に至る系図

 セムからぺレグまでは10章のノアの系図にも出てきました。
 エベルにはぺレグとヨクタンという2人の息子がいました。
 ノアの系図ではぺレグの時代に土地が分けられたとありました。これがバベルの塔の事件を表しているという説があります。
 ここが1つの分岐点になり、ヨクタンの子孫は東の高原地帯に住むようになりました。アラビア半島の方に広がっていったようです。

 ヨクタンの兄ぺレグは、ユーフラテス川とハブール川の合流地点にあったファルガという町に関連があると言われています。今のシリア東部です。
 チグリス・ユーフラテス川の流域にはニムロドが進出し、バベルやニネベなどの都市を作りました。
 ノアの系図ではぺレグの子孫ではなくヨクタンの子孫を記録しています。それはヨクタンの子孫たちがそれぞれ定住する土地を見つけ、その名前を残しているからだと思われます。
 ぺレグの子孫はどこかに定住するのではなく、都市の中、あるいは都市の周辺を移動しさまよう民になったのかもしれません。
 そしてぺレグの父エベルの名を取ってへブル人、ヘブライ人と呼ばれるようになりました。
 その名前の意味は、越える民、境界線を持たずさまよう民です。

低年齢化

 ヘブライ人たちはユーフラテス川を下り、テラの時代には下流の都市ウルに定住するようになりました。
 ここまでどういうドラマがあってウルに移動してきたのか。そういう歴史も気になるところですが、私はやはり数字に目が行きます。

 セムは100歳でアルパクシャドを産んだとあります。それは洪水の2年後であったと。
 しかし洪水の100年前には既にセムは生まれていますので、洪水の2年後には少なくとも102歳は越えています。
 年を取ると自分が何歳かわからなくなることありますよね。
 100歳を越えて父親になるというのはあり得ないという聖書記者の意図もうかがえます。

 セムはその後500年生きたので、600歳で亡くなります。さすが、洪水前に生まれた人は長生きです。
 しかし洪水前の寿命はだいたい900歳でしたから、だいぶ短くなったとも言えます。
 その後アルパクシャドからエベルまでは450歳前後で亡くなり、ぺレグからセルグまでは230歳ほどでなくなります。
 徐々に寿命が短くなっていきます。

 父親になる年齢はアルパクシャドから一気に若くなり、30歳前後になります。
 現代人と大差ないですね。私も31歳で父になりました。

 テラについては70歳でアブラム、ナホル、ハランが生まれたとあります。
 そして205歳で亡くなります。
 するとアブラムは父が亡くなったとき、135歳以上です。
 しかし12章を見るとアブラムは75歳です。
 あれ?
 アブラムは末っ子で、テラの130歳の時の子だとする説があります。しかしテラが130歳で父親になったとしたら、その子が100歳を越えて父親になっても違和感はありません。
 恐らくテラは145歳までに亡くなっていたのでしょう。そのように記録された写本も見つかっています。
 すると70歳を越えて父親になることはあり得ないと感じられますし、寿命が150歳以下まで下がっています。

人の一生は120年

 数字の話をし過ぎました。
 神様はそんな謎解きをさせるために聖書を記録したのではありません。
 数字から深い意味を読み取ろうとしなくていいです。

 ここで注目したいのは、創世記6章3節の言葉です。
 「こうして人の一生は百二十年となった。」
 この約束が世代を越えて徐々に成し遂げられていっていることがわかります。
 族長時代までは120歳を越えますが、モーセ以降は120歳以下になります。
 現代は栄養状態の改善や医療技術の進歩で寿命は延びていますが、今のところ120歳以上生きている人はいません。

約束の実現を待ち望む

 神様の約束は世代を越えて成し遂げられます。

The praise of Simeon

 イスラエルの民は救い主メシアが来るという約束を受け取りました。
 その実現まで何百年も待ち続けました。
 そして来られたのがイエス・キリストです。
 国が滅亡し預言が与えられない時代が続いても、シメオンのように救いを待ち望む信仰者たちがいました。

 今日からアドベントに入ります。日本語では待降節。クリスマスを待ち望む季節です。
 神様の約束は必ず成し遂げられると信じて待ち望みましょう。
 皆さんはどのような約束を待ち望んでいますか。
 家族の救いや神の国の到来。
 まだその実現の可能性が見えなくても、神様に期待してください。
 信じて祈るなら、その通りになります。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

ヘブライ人への手紙11:1

神を見失った世代

 次に、テラの系図に注目します。
 テラにはアブラム、ナホル、ハランという3人の息子が与えられました。
 ハランにはロトという息子がいましたが、早くに亡くなります。
 ナホルは結婚が遅く、ハランの娘ミルカと結婚します。自分の姪ですよね。今ではアウトですが、やむを得ない事情があったのでしょう。
 このナホルは後に自分の名の付く町を建てます。有能な人だったのでしょう。
 ナホルとミルカは創世記の後の方でまた出てきますが、今日はここまで。

偶像崇拝に染まる

ウルのジッグラト

 テラの一家はカルデアのウルに住んでいました。
 ジッグラトという、バベルの塔を思わせるレンガとアスファルトで建てられた遺跡がある都市です。かつてはその都市の守護神をまつる神殿であったと言われています。
 ウルは月の神を崇拝していました。

 ヨシュア記24章2節を見ると、テラの一家は他の神々を拝んでいたとあります。
 主なる神様だけが唯一の神ですが、バベルの塔の事件以後、様々な言語、民族に分かれ、それぞれの神々を作り出していってしまいました。
 テラの家族も偶像崇拝の都市に住み、月の神を拝むようになってしまいました。

見えない神の導きがある

 テラはアブラムとその妻のサラ、ハランの子であるロトを連れてカルデアのウルを出ます。
 どのような事情があったかわかりません。
 歴史的には、エラム人の侵略によって王朝が滅亡しています。このような外的な事情で西方に逃げたのかもしれません。
 しかし初代教会の執事ステファノは、アブラムが神の召命を受けてカルデアを出たのだと説明します。
 主なる神様は偶像崇拝の街の偶像崇拝の家庭にいたアブラムに出会い、彼を召し出す。そして約束の地へと導く。
 外的な事情で仕方なく起こったような出来事の中にも、神様の導きが隠されています。

混乱や妥協の人生

 ウルを出たテラはハランに移住します。
 ハランはニネベの北西、ダマスコの北北東にあり、東西南北の交易路が交わる商業都市です。
 若くして亡くなった息子と同じ名前の都市。そしてそこはウルと同じく、月の神シンを崇拝する都市でした。
 テラはウルを出てもかつての生き方を捨てられず、ウルを懐かしむことのできるハランに留まります。
 そしてそこで亡くなります。

 神様に召し出されても、その信仰の旅を歩み続けるのは簡単ではありません。
 家族への思い、経済的な安定、そういったものが私たちに絡みついてきます。神ではないものを神として頼ってしまう弱さもあります。
 そうすると私たちはどこへ進めばいいか見失い、空しい人生をさまよいます。

 創世記11章は神を見失った人々の話です。
 ある人たちは高ぶって神に挑み、混乱した人生を歩む。
 ある人たちはさまよい、信仰の旅を止めてしまう。
 神を見失った人生は、そのように混乱や妥協に終わります。

キリストを見上げて歩む

 大事なのは神様を見続けることです。
 神様への信頼なしに、信仰の旅を続けることはできません。

 時にはさまようこともあります。神様だけを見て迷わない人生を送れる人はいません。

 イエス様が十字架で殺されてしまった後、弟子たちはさまよい、エマオ村に向かいました。
 その旅の間もイエス様は共に歩んでくださっていました。
 イエス様は私たちが信仰に迷う時であっても共にいます。インマヌエルの神です。
 イエス様を見上げて信仰の旅を続けましょう。

1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

ヘブライ人への手紙12:1-2

 人々との出会い、見聞きしたこと、思いがけない出来事。その中にも神様からのささやきが隠されています。
 目の前のことに心を奪われないで、過去に引きずられないで、神様を見上げてください。
 神の玉座の右には復活し天に上げられたイエス様がいます。
 この方が私たちの信仰の初めであり終わり。目指すべきゴールです。
 イエス様に焦点を合わせ、信仰の旅路を歩んでください。


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