創世記24

自己保身のためのウソ

創世記 12:10-20

10 その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。11 エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。12 エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。13 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」14 アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。15 ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。16 アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。17 ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。18 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。19 なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」20 ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。

ちょっと遅れる

 皆さんこういう経験はありませんか。
 朝8時に集まる約束をしていたのに、7時半まで寝てしまった。
 急いで準備をするが、絶対に間に合わない。それで「ごめん、ちょっと遅れる」と連絡を入れる。ちょっとどころか相当遅れそうなのに。
 8時5分くらいになって友だちから「どれくらいで着く?」と連絡が来る。
 「今急いで向かってる!」と返事。後少しで着きますよという雰囲気を出すが、具体的には答えない。だって今家を出たばかり。
 もう5分後に「今どこ?」と連絡が来る。もしかしたら近くで迷っているかもしれないと心配してくれている。いい友だちだ。でも全然近くない。
 「あと少し!」少しの感覚は人によって違う。2~3分の人もいる。私には10~20分も少しだ。
 5分後に友だちから電話。スマホがブルブル震えているのがわかる。
 この電話に出たら何を言われるか想像がつく。自分の足もブルブルしている。ここで立ち止まったら友だちをもっと待たせてしまう。今は前に進むんだ!自分を奮い立たせて電話は無視。

 ひどいやつだと思いますよね。
 でも共感する人もいるのでは。
 私自身はと言うと、全くの作り話ならここまで真実味のある心情は描けなかったでしょう。
 ウソはついていません。
 しかし曖昧な返事をして真実を隠しています。
 自分を守るために真実をごまかし、相手をだますのです。
 その場では怒られずに済みますが、信用を無くします。
 自己保身のためのウソは、後で自分を苦しめます。

自分を守り周りの人を傷つける

 聖書は人間の罪を赤裸々に記録しています。
 初めの人アダムも、正しい人ノアも間違いを犯しました。
 アブラムは後に信仰の父として尊敬を集めることになりますが、彼も度々失敗しました。

ネゲブを飢饉が襲いエジプトへ

 アブラムは神様の召命を受け、父の家があるハランを出て信仰の旅を始めました。そしてカナンを縦断しネゲブまで来ました。
 そこでひどい飢饉に襲われます。
 アブラムは族長として家族、しもべ、家畜たちを養わなければなりません。食料を求めて移動しなければなりません。
 ハランやウルのようなメソポタミアの都市にはきっと食料がある。
 しかし「生まれ故郷、父の家を離れて」という神様の指示に反することになる。
 それでアブラムはエジプトに向かいます。

アブラムの心配

 エジプトに向かう道中、アブラムは考えました。
 エジプトはナイルという大河があり、豊かな国。
 神様が約束した土地はここではないか。エジプトで私は大いなる国民になり、祝福の源になる。
 それならエジプトの王ファラオ様にも挨拶しなければ。

 そのように思い巡らしながら仲間たちを見渡す。
 そのとき、隣にいるサライと目が合いました。
 いや、いつ見ても美しいな。結婚して数十年経つけれど、相変わらず美しい妻にメロメロです。若い時とは違う、成熟した大人の美しさがあります。65歳とは思えません。

 そこでアブラムはあることを思い出しました。
 エジプトの王家には後宮という制度がありました。複数の女性をファラオの奥さんにして、後継者を産ませるのです。
 ファラオが気に入った独身女性は後宮に呼ばれます。それは名誉なことで、その女性の実家にはたくさんの褒美が与えられます。

 もしサライを連れてエジプトに入ったらどうなるだろう。
 きっと彼女の美しさは評判になり、後宮に呼ばれる。
 しかし後宮に呼ばれるのは独身女性でなければならない。私がサライの夫だとわかれば、私は消される。
 すごい想像力ですよね。先を見通す力があります。さすが信仰の父。
 というか妄想の父。

 それでアブラムはサライにお願いしました。「どうか、わたしの妹だ、と言ってください。」
 どうやらこれはウソではないようです。後にアブラムが証言していますが、母親は違うけれど、アブラムもサライもテラの子だそうです。
 しかし妻であるという大事な真実を隠しています。

妻を妹と偽り自分を守る

 アブラムの想像は現実になりました。
 アブラムたちがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て大変美しいと思いました。ファラオの家臣にも見つかり、後宮にスカウトされます。
 ファラオとの面談のとき、アブラムはサライとの関係を聞かれて「妹です」と答えたので、サライは問題なくファラオの妻の1人になりました。
 アブラムは殺されずに済み、たくさんの褒美を受けます。

 ここまではアブラムの考えた通りです。上手くいきました。アブラムは幸いになり、命は助かった。
 しかしサライはどうでしょう。
 夫から引き離され、外国の王の妻の1人とされる。
 自分はアブラムに利用されて売り物にされ、これからはファラオに都合よくもてあそばれるのだ。
 不幸でしかありません。
 深く傷つき、このような仕打ちをしたアブラムに不信感を抱きます。

正しい人が傷つき死んでいく

 私たちは自分を守るために他人を利用したり、捨てたりします。

カラヴァッジョ「聖ペテロの否認」

 イエス様が逮捕されたとき、ペトロは大祭司の屋敷に忍び込みました。勇気ある行動です。
 しかし女中の1人に「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と指摘されると「何のことかわからない」とごまかします。
 そして呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と言ってしまいます。
 ペトロも想像したのです。正直に言ったらどうなるか。自分も逮捕される。そしてイエスと一緒に死刑判決を受けるのではないか。
 それで自分を守るためにイエスを否認し、自分に代わってイエス様お一人を十字架で殺すのです。

 私たちは先のことに対し不安や恐れを抱きます。
 そして自分を守るためにウソをつき、真実を隠します。
 そのウソによって自分は守られても、他の正しい人が深く傷つき、殺されていきます。

自己保身は不要

自己保身は神の約束の実現を危うくする

 アブラムは自分なりによく考えました。
 そこに神様の存在は忘れ去られています。
 なぜエジプトに来たのですか。自分だけが幸せになるためですか。
 アブラムは神様の約束をいただいて信仰の旅に出ました。土地、子孫、祝福の源という3つの約束が示されていました。
 神様が示す約束の地はどこかと、アブラムはシケムでもベテルの東でも立ち止まって祭壇を築きました。神様に聞いたのです。
 ネゲブで飢饉がありました。自然災害ですが、それも神様がお許しになったこと。アブラムの信仰を試す試練だったかもしれません。
 しかしアブラムは神様に聞くことなく、ただ自分の妄想で動きました。
 その結果、豊かなエジプトに留まろうとし、妻のサライを奪われていまします。さらにはファラオと宮廷の人々が恐ろしい病気になります。アブラムのしたことがきっかけは問題の源になりました。
 土地も子孫も祝福の源も、神様のビジョンの実現が危うくなっています。
 病気の原因がサライだと知ったファラオはアブラムを問い詰め、エジプトから追い出しました。

古い自分を捨てる

 自己保身のためのウソは周りの人を傷つけ、後で自分自身を苦しめます。
 自分で自分を救おうとせず、万事を益とする神様を信頼してください。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

ルカによる福音書9:24

 これは先週引用したイエス様の言葉の続きです。
 自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってわたしに従いなさいとイエス様が招いています。
 そこで捨てるべき自分とは何か。それはウソをつき真実を隠して守ろうとしている古い自分です。
 そんな古い自分は死んで大丈夫。もうキリストと共に十字架で死にましたから。
 古い自分が死ぬとき、神様が造られる新しい自分になります。

 だから知らないことは「知りません。教えてください。」と言っていい。
 寝坊した時は素直に「ごめん、寝坊した。」と言っていい。
 何か問題があったら「今こういうことで困っている」と助けを求めていい。
 信仰を恥じることなく「私はクリスチャンです。イエスの弟子です。」と言っていい。
 堂々と胸を張って「この人は世界一美しい私の最愛の妻です」と言いなさい。

 自分で自分を守ろうとするなら、私たちはいつまでも変わらず罪に留まります。
 そして神様が用意しておられる幸いな人生を歩めません。
 自分で自分を守ることを止めるとき、私たちは復活の主と共に新しい命に生きるのです。


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