創世記28
心の一隅で神に会う
創世記 15:1-6
1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
心の一隅
クリスチャンの哲学者、フランス文学者で森有正という方がいました。彼は「アブラハムの生涯」という本を書くほどアブラハムに魅了されていました。
その森有正の「土の器に」という本にこのような文章があります。
「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。そこにしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間が誰はばからずしゃべることのできる、観念や思想や道徳や、そういうところで人間は誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」
誰にも言えない心の一隅。そこでしか神に会うことはできない。アブラハムもそこで神に出会った。
森有正はそれが具体的にどの場面かは語っていません。アブラハムの生涯の中で何度かそういう場面があったからでしょう。
今日の本文でもアブラムは神に出会います。
神と出会い直す
恐れ、後悔、秘密の考え
15章は「これらのことの後で」という書き出しです。この前にどのようなことがあったかと言うと、ロトが戦争に巻き込まれ捕虜になってしまった。それを救出するために戦った。メルキゼデクからの祝福を受けた。ソドム王からの報酬を断った。このようなことがありました。
戦いに勝って一安心ですね。
しかしその安心は長続きしません。アブラムは、ソドム王が負けたので戦う必要が出てきました。アブラムはケドルラオメルたちに勝ちましたが、ケドルラオメルたちにしたら負けて終わるわけにはいかない。
より強力な軍隊を率いて報復をしに来るかもしれない。そういう恐れがあったでしょう。
それならソドム王からの報酬をもらって傭兵を雇った方が良かったかな。そのような後悔もあったかもしれません。
いと高き神の祝福を受けても、現実の脅威はなくならないじゃないか。
人々の前では立派な信仰者として振る舞っていても、心の中にはそういう秘密の考えがあります。
アブラハムの心を知る神からの励まし
そのようなアブラムに主は幻の中で語りかけます。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
主なる神様はアブラムの秘密の考えもご存じです。
神様が盾として守っていてくださる。だからケドルラオメルの報復を恐れなくていい。
神様はアブラムに土地、子孫、祝福の源という3つの祝福を約束していました。それは神を信頼して歩んできたアブラムへの非常に大きな報い。このような幸いな約束が示されているのだから、その過程で起きる苦難を恐れなくていい。
アブラムの心をよく知っている神様からの励ましです。
あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでした
それに対しアブラムはこう答えます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
神様は土地、子孫、祝福の源を約束してくださった。
土地は具体的に見せてくれましたが、まだネコの額ほどの土地も持っていません。
戦争に巻き込まれて祝福どころか災いですよ。
それに子孫の約束。どうなっているんですか。私はいつ敵に殺されるかもわからない。そろそろ後継者を決めておかないといけない。年長のしもべであるエリエゼルが財産の管理をしているから、彼を養子にして跡を継がせようと思っているんです。
さらにアブラムは言います。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
こうなったのは、あなたが私に子どもを与えてくださらなかったからだ!
アブラムの神に対する怒りが感じられます。
すると主はこう答えます。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
跡を継ぐのは、あなたから生まれる者。つまり養子ではなく、実子です。
神にぶつけたい思い
アブラムの心の中には恐れや後悔、秘密の考えがありました。また過去には自分を守るために妻を妹と偽るという醜い考え、恥ずかしい失敗がありました。この後もアブラムはひそかな欲望に流されて失敗をします。
人前では族長として立派に振る舞っている。神を信頼して歩んでいるつもりでいる。しかし心の中には、誰にも言えない心の一隅があるのです。
その自分だけで悩み恥じているところを主は知っておられる。
人はそこで神に出会うのです。
イエス・キリストは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と祈りました。
イエスは神を一貫して父と呼んでいたのに、ここではわが神と呼んでいる。罪人の頭として父なる神との関係が絶たれたキリストの魂の叫びです。
しかしこの後、イエスは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取ります。再び神を父と呼んでいます。
罪の償いが成し遂げられ、神と人との和解ができた。
イエス様もまた心の一隅で神に出会い直したのかもしれません。
心の中の醜く暗いところでイエスに会う
皆さんはどうですか。皆さんにも、人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩み恥じている心の一隅があるのではないでしょうか。
いや、あるはずです。
それは過去の痛みや傷かもしれない。過去に言われたこと、されたことがずっと心の中にある。
誰かに対する怒りや憎しみかもしれない。あんなヤツいなくなればいいのにと、心の中で誰かを殺している。
先のことに対する不安や恐れかもしれない。将来の希望がない。
失望や劣等感。バレンタインにチョコをもらえなかった。私は誰にも愛されない。役に立たない。
その裏返しとして誰かを支配したい思いが湧く。
あるいは情欲。
そして神への怒り。
今までは臭いものにフタをするように、自分でも気づかないフリをしてきたかもしれない。
しかしその醜いものを放置していたら、やがて腐敗し、悪臭を放ち、自分の人生を破壊します。
心の一隅に目を向けてみてください。
自分の心の中の最も醜く暗いところに目を向けてください。
十字架で死なれ墓に葬られたキリストは、そこにもいてくださいます。
墓のように醜く暗い心の一隅で、イエス様は出会ってくださる。
そして醜いものを十字架で処分し、赦しの恵みを受け取らせてくださいます。
皆さんのひそかな思いを神に打ち明けてください。
恐れ、傷、怒りでもいい。神にぶつかっていってください。
その時、神と出会い直すことができます。
神との出会いを重ねた信仰の父
自分で作った狭い天幕から出る
「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。」というアブラムの叫びに主は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」と約束を具体的に示してくださいました。
しかしこれは幻の中で示されたこと。現実を見てみたら希望がありません。
この時のアブラムの年齢は85歳に近かったと思われます。妻のサライは75歳近くです。もう後期高齢者ですよ。この年で自分の子が与えられるとは信じられない。
そんなアブラムを主は天幕の中から外に連れ出します。
私たちは自分で限界を決めてしまいます。
私の限界はここまで。もう手を伸ばせば天井につく。
これ以上はできない。もう一歩も前に進めない。
それは目の前の現実を見ているからです。
天井がある。自分の限界はここまで。
山のように大きな問題がある。もうお手上げ。
背後から敵に追われ、目の前には海。もうお終いだ。
いやいや、諦めたらそこで試合終了です。
天井なんてものは所詮人間が作ったもの。はがせばいいんですよ。
からしだねほどの信仰があれば山も動きます。
山のように大きな問題があっても、主にとっては小さなことです。
主は水の中にも道を通すことができます。聖霊の風が吹くならば海の中に道ができ、主が来なさいと招くなら水の上も歩けます。
自分で作った狭い天幕の中に留まっていないで、主が造られた大いなる世界に一歩踏み出してください。
子孫が夜空の星のようになる
主はそこでアブラムに星を数えさせます。そして「あなたの子孫はこのようになる。」と言います。
今の浜松なら1、2、3、…10個くらいですか。

電気や排ガスのないアブラムの時代、星はよく見えたはずです。
暗い暗い夜こそ、星の光は際立ちます。そうすると、星は本当に数えきれません。
アブラムの子孫がいつかこの星のように数えきれないほど増えていく。
そして暗闇の世界に光を放つ。
神様の祝福は人間の思いをはるかに超えています。
信仰で義と認められる
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
とても大事な言葉です。
彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
ローマの信徒への手紙4:18
アブラムは希望するすべもなかったのに、ただ神を信じました。
神様はそれでアブラムを義と認めました。
義と認めるというのは、神様との正しい関係にあるということです。
アブラムの生涯は失敗だらけです。
誰にも言えない心の一隅がある。
そこで神に出会い続けました。
こうしてアブラム、後のアブラハムは信仰の父と呼ばれます。
私たちも信仰で義とされます。ただイエスへの信仰で義と認められました。
私たちもアブラハムの信仰に倣う者であり、アブラハムは私たちにとっても信仰の父です。
私たちにも心の一隅があります。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩み恥じている誰にも言えない暗くて醜い心の一隅がある。
それを素直に認めて、そこで出会ってくださるイエス・キリストを知る。
心の一隅で神に出会い続けてください。




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