創世記6

愛の関係を築く

創世記 2:16-25

16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

事件があるからドラマがある

 先日、他の宗教を信仰している方と聖書の話をしました。その宗教には万教帰一という教えがあります。色々な宗教があるけれど、それらの教えはすべて目指すところは一つですよ、と言うのです。聖書も独自の解釈で読みます。
 その日は創世記1章の人間の創造の場面についてお話しました。相手の方もその場面はよく知っていて、人間は神にかたどって造られたと信じていました。
 神が「極めて良い」と言われたことも知っています。彼は、「聖書はここで終わっていれば良かった。」と言います。
 本当の世界は満月のように完全円満で、目の前に見えている世界は欠けた月のように部分的なものなの。病気や戦争のような良くないことがあるのは、本当の姿ではないのだと。
 いいえ、私たちは目の前にある現実を生きています。病気や戦争、悲しみや労苦のある世界です。
 あるはずのない完璧なパラレルワールドを空想しても仕方ありません。
 でも聖書が「極めて良い」で終わっていたら良かったですよね。そうしたらこんな悲しみや労苦はなかった。
 しかし聖書は創世記1章で終わらず、続いていきます。
 そして神のかたちに造られた人間によって事件が引き起こされます。

 映画を見ても、冒頭の5分くらいはほのぼのと幸せな生活。
 ところが事件が起こり、その生活はめちゃくちゃに破壊されます。
 それからなんやかんやあって、大団円。
 そんな映画を見終わった後に、「最初の5分で良かった。監督は間違いを犯した。」などと言いますか。

 創世記2章の後半は、この後に起こる事件を予感させます。
 それは同時に、神と人とが共に生きる究極のゴールへの一歩です。

神との愛の関係

 神様はエデンの園に人を置き、そこを耕し守るようにしました。人の仕事によって、世界はより良くなっていきます。
 神様が造られた世界はそのように変化していく命ある世界。神の中では、究極の完成像があるはずです。そのために人を用います。
 これは神様が計画し人に任せた仕事ですから、責任は神様にあります。必要なものは神様が用意してくださいます。
 人には命の息が吹き入れられました。神の息吹によって人は神の御心を行う力を得ます。
 そして人が生きていくために必要な食べ物はエデンの園に十分あります。
 食と住は神が保障しています。

善悪の知識の木からは決して食べてはならない

 神様は「園のすべての木から取って食べなさい。」と言います。リンゴでもブドウでもバナナでも食べ放題。スイーツパラダイスです。
 ただし。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と条件を付けます。

 食べちゃダメだぞ。
 いいか、絶対食べるなよ。

 フリですか。
 そう言われると食べたくなるじゃないですか。

 食べると必ず死ぬって、完璧な死亡フラグ。
 この先の展開が読めちゃいますよね。
 ああ、アダムは善悪の木の実を食べて死ぬんだなって。
 神様がこれを予想しなかったはずがありません。

ルールによって関係を守る

 神はなぜ、善悪を知る木の実を食べると必ず死ぬなどというルールを設定したのでしょう。
 それは神と人との関係を明確にするためです。
 神様は人間に自由を与えました。食べ物も人間が自分の好きなものを取って食べて良いのです。
 しかし自由が大きすぎると暴走します。

 食べ放題の店で、食べきれない量の肉を取ってくる男子がいます。
 自由だから何をしても良いと勘違いしています。
 その肉もウシさんやブタさんの命をいただいているものです。
 そして食べ物を提供してくださるお店への敬意もありません。

 アダムも、リンゴを1口食べてポイ、ぶどうを1粒食べてポイすることもできました。
 エデンの園の中央に神は命の木と善悪の知識の木を植えました。アダムはいつもこれらの木を見ました。
 命の木を見ながら、この命は神によって養われているのだと思い出したでしょう。そうすると神が与えてくださる恵みを無駄にはできません。
 そして善悪の知識の木を見ながら、善悪の源は神であり、自分は土の塵から造られた人間に過ぎないことを思い出したでしょう。
 神への畏れ、敬意をもって生活します。

自由の中で相手が望むものを選び取る

 人は主なる神に従わなければなりません。
 それならば自由など与えず、ロボットのように神の命令に忠実に動くようにすれば良かったではありませんか。そうすれば神が造られた世界を究極の完成に向かわせるという計画も順調に進んだはずです。
 しかし神はあえて人に自由を与えました。
 それは人と愛の関係を築くためです。
 愛は自由の中にあります。

 夫婦でレストランに行きます。そこで夫が「カレーもラーメンも食いたいな。おい、お前ラーメン頼め。俺はカレーにする。後で交換な。」と妻に言う。妻はそれに従って、好きでもないラーメンを頼んであげる。
 奥さん優しいね。
 しかしこれは愛ですか?

 夫も妻も自由に選べる中で、「カレーもラーメンも食いたいな。どうしよう、カレーにしようかな。」と夫が言うのを聞いて、妻が「私ラーメンにするから、後で交換しよう。」と言ってくれる。
 それで夫が「マジで?ありがとう!でもお前ラーメン好きじゃないじゃん。俺がラーメンにするから、カレー食いなよ。」と言う。
 どちらも自分の自由を相手のために制限しています。
 ここに愛があります。

 アダムは園のどの木からも取って食べる自由がありました。
 その自由の中で、あえて善悪の知識の実を食べない。神のために自由を制限するという愛を選び取ることを願っています。

イエスを受け入れ神と共に生きる

 神様は私たちに対しても、従うことを強制しません。イエスを信じるように人の心を勝手に変えることもしません。自分の自由な意思でイエスを主と信じ、従うことを求めています。
 黙示録でイエス様は言いました。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

ヨハネの黙示録3:20

  イエス様が私たちの心の扉をノックしています。
 イエス様の招きに応えて従うかどうかは人間の自由です。
 その自由の中でイエス様を心に迎え入れるなら、イエス様と共に食事会をします。
 神と人が共に住む新しい生活に、イエス様は私たちを招いています。
 こうして神様は私たちと愛の関係を築きたいと願っています。

人との愛の関係

人が独りでいるのは良くない

 神と人が愛の関係を築くとしても、神は神、人は人です。どうしても越えられない違いがあります。
 そこで神は言います。「人が独りでいるのは良くない。」
 これは単に、独りは寂しいとか、たくさんの人に支えられて社会が維持されているとかいうことではありません。社会を維持する人手が欲しいなら、アダムのクローンをたくさん作ればいいわけです。しかし神様はそうしませんでした。
 神様が独りは良くないと言われたのは、人には互いに愛し合う存在が必要だということです。
 神が見まわして極めて良いと言われたこの世界ですが、神の目に良く映らないことがあった。それは、人が独りでいること。
 人に愛し合う対象がいないというのは、良くないことなのです。

動物とは愛の関係を築けない

 神はアダムと同じ被造物の中で、様々な生き物を連れてきました。
 アダムはそれを見て名前を付けていきます。
 名前を付けるというのは、高度な知的活動です。
 親になった経験がある方は、一人の子に名前を付けるだけでもすごく悩んだと思います。
 適当に名前を付けてはいけません。ナンジャモンジャみたいな適当な名前を付けてしまうと、次に会ったときに思い出せません。
 対象をよく見て、その特徴に合った名前を付けなければいけないわけです。

 だからアダムは、一つ一つの生き物をよく観察したことでしょう。
 観察していくと、愛すべきポイントも見つかってきます。
 「かわいいな、きみはネコちゃんだよ。」
 「お前賢いな。よし、お前はイヌだ。」
 「おお、かっこいいな。あなたはウマだ。」
 このように名前を付けたかもしれません。
 それぞれに良い点があり、人の助けになりそうです。
 しかしこれらの動物は、人と対等に愛し合う関係にはなりませんでした。

エバの創造

ミケランジェロ「エバの創造」(システィーナ礼拝堂天井画)

 そこで神はアダムのあばら骨を取り、もう一人の人を造りました。これが最初の女性エバです。
 エバを見たアダムは「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。」と言いました。この人こそ私が愛すべき人だという愛の告白です。
 人と互いに愛し合う関係になれるのは、人です。人を真に助けられるのは人しかいません。

 しかしアダムは土の塵、エバは骨から造られました。
 実際は男性も女性も体の組成は同じなのですが、聖書は男性と女性の違いをこのように表現しています。
 その違いがあるからこそ、男性と女性は互いに助け合うことができます。

9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。11 更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。

コヘレトの手紙4:9-12

 人と人が互いに助け合うことについてはこのように言われています。
 一緒に労苦する助け手が人間には必要です。

結婚の起源

 先ほど引用した聖句は二人の人が助け合うことが様々な表現で語られていますが、最後はなぜか三つよりの糸です。
 なぜ三?三人目は誰?
 この三人目は神様だと見ることができます。神様によって結び合わされた二人、この三者の結びつきは強いのです。
 神様は男と女を結び合わせ、夫婦にします。
 ただの二人ではありません。二人は一体になります。
 三位一体の神が三つで一つであるように、神によって結び合わされた夫婦には神秘的なつながりがあります。
 そこでアダムとエバが出会うこの場面が、結婚の起源になります。
 「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」

愛に生きる人になるために父母を離れる

 順番が大事です。結ばれる前に、父母を離れなければなりません。自立するということです。
 親のスネをかじるのをやめて、経済的に自立しなければなりません。
 自分で考え、決断することも大事です。親の敷いたレールではなく、自分の人生を歩むのです。
 自立は孤立ではありません。誰も頼らず自分の力だけで生きられる人はいません。
 親の手を離れて自分の足で歩くとき、何度もつまずき倒れます。それを見守り支えてくれる人がいるから、何度でも立ち直ってやり直せます。
 そのように自分の弱さを認め助けを求められる相手を複数持つことが、自立する上で必要です。
 そして助けをもらった人は、他の人に手を差し伸べる人になります。
 こうして人から愛され人を愛する人になることが、自立です。

 親の方も子どもから離れなければなりません。もちろん子どもが小さいときは親がすべての面倒を見ますが、いつまでも子ども扱いしてはいけません。子どもが自分で決断し行動していけるように、少しずつ手を放して見守るのです。子どもの意見を尊重してください。

神が結び合わせたものを人が離してはいけない

 夫婦は神が結び合わせてくださいました。互いを信頼してください。
 恋愛中は見えていなかった現実が、結婚すると見えてきます。
 相手の欠けているところばかりが気になっても、神様が与えてくださったベストパートナーです。
 相手が弱く足りないとしても、愛そうと決意してください。
 不倫や暴力など、場合によっては結婚生活を維持できないケースもあります。
 原則的には、神が結び合わせたものを人が離してはいけません。

 このように人と人の間でも愛の関係を築くことが求められています。それは夫婦の間だけではありません。
 すべての人が結婚しないといけないわけでもありません。パウロのように生涯独身でいるように召された人もいます。
 それでも人が独りでいるのは良くない。
 独身でも隣の人を愛し、愛に生きる人生を送ってください。

神に造られた自分を愛する

裸であったが恥ずかしがりはしなかった

 最後に「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」とあります。これもこの後に起こる事件を予感させます。
 人は皆、裸で生まれてきます。
 裸というのは、神に造られたありのままの自分です。何も恥ずかしがることはありません。神の作品に失敗はありません。
 「だから服を脱ぎ捨てて裸で生きよう」などと反社会的なことを言いたいのではありません。神に造られた自分の体を大切にして、大事なところは隠しておいてください。

ありのままの自分とは

 私たちはありのままで神に愛されています。
 ではありのままの自分とは何ですか。
 ある人は「自分は内向的で人づきあいが苦手だ。これが神に造られたありのままの自分だ」と言って愛の関係を築こうとせず独りで殻にこもります。
 確かに神は私たち一人一人をユニークな存在として造りました。神のデザインがあります。
 しかしどう生きるかは私たち自身の選択です。その選択の積み重ねによって今の自分があります。
 ありのままの自分という固定された存在があるわけではないのです。
 神は今の自分も愛してくださっています。
 しかしそこから成長することを願っています。
 今の自分に満足したり、どうせ自分はこの程度だと諦めたりしないでください。
 私たちは日々、変えられていきます。
 キリストの似姿になるまで、愛に生きる人になっていくのです。

握っているものを手放し無条件の愛を受け取る

 裸の自分は、当然手ぶらです。
 私たちには、これが自分を幸せにしてくれるのだと握りしめているものがあります。
 自分はこういう存在なのだという思い込みもそうでしょう。
 富のような物質や、社会的な立場もあります。
 妻・夫や子どももそうかもしれません。
 それらを握りしめていると受け取れない神の恵みがあります。

 神は時に、私たちが握っているものを強制的に奪い、丸裸にすることがあります。
 ヨブは持っていた財産も家畜も家族さえも失ってしまいました。
 それでもヨブは神を賛美しました。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

ヨブ記1:21

 裸。それは神に造られたありのままの自分。何も持っていなくても、神に愛されています。だから握っているものを手放し、神の無条件の愛を受け取ってください。そのとき私たちは、自分を愛することができます。

 神様は私たちが神を愛する人になること、自分を愛する人になること、隣の人を愛する人になることを願っています。
 そのように神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する愛の関係を築いていきましょう。


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