創世記7

罪の誘惑

創世記 3:1-7

1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

蛇の誘惑

 人は神のかたちに造られました。人間には高い知性があります。人間はその高い知性と身体の作りによって言語を扱うことができます。二本足で真っすぐに立つことで、のどから様々な音を出すことができるわけです。
 エデンの園で神と共に生きていた人は、神の言葉を聞いて自分のするべきこと、してはいけないことを理解しました。
 そしてそれを他の人に伝えることもできました。
 言語によるコミュニケーションも人間の大きな特徴の一つです。
 鳴き声を使い分けてコミュニケーションを取る動物はいますし、人間の声を真似る鳥もいます。
 しかし人間のような複雑な言語でコミュニケーションを取る動物はいません。
 現在は。

 創世記は、蛇が最も賢い動物だと言います。
 そうでしょうか。犬やチンパンジーの方が賢そうな印象です。
 どうやら創造の最初の頃の蛇は、私たちが知っているそれとは違っていたようです。
 なぜならエデンの園の蛇はしゃべるからです。当たり前のように蛇と人間が言葉を交わしています。
 言語を扱うということは、高い知性がある証拠です。それだけでなく、足があったかどうかはわかりませんが真っすぐ立つことができたようです。

蛇の問いかけ

ルーベンス、ヤン・ブリューゲル「人間の堕落のあるエデンの園」

 蛇はエバに問いかけました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
 どうですか。エデンの園のどの木の実も食べてはいけないと神は言いましたか。
 そんなことは言っていませんね。エバは答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。」
 そうだ!
 恵み深い神様は私たちに必要なものを十分与えてくださっている。人間は好きなものを自由に選んで食べることができました。
 ただし神と人との関係を明確にするために、1つ条件が与えられていましたね。
 エバは続けて言います。「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
 そうだ!
 …そうか?神様はそのように言いましたか?
 園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはいけないと言われたのですね。食べると必ず死んでしまうと。
 エバはそこに「触れてはいけない」という言葉を付け加えています。どういうことでしょう。

人は自分の聞きたいように聞く

 私たち人間は言語でコミュニケーションを取ることができます。
 しかし相手の言いたいことを完全に理解する理解力を持っていません。
 残念なことに自分の言いたいことを適切に表現する言語化能力も持っていません。
 だから同じ言語を使っていても、誤解が生じます。

子どもたちが大きな声を出して走り回っているときに私が「元気なお子さんですね。」と言ったとします。
 私は単純に、暑い中でも子どもたちは元気でいいな!と思っています。
 しかし賢い人は、これを聞いて申し訳なさを感じます。子どもがうるさくして迷惑だったかな?と言葉の裏を読んでしまうのです。
 私がそのような嫌味を言えるほど賢い人間ではないと知っている人なら、単純にほめ言葉として受け取れます。
 私たちは相手の言いたいことではなく、相手はこういうことを言うだろうと自分が期待していることを聞いてしまいます。

 エバは神様が言いたいことを聞いたのではなく、自分が聞きたいことを聞いたのです。
 それはエバの神観に基づきます。
 エバにとって神は、自分とアダムを見張る監視者。間違ったことをすれば罰を下す恐ろしい存在だったかもしれません。
 だから神が言っていない禁止事項を付け加えてしまいました。

神への誤解

 私たちも神様を誤解していませんか。
 神様はすべてを知っています。いつも神に見られています。
 そのことはあなたに安心感を与えますか。それとも恐怖心を与えますか。
 「お天道様が見ている」と言いますが、それはバチを当てる恐ろしい神のイメージです。
 そして神の恵みが十分あるのに、あれはダメこれはダメという禁止事項ばかり目に留まります。
 神が愛であるということを理解していないと、聖書で語られる神の愛を受け取ることはできません。

 誤解されるのは悲しいですね。
 神を知らない、あるいは神について誤解するというのは大きな罪です。

繰り返される罪の誘惑

 蛇は言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
 神様が必ず死ぬと言ったのに、蛇はそれを否定します。
 そして神に疑いを持たせます。
 善悪を知る木の実を食べたら目が開く。そして私たちも神のようになれる。だから神は私たちからそれを取り上げ、私たちをいつまでも支配下に置こうとしているのだ。これこそ世界の真実!
 …そんな陰謀論みたいな話、誰が信じますか。

人の心を惑わすウソ

 しかし蛇のウソがエバの心に入ったとき、エバの見る世界はそれまでとは変わってしまいました。
 園の中央にある木は、神と人との愛の関係を思い起こすものだったはずです。
 ところがエバが再びその木を見ると、いかにもおいしそうで引き付けられます。確かにこの木の実を食べたら賢くなれそうです。
 そこでエバは禁断の木の実を取って食べてしまいました。

神の邪魔をする悪魔

ジョルダーノ「反逆天使の墜落」

 ここで蛇は明確に神に敵対する立場を取っています。
 単なる被造物であれば、創造主に逆らう理由がありません。
 人間と同じように、神との交わりを持てる霊的な存在のようです。
 創造の6日間の中には語られていませんでしたが、聖書には天使と悪魔という霊的な存在も出てきます。天使は神に仕える者、悪魔は神の邪魔をする者です。
 神が極めて良いと言われた世界に、神の邪魔をする者がいるのは不思議な感じがします。
 神は天使を作り、その天使の一部が神に反逆して悪魔になったのかもしれません。
 ここでは恐らく蛇が悪魔に利用され、人を誘惑したのでしょう。

神の言葉で誘惑を退ける

 人には罪の誘惑が襲います。
 聖書の言葉をねじ曲げ、神について誤解させ、滅びへと向かわせる。悪魔はエバにしたのと同じ手口で私たちを誘惑してきます。
 残念ながら私たちには悪魔に対抗する力がありません。奴らは賢いのです。

アリー・シェファー「キリストの誘惑」

 悪魔の策略に対抗して立つために、神の偉大な力が必要です。
 聖書が言う通り、神の武具で武装するのです。
 悪魔の誘惑を退ける唯一の武器は神の言葉。

 イエス様も人間として、私たちと同じように悪魔の誘惑にあいました。
 それをすべて聖書の引用で退けました。

 この世には様々なウソがあふれています。
 そのウソが心に入ると、私たちは神の恵みではなく目の前の現実に捕らわれます。
 神が造られた世界には良いものが満ちあふれています。
 神に目を向けるなら、その恵みで心が満たされます。
 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのです。
 神の言葉をよく聞いてください。

主だけを礼拝する

 エバは蛇のウソに惑わされ、罪の誘惑に負けてしまいました。
 神が食べるなと禁じたとき、アダムは聞きましたが、彼女はまだ生まれていませんでした。後でアダムから聞かされたのでしょう。
 過ちを犯したエバを助けられるのは、同じ人であるアダムしかいません。互いに助け合う愛の関係を築くために二人は結び合わされました。
 ではこのときアダムはどこにいたのでしょうか。
 …一緒にいました。
 そしてエバから手渡されたので、彼も食べました。
 ちょろいな、アダム。

誰を神とするか

 私たちは誰を神にするのでしょうか。
 エバは自分が神になろうとしました。
 アダムは、神が食べるなと禁じた実を目の前で女が取って食べても何も言いませんでした。神の言葉より、女の自由を優先しています。そして女に「食べて」と言われたら食べてしまう。アダムにとって、エバが神以上に大事な存在になっています。
 私たちは神を神として礼拝しなければなりません。
 神のかたちに造られた私たちは、神を礼拝することで生きる力を得ます。

 私たちは神の言葉に聞き従います。神が造られた世界で、神から任された役割を果たします。
 しかしいつの間にか、目の前の現実で自分の仕事をするようになります。神を忘れています。
 与えられたものを神の恵みではなく、自分の力で勝ち取った手柄にします。
 教会の奉仕もそうです。喜んで仕えささげるのではなく、苦しい労働や自分の功績にしてしまいます。
 神を見上げることを忘れるなら、私たちは自分を神にします。あるいはこの世の何かを神にしてしまいます。

目が開いて知ったのは自分の惨めさ

 蛇は、善悪の知識の実を食べると目が開いて神のようになるとそそのかしました。
 では人は神のようになったのでしょうか。
 実際に目が開かれて人が知ったのは、自分が裸だということ。
 それまでも裸でした。神に造られたままの自分です。恥ずかしがることはありません。
 しかし自分が惨めに感じられ、覆い隠そうとします。
 いちじくの葉で上辺を隠しても何にもなりません。神との関係の回復が必要です。
 エバが倒れ、人類の代表であったアダムも倒れてしまった。
 誰か神と人の間に立って助けてくれる人が必要です。
 そこで来られたのがイエス・キリストです。

 私たちはイエス・キリストを通して、神がどのような方かを知ります。
 イエス・キリストを模範として神の言葉に聞き従います。
 悪魔の誘惑に惑わされることなく、イエスを主として見上げてください。


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