創世記8

神の顔を避ける罪人

創世記 3:8-13

8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

先生の顔を避ける小学生

 夏休み。子どもたちは友だちと遊んだり、自然の中で過ごしたり、旅行に行ったり、楽しい毎日を過ごしていることでしょう。
 そんな夏休みにもやがて終わりが来ます。また学校が始まります。学校でも友だちに会えるし、給食が食べられるし、どんな新しいことを勉強するのか楽しみですね。

 しかし子どもの頃の私は、夏休みが終わって学校に行くのがイヤでした。休みが終わる寂しさもあります。学校が楽しいことはわかります。それでも学校に行って先生の顔を見るのが恐かったです。
 それは夏休みの宿題が終わっていないから。
 問題は解いたが、親がやるように言われた丸つけは自分でやった。読書感想文は3行だけ。毎日書くべき絵日記はまとめて適当に書いた。
 こんなごまかした宿題を先生が見たら悲しむのではないか。怒られるのではないか。そのような恐れがありました。
 もし先生に怒られたら何と言おう。
 「ごめんなさい」よりも、「友だちが遊ぼうって誘ってきたから」「親が旅行に連れて行ったから」と言い訳の言葉が思い浮かぶ。
 そもそも夏休みには夏休みにしかできない体験がある。それなのにこんなにたくさんの宿題をやらせるのはおかしい。日本中の子どもたちが宿題で苦しめられている。先生こそ謝るべきだ!
 そんな怒りがこみ上げてきます。

 いや、宿題やらずに遊び過ぎた自分が悪いだけなんですけどね。

神の顔を避けて隠れる

 人は神様と共に生きるはずでした。生きていくのに必要なものは十分与えられています。毎日が夏休みのように、楽しく過ごせる。
 ただ、神様は人に、果たすべき役割と守るべきルールを与えました。
 それによって、神と人は愛の関係を築いていくことができます。

 神様は霊であり、目に見えません。しかしエデンの園で人は、神様の温かいまなざしを感じたことでしょう。
 木々の間を吹き抜ける涼しい風の中に、聖霊の働きを感じたかもしれません。
 創世記では何カ所か、神様が人の姿で現れます。エデンの園でも人となられた神様が、アダムとエバを誘って一緒に食事をしたり散歩をしたりしたのではないかと思います。

神の怒りは恐ろしい

 そんな幸せな日々に終わりが来ました。
 蛇にそそのかされたアダムとエバが禁断の木の実を食べたその日も、神様はエデンの園の中を巡り歩いていました。
 ところがアダムとエバの姿が見えません。
 神様は二人を探して歩き回ります。
 アダムとエバは神様の視線を感じて隠れていたのです。
 自分たちが裸であることを知った彼らは、何とか神様から隠れようとします。いちじくの葉で裸を覆い、木の間に身を隠します。
 しかし木々の間から涼しい風が吹いてくる。
 そして足音が聞こえてきます。これまで何度も一緒に歩いて来たその足音。他の動物とは違う。神様の足音。
 そこに神の声が聞こえます。「どこにいるのか」

 隠れきれないと感じたアダムは答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
 神様の前から逃げられないとわかっていても、まだ姿をさらけ出すことはできません。
 恐ろしいのです。
 人は、神の顔を恐れて避けようとします。

15 地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、16 山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。

ヨハネの黙示録6:15-16

 正義の神様は、罪に対して怒ります。
 悪霊たちは神の怒りの恐ろしさをよく知っています。
 レギオンはイエス様に出会ったとき「いと高き神の子イエス、苦しめないでほしい。」と言いました。
 そして神の怒りを受けるよりは豚の中に入っておぼれ死ぬことを選びました。

罪責感

 私たちもこの感覚はわかりますね。
 親や先生、職場の上司の顔を真っすぐ見られない。
 パトカーや警察官の制服を見ただけで心拍数が上がる。
 それは何か後ろめたいことがあるからでしょう。
 彼らの前に立つとき、自分の間違いを指摘されるのではないかと恐れます。

 神様は究極の正義ですから、どんな間違いを指摘されるかわからない。
 それで神様の御顔を恐れて避けるのです。

 この感覚を失ったらヤバいです。
 罪を犯しておいて何とも思わないヤツがいたら相当ヤバいでしょう。
 神の御顔を避けたくなるというのは、人として正常な感覚だということを覚えておいてください。

誰が神に背いたのか

責任転嫁

 自分が裸であることを知って隠れるアダムに、神様は問います。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
 神様にはすべてお見通しです。何をしたのかまでバレています。
 アダムは正直に「食べました。」と認めました。
 しかし自己弁護をします。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
 あの女が「食べて」と渡して来たんです。私は強要されて仕方なく食べただけです。それが善悪を知る木の実だとは全く知りませんでした。悪いのはあの女。私は無罪です。
 アダムは自分の罪を愛する妻エバになすり付けます。

 それだけではありません。エバのことを「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」と呼んでいます。
 そもそも神があの女を造らなければ、こんなことにはならなかった。
 問題の原因は神様、あなたです。
 アダムはエバの存在を否定し、神を呪います。

被害妄想

 神様はアダムの暴虐には答えず、一旦彼の主張を受け止めます。「あなたの夫は、あなたが取って渡したから食べたと主張しています。エバや、何ということをしたのか。」
 するとエバは言います。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
 そうですよ。問題の始まりは、蛇です。こいつにだまされたんです。私は被害者です。

 私たちは彼らの気持ちがよくわかります。
 自分の過ちを素直に認められない。
 他の人のせいにし、環境や状況のせいにする。
 大人の中には、酔っていたからと酒のせいにしたり、魔がさしたと悪魔のせいにしたりする人もいます。
 挙句の果てに、神様がこんな世界にしたからだと、神を呪います。

人は自らの選択で神に背いた

 人は自分を神のようにします。
 そして自分が正しく、神が間違っているとさえ思います。

 祭司長たちはイエスが神を冒涜しているとし、十字架につけて殺そうとしました。
 祭司長たちにうながされて群衆は「十字架につけろ」と叫びます。
 ピラトは手を洗ってからイエスを十字架につけて殺しました。この人の血について自分には責任がないと言いたいのです。
 誰が神の子イエスを殺したのですか。
 自分が正しいと思い込んだ人です。
 周りの人に流されて「十字架につけろ」と叫んだ人です。
 暴動が起きそうな状況で仕方なく十字架刑を命じた人です。
 結局は、その人自身の選択です。

 アダムとエバは自分で選択しました。
 園のどの木から取って食べても良かった。その自由の中で、食べるなと命じられた木の実を食べることを選び取りました。
 他の誰かのせいではありません。彼ら自身が、神に反逆することを選び取ったのです。
 私たち自身が、イエスを十字架で殺したのです。

人が罪を認めて帰って来ることを神は願っている

神はすべてを知っていながら人に声をかける

 どんなに言い訳しても、アダムとエバは有罪です。
 さようなら人類。神様は言いましたね。善悪の知識の実を食べたら必ず死ぬと。
 ところがアダムとエバはまだ死んでいません。
 あれ?死ぬんじゃなかった?

 他にも気になることがあります。
 詩編139編には、神様は人が座るのも立つのも歩くのも知っていて、心の思いまで見抜き、神の御顔から隠れることはできないと言われています。
 それなら人がいちじくの葉で裸を覆い、木の間に隠れているのは無駄ではありませんか。
 赤ちゃんのかくれんぼみたいな滑稽さがあります。
 「どこにいるのか」「何をしたのか」と聞くまでもなく、怒ってもよかったではありませんか。

愛の関係を築くプロセス

 神様が願っているのは、人と愛の関係を築くことです。

 愛の関係を築こうとするには、相手に近づかなければなりません。
 他者に近づくと、ぶつかるところが出てきます。そこで、相手に合わせて自分を変える必要があります。
 自分の出っ張ったところを丸くする。相手を受け止められるように自分の懐を広げる。
 それには痛みが伴います。
 この痛みを避けて、逃げ隠れて言い訳ばかりをしていたら、愛の関係は深まっていきません。

 神様は人が不完全な存在であることをよく知っています。間違えることを知っています。
 そうしてつまずき倒れながらも、神の温かいまなざしに見守られながら立ち上がることを願っています。
 赦しを受け取り、愛の関係を深めていくことを求めています。
 神様は「どこにいるのか」「何をしたのか」と問いながら、人が素直に罪を認めることを求めているのです。

神の顔は祝福の象徴

 本来、神の御顔は祝福の象徴です。
 大祭司はイスラエルの民を祝福するとき、主が御顔を向けてあなたに恵みと平安を与えてくださるようにと祈りました。
 黙示録の最後では、神のしもべとされた人々が神の御顔を仰ぎ見ながら神を礼拝しています。

恐れずイエスによる赦しを受け取る

 罪責感をおぼえて神の御顔を避ける私たちを、神は探し求めています。
 羊飼いイエスが私たちを見つけるまで探しに来ました。
 そして私たちの名前を呼び、「どこにいるのか」と問いかけます。
 隠れている私たちには、神様の表情は見えません。差し伸べられた手も見えません。
 しかし、隠れていても声だけは届きます。
 あなたのために私は十字架で死んで復活した。新しい命に生きよう。
 その良い知らせ、福音が聞こえてきます。
 もうごまかさないで、言い訳をしないで、神様の前に進み出てください。

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

ヨハネの手紙一1:9

 罪の赦しを受け取って、神との愛の関係が深まります。

 神の御顔は恐ろしいものではなく、恵みと平安をくださる祝福の象徴です。


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