勇気をもって善を行え

歴代誌講解54

勇気をもって善を行え

歴代誌下 19:1-11

1 ユダの王ヨシャファトは、無事にエルサレムの宮殿に帰った。2 先見者ハナニの子イエフは、ヨシャファト王の前に進み出て言った。「悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか。そのため、主の怒りがあなたに下ります。3 しかし、あなたには良い事も見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、揺るぎない心で神を求めました。」4 ヨシャファトはエルサレムに住んでいたが、再び出かけて民の中をベエル・シェバからエフライムの山地まで巡り、彼らを先祖の神、主に立ち帰らせた。5 彼はその地、すなわちユダのすべての砦の町に、それぞれの町の裁判官を立てた。6 彼は裁判官に言った。「人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。裁きを下すとき、主があなたたちと共にいてくださるように。7 今、主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁きなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。」8 ヨシャファトは、エルサレムにおいても、主の裁きと紛争の解決のために、数名のレビ人、祭司、イスラエルの氏族の長を任命した。こうして彼らはエルサレムに帰った。9 ヨシャファトは彼らにこう命じた。「主を畏れ敬い、忠実に、全き心をもって務めを果たせ。10 あなたたちの兄弟が自分の住んでいる町からあなたたちに訴え出るときはいつでも、それが傷害事件であれ、律法、戒め、規定、掟に関する問題であれ、彼らが主に罪を犯して、怒りがあなたたちと兄弟たちの上に降りかかることのないように、彼らを戒めなさい。このように行えば、あなたたちが罪を犯すことはない。11 主に関する事柄についてはすべて、祭司長アマルヤがあなたたちの上に立って責任を負い、王に関する事柄についてはすべて、ユダの家の指導者イシュマエルの子ゼバドヤが責任を負う。レビ人が書記としてあなたたちの補佐をする。勇気をもって行え。主が善を行う者と共にいてくださるように。」

明日世界が滅びるとしたら

 気候変動、パンデミック、戦争、核の脅威、テロ、食糧危機、物価の高騰、差別。この世界には多くの問題があります。
 インド洋の島国スリランカはコロナ禍以降に主要産業である観光業が低迷し、深刻な財政危機に陥りました。
 ついに食糧や燃料の輸入に必要な資金が足りなくなりました。燃料が不足すればあらゆる産業やライフラインが停止します。国民はこれでは生活ができません。
 首相は国の破産を宣言しました。
 不安定な生活が続くと、国民は怒りや憎しみを募らせます。そして誰かを悪者に仕立て、暴力を振るいます。
 それはどこか遠い海の向こうの話ではありません。日本も同じです。
 日本はまだ破産していませんが、この国にはさらに少子高齢化や自死などの問題があります。
 状況は日々悪化しているかのように思えます。
 個人の行動では何も変わらない。投票に行っても無駄ではないか。そのように思えてきます。
 ではこの怒りや憎しみをどこにぶつけたらいいのか。
 行き場のない不満は暴力となって爆発する。このような世界の中で、私たちに何ができるのでしょうか。

 もし明日世界が滅びるとしたら、あなたは今日何をしますか?
 ルターは「たとえ明日世界が滅びることになっても、私は自分のリンゴの木を植える」と言いました。

神から与えられた自分の役割を果たす

 今日の本文は南ユダ王国4代ヨシャファト王の話第2部の結末です。
 南北の友好を願ったヨシャファトは自分の考えから北イスラエルのアハブ王と同盟を結びました。そしてアハブから戦争に誘われます。
 預言者ミカヤからの警告を聞きながら、ヨシャファトはアハブと共に戦争に行きます。
 そこで集中攻撃にあい死にかけます。
 そこで神に祈ると、奇跡的に助け出されました。
 民を無事に帰らせるという神の願いは、御言葉を拒んだアハブには叶わず、神に立ち帰ったヨシャファトには叶いました。

預言者は預言者として語り王は王として治める

 無事に帰って来たヨシャファト王の前に、預言者ハナニの子イエフが進み出ます。イエフの父ハナニはヨシャファトの父アサに迫害されたという過去があります。
 イエフはこう言いました。「悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか。そのため、主の怒りがあなたに下ります。」 死にかけて帰って来た王を、きつい言葉で責めます。
 これはイエフが個人的な恨みで語ったことではありません。父の代の恨みという個人的な感情を抜きにして、預言者として神の言葉を伝えます。
 イエフは続けて言いました。「しかし、あなたには良い事も見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、揺るぎない心で神を求めました。」
 ヨシャファトは主を憎むアハブと共に歩んだ。しかし悔い改めて神に立ち帰ったことはよかった。
 どんな人生を歩んできても、神に立ち帰るのに遅すぎることはない。
 イエフが伝えた神の言葉によって、ヨシャファトは自分の過ちに気づき、今何をすべきか理解しました。
 ヨシャファトはエルサレムから出発し、南部のベエル・シェバから北イスラエルとの国境付近にあるエフライム山地まで巡回します。そして民を主なる神に立ち帰らせました。

 預言者イエフもヨシャファトも今自分がすべきことに集中しています。
 個人的な恨みで攻撃するべきではないし、自分が無事に帰って来れてよかったでは済まさない。
 預言者は預言者として神の言葉を語ることに集中します。王は王として国を治めることに集中します。
 その治世の初めに律法の教育に取り組んだヨシャファトは、自ら国中を回り、民を神に立ち帰らせます。
 南北の友好も人間の力でではなく、かつてアサ王がしたように共に主を見上げる時に一致できることを思い出したのでしょう。そして北のエフライム山地にまで足を運び、その地の住民を神に立ち帰らせます。

窮鼠猫を噛む

 危機的状況になると、私たちは今すべきことを見失います。
 強大な敵を前にして脅え、追い詰められたネズミのように攻撃的になります。
 目の前に海、後ろからエジプトの大軍にはさまれた民は、モーセに文句を言います。
 巨人ゴリアテを前にしたエリアブは、ただ兵と話しているだけの弟ダビデを責めます。
 仲間同士で争っても何も解決しません。しかし目の前の危機は人を暴力的にします。

 イスカリオテのユダが裏切りイエスが捕らえられそうになると、ある者は服を捨てて裸で逃げ去り、ペトロは剣で斬りかかりました。
 当のイエス様はどうしたでしょうか。
 イエス様は自分が裏切られ捕まり、十字架で殺されると知っていました。それなのにイエス様はいつもの場所で祈ります。
 そして攻撃的になったペトロをいさめ、斬られた人を癒しました。
 いつものイエス様です。
 嵐が襲っても、愛するラザロが倒れても、イエス様は揺り動かされません。
 それは父、子、聖霊、決して揺るがされない三位一体の完全な愛の交わりの中にあったからです。

主と共にいれば揺り動かされない

 預言者エゼキエルは妻が急死しても預言し続けました。ダニエルは祈りを禁じられてもいつも通り祈りました。パウロとシラスは牢に入れられても神を賛美しました。
 パウロがコリントに入ったとき、町の人々は彼を口汚くののしりました。パウロは同邦であるユダヤ人に対して失望します。
 そんなある夜、主がパウロに語ります。

9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

使徒言行録18:9-10

 勇気を出せ。恐れるな。キリストの福音を語り続けよ。主が共にいるのだから。
 この言葉に励まされたパウロは問題だらけの町コリントに1年半留まり、神の言葉を教え続けました。

神との交わりを大事にしつつ日常の生活を送る

 社会が混乱していく中で、私たちは自分が今何をすべきか見失います。
 明日にでも世界がバラバラになってしまいそうな危機感を抱く中で、礼拝して何になるのか、祈りが役に立つのか、聖書を信じてどうなるのか、無力感を感じさせられるかもしれません。
 それでも今日、あなたはあなたのリンゴの木を植えてください。
 神に遣わされた今いる場所で、あなたの役割を忠実に果たすのです。
 それは家に帰って家族を愛する事であり、職場に行って落ち着いて働くことであり、学校に行って勉強し知識を身に着けることです。
 投票に行くことも忘れずに。
 何より、三位一体の愛の交わりの中で生きることを見失わないでください。礼拝し、祈り、御言葉に聞き従うのです。
 主が共にいます。勇気をもって、神から与えられたあなたの役割を果たしてください。

神のかたちとして生きる

 ヨシャファトは裁判官や祭司、レビ人などのリーダーを任命しました。
 裁判官の役割は神様に代わって裁くことです。
 その法廷にも神が共にいて、その判決は神の性質を反映したものでなければなりません。
 だから不正も偏見も収賄もあってはいけないのです。
 むしろ愛と正義を反映したものであるべきです。
 詩編の中で神は王や裁判官に対しこう語ります。

2 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ 3 弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。4 弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」

詩編82:2-4
裁判官

 神に逆らう者の味方をして不正な裁判をしてはいけません。公正な裁判をするべきです。

神に逆らう者の味方をしてはならない

 ヨシャファトはこのようにも言います。「主を畏れ敬い、忠実に、全き心をもって務めを果たせ。」
 自分に任されている働きを、神様に従う心で忠実に果たしなさい。神に従う者であることを求めます。
 それに対する言葉が「神に逆らう者」です。
 預言者イエフはアハブについて悪人、主を憎む者とも言っています。
 神に逆らう者の味方をしてはなりません。
 新約聖書でも、世の友になるな、世も世にあるものも愛してはならないと書いてあります。
 ということは、クリスチャンでない人と仲良くしてはいけないのでしょうか。罪を犯す人とは縁を切るべきでしょうか。

世を愛し罪人の友になったイエス様

 神は独り子を与えるほどに世を愛し、イエスは罪人の友になりました。

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

マタイによる福音書9:10

 ユダヤ人はこのようなイエス様のことを非難しました。
 神は世の友になることを禁じます。それは彼らと同じ生き方をしてはいけないということです。
 主を憎む者の友になるというのは、アハブと同じような生き方をしてしまうことです。アハブと同じように神の言葉を無視するな。無茶な戦争に行くな。
 この世に流されてはいけない。むしろ世を愛し、罪人の友になりなさい。
 私たちは地の塩、世の光です。この世に影響されるのではなく、むしろ私たちがこの世に影響を与えるのです。

神の愛を受け取って生きる

 憎しみ、暴力を振るい、希望を見失うこの世界で、私たちはそれに流されてはいけません。
 あの野郎のせいで私の生活は滅茶苦茶だと、誰かを憎みたくなるかもしれない。それでもその人を愛し、彼らの祝福を祈れと神は命じます。
 人間の中にそのような力はありません。その力は十字架で死んで復活したイエスにしかありません。
 イエス様が罪人であった私たちのために十字架で死んでくださったことで、神の愛が示されました。
 その愛を受け取るとき、私たちも愛に生きることができるようになります。
 怒りや憎しみの人生ではなく、愛と赦しの人生を選び取ってください。

 これから益々この世の悲惨さは増していくかもしれません。
 それでも恐れるな、イエスが共にいる。勇気をもって、愛と正義を実践していきましょう。
 

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