十戒1 私たちはどう生きるか

十戒1

私たちはどう生きるか

マルコによる福音書 12:29-31

29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

必ず最後に愛は勝つ

心配ないからね 君の勇気が
誰かにとどく明日はきっとある
どんなに困難でくじけそうでも
信じることさ 必ず最後に愛は勝つ 

 KANさんの「愛は勝つ」。好きな歌の1つです。
 「心配ないからね」「必ず最後に愛は勝つ」シンプルで真っすぐな歌詞が心に響きます。
 KANさんは先日亡くなりましたが、この歌はこれからも永く歌い継がれることでしょう。
 「必ず最後に愛は勝つ」これは真理であり、希望だからです。
 心配ないからね。信じることを決してやめないで。

愛に生きる

 今年、私たちは使徒信条と主の祈りを学んできました。神について何を信じているのか。信仰者として生きていくための祈りを学んできました。
 祈りによって私たちは神の御心に従う者へと変えられていきます。
 その従うべき御心とは何でしょう。

十戒を通してどう生きるべきかを学ぶ

 聖書の中には「○○しなさい」「××してはならない」という戒めがあります。
 それを学べば、神が人に何を求めているかがわかります。
 その戒めは旧約聖書全体で613あると言われます。多いですね。
 それらを要約したものが十戒です。
 十戒を通して、私たちが人間としてどう生きるべきかを学ぶことができます。

掟の核心は何か

 では早速十戒の第一戒から。

 と行きたいところですが、まずは十戒を含む613の戒めすべてを貫く核の部分を学びます。

 戒めとか法、規則、ルールという言葉にどういう印象を持ちますか。
 自由を制限するものや束縛するものという印象を持つかもしれません。とにかく反発して破りたいという衝動にかられる人もいるかもしれません。
 しかしその核の部分を考えてみてください。
 ただトランプを渡されて、これで遊んでくださいと言われても、どうしていいかわかりません。ルールがあるから楽しく遊べます。
 交通ルールがあるのは、皆さんの命を守るためですね。
 この核の部分を理解していれば、進んでルールに従おうと思えます。

戒めの核心は愛

 では戒めの核心は何でしょう。
 あるとき、律法の専門家がイエス様に「最も重要な掟は何ですか」と尋ねました。
 それに対しイエス様が答えたのが、今日の本文です。

 最も重要な掟の1つ目は申命記からの引用です。

4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

申命記6:4-5

 それと同様に大事な2つ目はレビ記から引用されています。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

レビ記19:18B

 神を愛することと人を愛すること。どちらも愛が含まれます。
 だから戒めの核心は愛です。
 パウロもこう言いました。

愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

ローマの信徒への手紙13:10

愛に生きる人になることを目指す

 ルールには、目指すべきところを指し示すという役割もあります。

 私は昨日チョコブラウニーを焼きました。前に作ったときとは違う材料で、違うレシピを参考にしました。
 いつもダイソーで紙の型を買うのですが、なかったので金属製の型を買いました。
 家に帰って、クッキングシートがないことに気づきました。型に直接流し込めばいいかと思い、作り始めました。
 材料が違うのに、レシピを無視していつもと同じ感覚で作り始めました。
 そうすると上手く焼けず、何度か焼き直しました。
 すると端のところがカピカピに固くなってしまいました。
 それで型から外れなくなり、ボロボロの茶色く醜いかたまりになってしまいました。
 レシピに従うのは大事です。
 料理のレシピは「この通りに作ればおいしい料理ができる」というゴールを指し示しています。

 聖書の戒めの核心には愛があります。
 聖書も目指すべきところを指し示しているのです。
 それは愛に生きる人です。
 神は私たちに、愛に生きる人になってほしいと願っています。

神を愛することと人を愛すること

 イエス様は最も重要な掟を問われて、2つ答えましたね。
 ナンバー1は何かと聞かれたのに、2つ答えるなんてルール違反では…。
 いいえ、この2つの掟は切り離すことができない関係にあります。
 神を愛することと人を愛することは1つなのです。

神を愛するならば人を愛する

 神を愛する人は人を愛します。
 私たちが誰かを愛するとき、その相手が大事にするものを大事にします。
 相手の好きな食べ物を一緒に味わったり、相手の趣味を一緒に楽しんだりします。
 好きなアーティストや俳優さん、スポーツ選手がいる人は、その人の幸せも願うものです。
 結婚相手に嫌がらせをするなどして、幸せな生活を奪ってはいけません。

 神様は人を愛しています。
 私たちが神を愛するなら、神様が愛しておられるあの人のこともこの人のことも愛そうとするのです。
 そもそも目の前にいる人のことを愛することができない人が、見えない神様を愛せるはずがありません。

人を愛するならば神を愛する

 また人を愛する人は神を愛します。
 神への愛がなければ、人への愛も完成しないからです。

 愛という名の下に様々な事件が隠されています。
 愛する人を守るためだと言って、いい年をした人間の自由な選択や行動を束縛することがあります。
 愛する子をしつけるためだと言って、暴力を振るう大人がいます。
 立場を悪用し、歪んだ性的欲求をぶつける暴力が、愛という言葉で正当化されます。
 このような人間の尊厳を踏みにじる言動は、愛ではありません。
 その人間の尊厳、人間の素晴らしさはどこから来ているのでしょう。
 それは人が神のかたちに造られたという点です。
 本当に人を愛そうとするなら、神への愛は欠かせません。

愛は神から出る

 最も重要な掟の中には、愛の基準が要求されています。

存在のすべてをかけて神を愛する

 申命記によれば、神への愛は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」愛するように求められています。
 霊、魂、体、自分の存在のすべてをかけて愛しなさいということです。
 それは、神様ご自身が存在のすべてをかけて私たちを愛してくださっているからです。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

ヨハネの手紙一4:10

 まず神が全存在をかけて私たちを愛してくださいました。
 愛する独り子を与えるほどに。天の御座を捨て、十字架で死なれ、命のパンとなって私たちの食べ物となるほどに、神は人にすべてを与え尽くしてくださいました。
 だから私たちは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛します。

自分を愛するように隣人を愛する

 人への愛はレビ記によれば「自分自身を愛するように」隣人を愛しなさいと求められています。自分を愛するように、他の人を愛するのです。
 それは自分の好きなことを基準にして相手に押し付けることではありません。
 俺は野球が好きだから、お前も野球好きだろ。
 そんなことはありません。
 相手の立場に立って考えてみてください。
 自分を愛するように相手を愛するには、相手と同じ目線に立つ必要があります。

 これも神が模範を示してくださいました。
 神の子イエスはへりくだり、人になりました。
 私たちと同じように試練を経験し、泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜びました。
 だから私たちはイエス様を模範とし、隣人を愛するのです。

まず神の愛を受け取る

 この基準に従って愛していますか?
 そんなこと無理でしょう。
 このような愛は、私たちの内にはないのです。
 十戒を要約したこの2つの掟さえ守ることができません。
 これから十戒を学ぶたびに、私たちはこの現実を突きつけられます。
 目を背けてはいけません。
 自分の愛のなさ、弱さを認めて、赦しを求める必要があります。
 そしてこのような罪人のためにイエス様が十字架で死なれ復活されたことを思い起こすのです。

 律法は私たちをキリストへと導く養育者です。
 自分の罪深さを知り、キリストの愛と赦しへと導かれます。
 イエス様の愛を受け取るところから、私たちの愛が始まります。

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

ヨハネの手紙一4:7

 神の愛を信頼してください。
 どんなに私たちが倒れそうになっても神の愛は変わりません。
 心配いりません。必ず最後に愛は勝ちます。

 神は愛です。
 愛は神から出ます。
 神の愛を受け取り、愛する者へと変えられていきましょう。
 愛に生きる人になる。それが神の私たちに願うことであり、私たちの目指すところです。

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