十戒3
【第一戒】 唯一の神の前で生きる
出エジプト記 20:3
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
凧あげ
「もういくつ寝るとお正月♪」正月の前にうたわれる歌ですが、「お正月には凧上げてコマを回して遊びましょう♪」とうたいます。
凧あげは正月の伝統的な遊びの一つです。子どもの時に経験した人も多いでしょう。
浜松まつりの時も大きな凧を上げますね。
凧は風を受けて飛びます。
ただ風の力だけだと、どこかに流されていってしまいます。
糸で引っ張られることで、バランスを取って飛ぶことができます。
たった一本の細い糸ですが、この糸でつながることで、凧は凧になります。
今週から十戒のシリーズを再開します。
今日は第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」です。
神は唯一。
この唯一の神の前で生きる時、人は人として生きることができます。
ほかに神があってはならない
第一戒は他の神を持つことを禁じています。
神はただお一人しかいません。
その神は三位一体の神です。
三位一体の神
三位一体については使徒信条のところでも扱ったので説明は省きますが、父なる神、子なるキリスト、神の霊:聖霊という3つの位格でありながら本質は1つの神ということです。
凧の話に戻ると、凧を操るマスターがいて、マスターと凧とをつなぐ1本の糸があり、風の力を受けて凧は飛びます。
そのように父なる神がいて、神と人とをつなぐ仲介者キリストがいて、聖霊が神の息吹として人を生かします。
凧の話では操る人と糸と風は全く別物なのですが、神においては父・子・聖霊は一つなのです。
ちょっと何言ってるのかわからないですよね。
それに大凧を上げるとき、糸を引くのは一人ではありませんね。何人かで引きます。
だから神は一人ではなく複数いた方がいいのではないかとも考えられます。
全能の神はひとりでいい
日本には「やおよろずの神」がいると言われます。漢字で書くと八百万の神です。
800万の神!大阪府と愛知県の間くらいの人数です。
一人と愛知県民で比べたら、愛知県民の方が強そうですね。
しかしその一人は、全能の神です。
なぜ日本にはたくさんの神々がいるのでしょう。それは日本人のイメージする神には限界があったからです。
全能のお方であれば、他の神は必要ありません。
人を造られた神は、人のイメージする限界を超えています。
三位一体の神こそ、唯一まことの神です。
神から離れた人間の空しさ
ところが人は唯一の神を捨てました。
糸は切れ、吹き荒れる嵐に翻弄されて宙をさまよっています。いつか地に落ちて壊れるのを待つだけです。
引っ張って支えてくれる力を必要としています。
それで人はこの世の力を求め、それを神のように扱います。
しかしこの世の力は神ではありません。
神ではないものを神として求めても、そこから命は得られません。
むしろ空しさが残ります。
パスカルはパンセの中でこのような言葉を残しています。
それは、かつては人間にも真実の幸福があったが、今ではもう、うつろなそのしるしと痕跡だけしか残っていないということ、人間は手当たり次第に自分のまわりにあるもので、このうつろをみたそうとむだな努力をし、今あるものからは得られない救いを、今はないものから得ようと求めているが、どんなものにも救いを与える力はないということ、そのわけは、この底なき深淵をみたすことができるものは、ただ無限の不動の存在、すなわち神のほかには何もないということではなかったのだろうか。
『パンセ』L148、B425
人間の心には空白があります。人はその空白を満たすものを探し求めます。
しかしこの世のどんなものもその空白を満たすことはできません。
なぜならその空白は、神を捨てたことによってできたものだからです。
神の無限の愛の他に、心を満たすものはありません。
何を神にしているか
私たちは何で心を満たそうとしていますか。
神でないものを神として心を満たそうとしていませんか。
よい学校に入り、大手企業に勤める。そういうステータスが成功の鍵だと思う。
一生懸命働き、結果を残すことや出世することで自分の価値を認められる。
そしてお金を稼ぐ。年収や貯金が増えれば幸せになれると信じる。
あるいはブランド品や宝石を身に着け美しく着飾る。豪華な家に住み高級車を乗り回す。そういう物質を追い求める。
また人々から称賛を求める。SNSのフォロワー数やいいねの数が自分の価値だと思う。
自分を愛してくれる存在を求める。
そして自分自身を神にしてしまう。
このようなものが自分を生かし、幸せにしてくれると思ってしまいます。
しかし人生のマスターである神以外に、私たちを正しく導く方はいません。
神ではないものを頼れば、糸の切れた凧のように宙をさまよい、墜落します。
神の愛の他に心を満たすものはありません。違うもので心を満たそうとすれば、偽物の愛で私たちの心は傷ついていきます。形の合わないものを無理に入れたら、入れ物が傷つき壊れます。
無限の愛で満たされるべき心は、偽物の愛ではいつまでも満足できません。
お金があれば幸せだと思う人は、どんなにお金を手に入れても、もっと欲しくなります。限りがありません。
神ではないものを神にしてはいけません。
主だけを神とする
第一戒は、主なる神様だけを神として信頼することを求めています。
主の他に神はいらない
主を信頼するとき、神の愛によって私たちの心は満たされます。
中毒にならなくていいです。もう他のものを神にして心を満たそうとする必要はありません。
これは私の個人的な経験なのですが、私は学生の時、よくお酒を飲んでいました。
飲み過ぎて失敗しても飲むことを止めようとは思いませんでした。
お金に余裕はありませんでしたが、アルバイトの帰りにもコンビニで酎ハイを買って晩酌をしていました。
特に、サークルの仲間と汗を流した後に飲む冷たいビールは最高でした。
ところがイエス様を信じてから、ビールをおいしいと思えなくなりました。やがてお酒を飲む気がなくなり、止めました。
あくまで個人の経験です。お酒を飲むこと自体を聖書は禁じていません。
私にとっては、酒が神でした。
酒を飲めば友だちと仲良くなれる。酒を飲めれば一人前の大人になれる。お酒によって心を満たそうとしていたのです。
しかしイエス様が心を満たしてくださったので、私はお酒を頼らなくていい人生になりました。
他の神を捨てる
私たちが神ではないものを神のように頼り続けるとき、神様が強制的に引き離すことがあります。神しか頼れないという状況に追い込まれます。
病や貧しさの中で、あるいは迫害の中で、それまで頼ってきたものが頼れなくなります。神しか希望はありません。
偽物の神を頼り続けるなら、痛い目にあうこともあります。
私もお酒を神にし続けていたら、とんでもない失敗を犯していたかもしれません。
主に望みを置く
そうして頼っていたもの、握っていたものを手放すとき、本当に頼るべきお方が見えてきます。
誰かが、この世の何かが、自分を幸せにしてくれると思って握りしめていた。しかしそれらに力はなかった。
一つ一つ手放していくとき、ようやく気付きます。
誰を神として頼るべきか探し求めていたけれど、自分が神を愛したのではなく、まず神が自分を愛し続けていてくださった。
自分は間違ったものを握り続けていたけれど、この手をイエス様が握り続けていてくださった。
イエス様の手を握り返すとき、私たちは泥沼から引き上げられます。
そして聖霊の風を受けて空高く舞います。
主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
イザヤ書40:31
主なる神様だけを神として信頼するとき、私たちは本当に人間として生きる力を得ます。
神の前で生きる
第一戒は、英語の聖書では “You shall have no other gods before me.”(NIV) のように訳されることがあります。
「わたしをおいて」の部分が ”before me” 「わたしの前で」「わたしの面前で」となっています。
神に見られている
私たちは神の前で生きています。神に見られています。
そして神は私たちの心の中まで知り尽くしています。
1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
詩編139:1-2
人間の側としては、神にいつも見られているというのは恐いことかもしれません。
放っておいてくれ、好きに生きさせてくれと。
父なる神を悲しませていないか
では神様の側から見るとどうでしょう。
ご自分に似せて造った愛して止まない人間が、生ける水の源から離れて飢え渇いている。
自分のところに帰ってくれば命を得られるのに、他のものを神として頼っている。
皆さん、自分の子どもが自分の目の前で、他の人や物を「お父さん」「お母さん」と呼んでいたらどうですか。
こんな悲しいことはありません。
「目を覚ませ、お前の父は俺だ!偽物のお父さんについて行くな!」と叫びたくなります。
場合によっては力づくで、偽物の親を引き離して子どもを取り返すこともあるでしょう。
神様の目の前で、神様を悲しませるようなことをしていませんか?
神様は私たちを束縛するため、罰するために見張っているのではありません。
私たちを愛し生かすために見守っています。
神から離れ死んでいた私たちを探して救うために、神は独り子イエス様を与えてくださいました。
イエス様の十字架によって私たちの罪は赦され、復活の主と共に生かされています。
古い人は死にました。神のように頼っていたものを手放し、十字架に釘付け、葬り去ってください。
神の愛の眼差しの中で、イエスを主として信頼しその手を握るなら、聖霊の力で鷲のように空高く舞います。
唯一の神の前で生きる時、私たちは私たちの本当の人生を生き始めるのです。