受難6
主があなたを求めている
マルコによる福音書11:1-10
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
主がお入り用なのです
今度の日曜日は棕櫚の主日。イエス様がエルサレムに入城したことを記念します。
イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに入りました。このロバの子は、オリーブ山のふもとのベトファゲ村かべタニア村で借りたロバです。
イエス様は2人の弟子にこう言いました。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」
イエス様の指示は、「連れて来なさい」でした。「持ち主に話して承諾を得て借りて来なさい」ではなく、「つないであるのを勝手にほどいて連れて来なさい」です。盗んで来なさいと言っているようなものです。
白昼堂々そんなことをすれば、持ち主や周囲の人から「なぜそんなことをするのか」と問われるでしょう。イエス様もそこは想定済みで、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言わせました。
勝手に持って行こうとしておいて、「主なる神様が必要としているから持って行く」と言われても。現代の日本では絶対に通用しない論理です。
それでも弟子たちはイエス様の言う通りにしました。すごい従順です。「お言葉ですから取ってきましょう」といったところでしょうか。
これで行く弟子も弟子ですが、そこに居合わせた人々もすんなり貸してくれました。「主がお入り用ならどうぞどうぞ」と。
盗みは十戒でも禁じられています。この箇所は当然、人の物を勝手に取っていいと盗みを奨励しているわけではありません。盗もうとしているのを見つかったら「主がお入り用なのです」と言えば許してもらえるという話でもありません。
しかし突然に、神様があなたを必要とする、あるいはあなたの大切なものを手放すように要求するということはあります。
そのまま従えばいい
ロバの立場になって考えてみてください。
突然に無理な要求をしてすみません。
見知らぬ男たちが来て自分を連れて行こうとしたら恐いでしょう。ロバも鳴いたでしょう。どこに連れて行かれるのか、何をされるのかわからない。
このロバに任されたのはイエス様を乗せることです。メシアとして期待されていた人を乗せてエルサレムに入城する。そんな大役が任されていました。
いやいや、無理です。それはお馬さんの役目でしょ。私ロバ。しかも子ロバ。今まで人を乗せたこともないのに。全力で拒否したくなります。
それでも「主がお入り用なのです」の一言で許され、子ロバはイエス様を乗せることになりました。
鞍もありません。誰かの服をロバに背にかけただけで、イエス様は乗りました。
そしてエルサレムに入ると、人々は自分の服を道に敷き、その辺から取って来た葉の付いた枝を切ってきて道に敷きました。立派なカーペットが敷かれたわけではありません。
なんだかみすぼらしい感じがします。
しかしこれでいいのです。これがイエス様を迎える人々の真実な姿です。
神様は人を必要としています。
立派な人を選ぶわけではありません。
エッサイの息子たちの中で油を注がれたのは容姿端麗な兄たちではなく、羊の世話をしていた少年ダビデでした。
イエス様を身ごもったのはナザレ村のマリアでした。ナザレから何かよいものが出るだろうかと言われるほどのド田舎の娘です。
イエス様が選んだ弟子たちは社会的に評価される人たちではなく、むしろその逆のような人たちでした。
そんなことは関係ないのです。
自分は馬ではなくロバだ。私はふさわしくない。自分はまだ人を乗せたことがない。準備ができていない。そのように思うかもしれません。しかし主があなたを選んだのなら、そんなことは関係ないのです。
そのまま従えばいいです。自分の小さな背中にイエス様を乗せて、歩くのです。行く先々にイエス様をお届けするのです。
こんなみすぼらしい自分がイエス様をお届けできるだろうかと思うかもしれません。
確かに私たちは自分が立派な器ではなく、土の器のように思えることがあるでしょう。ひびが入り、欠けたところのあるみすぼらしい器です。このようにみすぼらしい器に、神様の素晴らしさを納めるなんてふさわしくない気がします。
しかしひびや欠けがあるからこそ、その中にある宝は隠すことができません。
私たちが小さなロバだからこそ、イエス様の素晴らしさは隠すことができません。
「主がお入り用なのです。」神様があなたを必要とするなら、ありのままの姿で従いましょう。
主が求めるなら手放す
次にロバの持ち主の姿になって考えてみてください。
自分の大切にしていたロバを、誰かが勝手に持って行こうとしている。生まれた頃からかわいがってきた家族のように大切なロバを、連れて行こうとしている。
捕まえてぶん殴りたくなるほど怒りがわいてきそうな場面です。
しかし大人ですから、冷静に「なぜそんなことをするのか」と聞きました。すると「主がお入り用なのです」と。
それを聞いた持ち主は大切なロバをすんなり貸し出しました。
自分の元から一時的にでも離れるのはつらいでしょう。
しかし主が必要とするなら、と手放しました。
3月は別れの季節。私たちも様々な別れを経験しているでしょう。
まさに盗み取られるように、大切な人との突然の別れを経験するかもしれません。家族のように親しい関係を築いてきた人との別れもあるかもしれません。
そんな愛する人との別れをすんなり受け入れられますか。難しいでしょう。
てめぇ、何てことしやがるんだ!返せ!と捕まえてぶん殴りたくなるほど怒りがわいてくる人もいるかもしれません。誰に対して?神様に対してです。
別れの痛みを知っている神
神様はアブラハムに、愛する独り子イサクをささげよと命じました。
100歳になって生まれた念願の子ども。神様が与えてくださった大切な息子です。そんな大切なイサクをささげるなんて、簡単にできるはずがありません。
しかしアブラハムは次の日の朝早く、モリヤ山に向けて出発します。
彼は、命の主は命を与えてくださると信じていました。
そしてモリヤ山でイサクを屠ろうとしたとき、天使がそれを止め、犠牲の羊を示しました。
愛する者との別れは心が痛みます。
それを最も知っているのは神様です。
人が罪を犯して離れ去ったことに心を痛めています。
その人間を救うために、神はその独り子をお与えになりました。
別れの痛みを知っている神様が、ただ私たちを苦しめるために別れを経験させるはずがありません。
その別れは、主が必要とされているからかもしれません。
神様のために用いられるために、新しい地に踏み出すのかもしれない。長い闘いを終えて安息を得るために、主が召しているのかもしれない。
別れの痛みを癒すもの
歌手の宇多田ヒカルさんが、SNSのライブ配信で「誰かとの別れを乗り越えるのはなぜこんなに痛いのか」というファンからの質問にこう答えました。
「(略)関係が終わったり、誰かを失ったりする時に痛みを感じるのであれば、それは最初から心の中にあって、その関係が痛み止めのような役割を果たしていたんだと思います。心の中の痛みを紛らわしてくれる存在というか…。そんな支えを失ってしまうことに痛みを感じるのだと思います。たとえ相手に依存しないようにしていたとしても、実際は頼ってしまうというか…。少なくとも、私の経験から学んだことです。」
「すごい感性」「ハッとした」 宇多田ヒカルの『別れに対する考え方』が話題に!
痛みは最初から心の中にあったけれど、人との関係がその痛みを紛らわせてくれていた。
確かにそのような部分があるかもしれません。
私たちの心にあるその痛みを根本的に癒してくださるのは神様しかいないのではないでしょうか。
イサクをささげようとしたアブラハムに、神様はイサクを返しました。死んだ息子が生き返ったような喜びがあったことでしょう。
神様は独り子イエスを十字架で死なせましたが、3日目に復活させました。
別れの痛みを神様は癒します。
だから神様があなたの大切な人やものを必要とされるなら、喜んでささげてみませんか。祝福して送り出してみませんか。