クリスマスシーズンになると街はイルミネーションが輝き、とても賑やかで楽しい雰囲気になります。
でも皆が楽しいクリスマスを迎えられるわけではありません。仕事の忙しさや、一人ぼっちの寂しさ、来年に対する不安など、暗い気持ちで過ごす人も多くいます。クリスマスの楽しさも一時的で、はかないものです。
私たちはこの世で生きていく中で、力を失い、夢も希望も失っていきます。生きることに理由を見出せなくなってしまう人もいます。
この人生に意味はあるのか。
希望はあるのか。
あります!
クリスマスはすべての人のための喜びの知らせです。
7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネによる福音書10:7-10)
人は門を見失った羊
聖書は私たちのことを羊にたとえることがよくあります。当時のユダヤ人にとって、羊はとても身近な動物でした。羊たちは囲いの中に守られていました。囲いには門が1つだけあります。羊は自分の羊飼いの声を聞き分け、唯一の門を通って牧草地に導き出されました。
イエス・キリストは、自分のことを羊の門だと言い、「わたしより前に来た者」がいると言っています。この人たちは門ではないところから羊のところに来たんですね。囲いを乗りこえて入ってきました。彼らは偽物の羊飼いです。イエス・キリストはファリサイ人のような、指導者たちのことを言っています。
私たちの上にも色々な立場の人がいます。親、教師、上司、政治家。彼らは私たちを産み育て、教え、給与を払い、生活を守ってくれます。大事な存在です。しかし人は完全ではないです。失敗することがあります。親から傷つけられ、先生からいじめられ、上司に利用され、政治家に裏切られることもあります。
イエス・キリストはそのような人々のことを、盗人であり、強盗だと言っています。かなり強烈な言葉ですね。実際、私たちはこの世の指導者たちから養われるより、搾取されることが多くあります。親が自分の願望を実現するために子どもを利用する。先生や学校の評価を上げるために学力調査でよい点を取るよう勉強させる。部下には徹底的にコストをカットさせておきながら、ボスは役員報酬をだまし取る。こうして私たちはこの世の中で疲れ、夢も希望も失っていきます。特定の誰かを非難しているわけではありません。私たち自身も、周りの人を幸せにするより、傷付けてしまうことがありますよね。皆、生きる指針を失っているということです。
そうすると私たちは誰に従ったらいいかわからなくなります。従うべき門番の羊飼いを見失っています。飼い主のいない羊のようです。
飼い主のいない羊はどうなるでしょうか。どこに行けばいいかわからず、さまよいます。道を踏み外し、崖から落ちてしまうかもしれません。守ってくれる人がいないので、狼やライオンに襲われて食べられてしまうかもしれません。待っているのは滅びだけです。
だから門を見失って、誰に従えばいいかわからなくなった羊は、死んでいるのと同じです。私たちはどのように生きればいいか、どこに向かえばいいのか、人生の方向性を見失ってさまよいます。そして滅びへ向かう人生を歩んでいます。
なぜこうなってしまったのでしょう。そもそも、なぜ羊は門を見失ったのでしょう。なぜ人は道を見失ってしまったのでしょう。
それは、私たち自身が選択したからです。私たち自身が、私たちを造られた神様のところから離れ、神様に従うことを拒みました。人は皆、そのような罪の中にいます。この世界は人の罪のために壊れています。この世界は暗闇であり、土の塵から造られた人間は塵に還るしかありません。全ての造られたものが罪の影響下にあります。だから私たちには救いが必要です。
人になった神の子イエス
羊が自分で門から離れました。私たちが神を捨てました。自分で滅びの道に行ったのです。
そうしたら自業自得ですね。強盗のような人に捕まったって、自己責任でしょう。帰りたければ自分で何とかするべきだ。神のところに帰って来たいなら、自分で神を見つけて、きれいに足を洗って、ちゃんと頭下げて、お詫びの品を持って帰るべきだ。
私たちはつい、そのように考えてしまいます。でも私たちにその力はありません。
人は神を見出すことができますか。もし、神とはこのような存在であると理解したと思ったなら、それは人の頭の中に納まる小さな神です。人に理解できる神なら、それはもはや神とは言えないでしょう。
罪から完全に足を洗うことができますか。罪から離れようと思っても、離れられません。同じ失敗を何度も繰り返してしまうのが人間です。
神さまに頭を下げて、お詫びの品を差し出すとしたら、何がふさわしいでしょうか。私たちが罪の罰を受けようとするなら、私たちは生きていけません。
このような人間を、神は見捨てませんでした。飼い主のいない羊のような人間を神様はご覧になり、深く憐れまれました。
人は神のところに帰ることができません。羊は門に戻ることができません。
どうすればいいですか。
神の方から人に来たらいいです。門の方から人に来たらいい。
でもそんなことがありえますか。
門というのは、動かないものでしょう。入口にどっしり構えているものです。
先日、新城にある鳳来寺山に行きました。1000段以上の階段が有名です。その階段の途中に門があります。大きな金剛力士像があり、阿形と吽形が恐い顔でにらんでいます。歴史あるお寺の栄光と力に満ちた立派な門でした。本来の門の形ですね。栄光に輝き、力強く構え、ふさわしくない者が入らないようにします。
ところが聖書は、その門が栄光と力を棄て、羊の方に、人の方に来たと言っています。
その門とは、イエス・キリストです。
By Yanajin33 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
ヨハネによる福音書は1章1節で、
『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』
と言っています。この言とはイエス・キリストのことです。
イエス・キリストは神ご自身です。三位一体の神の第二位格、神の子。
ところがその神が、人になったと言います。
『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』(ヨハネによる福音書1:14)
イエス・キリストは私たちと同じ人間でした。お腹が空くし、疲れるし、眠るし、涙も流します。
そしてイエス・キリストは愛する弟子から裏切られました。見捨てられ、嘲られ、鞭打たれました。イエス・キリストは私たちの痛み、苦しみ、悲しみを知っています。
ただ一つ、そして決定的に私たちと違うのは、罪がなかったということです。
誰もイエス・キリストの罪を見つけることはできませんでした。これはイエス・キリストが罪の影響を受けていないということです。つまり造られたものではなく、造り主、神ご自身だという証拠です。
この神が人となって私たちの間に一緒に住んでくださったことを記念するのが、クリスマスです。神の子が聖霊によって処女マリアの胎に宿りました。そして赤ちゃんとして生まれました。
赤ちゃんは本当に弱い存在です。誰かの助けなしには生きられません。赤ちゃんは、栄光と力の真逆の存在ですね。
栄光の座にいるべき全能の神が、力ある門が、私たちの方に来られました。最も弱い存在になって来られました。だから私たちが今どのような状態にあるとしても、あらゆる悲しみ、病、孤独、弱さ、その中に神が共にいてくださいます。
クリスマスはそのような、すべての人のための喜びの知らせです。
豊かな命を与えたい
神の子イエス・キリストは何をしに来たのでしょうか。
10節で「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言っています。
罪の中で死んでいた私たちのために、イエス・キリストは十字架で死なれました。すべての人の過去・現在・未来のすべての罪の償いが完了しています。キリストは死んで3日目に、死の力を打ち破り復活しました。イエス・キリストは私たちを罪から解放し、死から命へ救い出すために来られたのです。
あと私たちがするべきことは、ただ信じることです。門が私たちのところに来てくれても、これが門だと認めずに拒むこともできます。しかし信じる者は門を通り、神のもとに帰ります。
昔ウルトラクイズという番組がありました。知力・体力・時の運を競うという変わったクイズ番組です。その中で〇と書かれた門か×と書かれた門か、どちらかの門に飛び込むというコーナーがありました。間違えた門を選んだら泥の中に落ちてしまいます。恐いですね。
私たちがもしたくさんの門の中から正しいものを選ばなければならないとしたら、ちょっと待ってと言いたくなります。ギリギリまで追い詰められないと飛び込めませんね。
でも、私たちの前にある門は一つしかありません。私たちのところに来た門は一つしかないのです。そしてその門が「わたしを通って入る者は救われる。」と約束しています。この約束を信頼しますか。必要なのはそれだけです。知力も体力も時の運も必要ありません。
神が願っているのは、私たちが暗闇の中で弱り果て、打ちひしがれることでも、泥の中に沈むことでもありません。偽牧者たちがしてきたように、私たちを利用することでもありません。神は、「私のところに帰っておいで。今までよく頑張ったね。私の囲いの中で休みなさい。一緒に牧草を食べに行こうか。すべての日、すべての瞬間、私はあなたと共にいて、あなたの幸せを願っているよ。命を豊かに受けなさい」と願っています。
この世界には痛み、悲しみ、苦しみがあります。でもこの暗闇の世界に光が来ました。神はあなたが、命に満ち溢れ、喜び感謝が尽きず、希望を持って生きてほしいと願い、キリストの十字架で愛を示しました。この希望は失望に終わることがありません。神の愛があなたの心に注がれているからです。唯一の門を通って、神の懐に帰って来たからです。
この世界には恵みが注がれています。主を見上げるなら、花も雲も風も海も、この世界が恵みに満ち溢れていることがわかります。
最後に、クリスマスの定番の曲でもある「天には栄え」を、その歌詞をかみしめながら聞いていただきたいと思います。
新聖歌79番「天には栄え」
1.「天には栄え み神にあれや
地(つち)には安き 人にあれや」と
み使いたちの たたうる歌を
聞きてもろびと ともによろこび
今ぞ生まれし 君をたたえよ
2.さだめたまいし 救いのときに
神のみくらを はなれて降り
み霊によりて 処女(おとめ)にやどり
世人の中に 住むべきために
今ぞ生まれし 君をたたえよ
3.朝日のごとく かがやきのぼり
み光をもて 暗きをてらし
土よりいでし 人をいかしめ
つきぬ命を あたうるために
今ぞ生まれし 君をたたえよ
クリスマスは全ての人のための喜びの知らせです。あなたへのクリスマスプレゼントが来ています。この世の中で夢や希望を持って生きていい。あなたは愛されて生きていていい。そのような命に満ち溢れて生きていくあなたになることを願っています。