歴代誌講解39
喜びをもって出て行く
歴代誌下 7:1-10
1 ソロモンが祈り終えると、天から火が降って焼き尽くす献げ物といけにえをひとなめにし、主の栄光が神殿に満ちた。2 祭司たちは、主の栄光が神殿に満ちたので、神殿に入ることができなかった。3 イスラエル人は皆、火と主の栄光が神殿に降るのを見て、ひざまずいて敷石の上に顔を伏せ、礼拝して、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美した。4 王はすべての民と共に主の御前にいけにえをささげた。5 ソロモン王は牛二万二千頭、羊十二万匹をささげた。こうして、王はすべての民と共に神殿を奉献した。6 祭司たちはその務めに就き、レビ人たちも、主の楽器を持って立った。その楽器は、ダビデ王が、彼らの演奏によって賛美をささげるとき、「その慈しみはとこしえに」と主をたたえるために作ったものである。彼らの傍らで祭司たちはラッパを吹いた。すべてのイスラエル人が立っていた。7 ソロモンは主の神殿の前にある庭の中央部を聖別して、そこで焼き尽くす献げ物と、和解の献げ物である動物の脂肪をささげた。ソロモンが造った青銅の祭壇に、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、動物の脂肪を供え尽くすことができなかったからである。8 そのときソロモンは、すべてのイスラエル人、レボ・ハマトからエジプトの川に至るまでの極めて大きな会衆と共に、七日間にわたって祭りを執り行った。9 彼らは七日間、祭壇の奉献を行い、七日間、祭りを行って、八日目に聖なる集まりを開いた。10 第七の月の二十三日に王は民を自分たちの天幕に帰らせた。彼らは、主がダビデとソロモンとその民イスラエルになさった恵みの御業を喜び祝い、心は晴れやかであった。
祈りが何になる。礼拝が何になる。
ついにロシア軍がウクライナへの軍事侵攻を開始しました。
ミサイルが軍事施設だけでなく市街地にも撃ち込まれ、民間人にも死傷者が出ています。首都キエフなど主要都市には戦車が迫り、市街地での戦闘も発生しています。市民は地下鉄などに避難し、不安な日々を送っています。
国連安保理はロシアを非難する決議案を提出しましたが、常任理事国であるロシアが拒否権を発動し、採択されませんでした。ウクライナはNATOに加盟していないため、NATO諸国も介入ができません。
プーチンは「ロシアはソ連崩壊後も最強の核保有国の1つだ」と脅しています。
これまでの戦争の反省を踏まえ、世界各国は国際法によって侵略を禁止してきました。しかしプーチンは平和維持の名目で侵略を正当化しています。
今もウクライナの市民が死の恐怖に脅え、命を奪われています。
このような現実の中で、私たちに何ができるのでしょう。
神に祈るしかないのでしょうか。
祈れば戦争が止みますか。コロナのために祈り続けても終息していないのに。
かと言って何もしないで温かく安全なところでニュースを眺めるだけではいられません。
私たちは今それぞれの生活の場から離れて礼拝に集っています。
礼拝に来て口癖のように「神様感謝します」と言う。こんな時に何が感謝なのか。
そのような無力感に悩まされます。
心を合わせて祈り続けよ
今日の本文は神殿奉献の儀式の最後の場面です。
ソロモンが祈り終えると天からの火が降り、ささげものを焼き尽くしました。神殿は主の臨在、シェキナーの栄光で満ちています。
これは主が祈りを聞いてくださった確かな証拠です。旧約聖書の中で天からの火がいけにえを焼き、主が祈りに答えるという場面がいくつかあります。それと同じことが繰り返されています。
ソロモンがしたように、主の名が置かれる神殿に向かって祈れば、祈りは聞かれる。イスラエルの民はそう確信したでしょう。
もう天から火は降らず雲は満ちない
しかしこれはこの時だけです。
これから毎日神殿でいけにえがささげられ、祈りがささげられます。しかしも二度と神殿に天からの火は降らず、神殿が主の栄光で満たされることはありませんでした。
エルサレムがバビロン軍に包囲されるという危機的状況でもです。
主の救いを求めていけにえをささげ、祈る人たちがいたでしょう。しかし天から火は降らず、神殿に雲は満ちません。
結局バビロン軍はエルサレムの城壁を突破し、市街地に侵攻し、民間人を剣で殺します。そして神殿はバビロン軍が放った火で焼かれます。
神様は本当に祈りを聞いているのだろうかと思えます。
それでも祈りは聞かれている
それでも祈りは聞かれています。
イエス・キリストはこう約束しました。
19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
マタイによる福音書18:19-20
目の前の現実より確かな主の約束
主の約束は現実を超越します。
私たちは目の前の現実を見ながら、祈りは聞かれていないのではないか、主は私たちを見捨てたのではないかと思わされます。
しかし目の前の現実より確かなものがあります。
それは主の約束です。
だから現実がどうであれ、ここにイエス様が共にいて、祈りを聞いています。
目には見えないけれど、イエス様は私たちと共にいます。
場所は離れていても、互いの顔は見えなくても、心を合わせて祈る祈りを主は聞いています。
現実の悲惨
しかし現実も無視できません。
目の前の現実より確かな主の約束があるとしても、実際に苦しんでいる人たちがいます。
病で苦しむ人たち、経済的に苦しむ人たち、医療の現場で戦い続ける人たち、愛する人との別れに打ちひしがれている人たちがいます。
実際に住んでいる街にミサイルを撃ち込まれ、軍用ヘリや戦車が迫っている。現実に命を落とす人がいるではないか。
それでも主は恵み深く慈しみは尽きない
その中でもイエス様は共にいて、天のお父さんは祈りを聞いています。
十字架で死なれたイエス様は、人の痛み、悩み、苦しみを知っています。
墓に葬られたイエス様は、神から見捨てられたような最も低く暗く冷たいところにも共にいます。
だから私たちの祈った通りにならなくても「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美し、主はいつもよいお方であると確信できます。
目に見える変化がなくても祈りを止めてはならない
私たちが願ったようにならなくても、主は確かに私たちの祈りを聞き、働いています。
痛みや悲しみの中にある人を神は放っておきません。
だから祈りを止めてはいけません。
たとえ天から火が降って来なくても祈りは聞かれています。主の栄光が満ちなくても、主は共にいます。
祈り続けましょう。
礼拝者たちによって世界は変わる
今日の本文の後半にはイスラエルの民が集まって7日間の祭りを行ったことが記録されています。
集まったのは、北はレボ・ハマトから、南はエジプトの川に至るまでの人々です。レボ・ハマトはユーフラテス川に近い地域です。エジプトの川がどの川なのかはわかりませんが、エジプトとの国境を意味します。ですからユーフラテスの大河からエジプトとの国境に至るまでの全イスラエルが集ったというわけです。
これほど広大な地域をイスラエルが治めたことはダビデの時代にもソロモンの時代にもありませんでした。
この領域はイスラエルの民が約束の地カナンに入るときに神様が約束した範囲です。
ここに集まった人たちはソロモンの力で集めたのではなく、神様が呼び集めた人たちなのです。
大規模な神殿奉献の祭り
神様に呼び集められた民が共に祭りを行います。
祭司とレビ人は彼らの前に立ち、ダビデが準備した楽器を持って「主の慈しみはとこしえに」と賛美しました。
そしてソロモンは大量の牛と羊をささげました。牛2万2千頭と羊12万匹です。
羊12万匹を7日間でささげるには、1日あたり17000匹くらいささげます。1日10時間作業をするとして、1時間あたり1700匹。だいたい2秒に1匹の計算です。2秒に1匹、屠って血を注ぎ、体を分割して水洗いし、薪の上に乗せる。同時に神殿のいたるところでささげたのでしょう。とにかく大量のいけにえだったわけです。
このような大規模な祭りを行った結果、「彼らは、主がダビデとソロモンとその民イスラエルになさった恵みの御業を喜び祝い、心は晴れやかであった。」
民は喜びにあふれて晴れやかな心でそれぞれの生活の場所へと帰っていったのです。
主を喜び力を得る
これは礼拝の姿です。神様に呼び集められた人たちが主に賛美をささげ、祈りをささげ、御言葉をいただき、いけにえをささげます。
そして人々は喜びにあふれて晴れやかな心でそれぞれの生活の場所へと帰っていきます。
彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
ネヘミヤ8:10
礼拝の重要な点が語られています。
私たちは主に礼拝をささげ、主を喜んで力を得ます。
主を喜ぶことこそ、私たちの力の源です。
礼拝者たちは喜び出て行く
今日も一週間の初めにそれぞれの場所から呼び集められて、教会あるいはオンラインで礼拝に集っています。
主に賛美をささげ、祈りをささげ、御言葉をいただき、献金をささげます。
そして主を喜んで力を得、それぞれの生活の場所へと遣わされていきます。
喜びにあふれて家庭に、職場に、学校に出て行きます。
神の国の最前線が礼拝の場に来ている
しかし世界の現実を見ながら、自分だけ安全なところで喜び楽しんでいいのだろうか。世界の悲惨を見ながら何が感謝なのだろうか。礼拝なんて結局は自己満足ではないか。そう思わされることがあるかもしれません。
いいえ、礼拝は自己満足ではなく、世界を変えるために必要な時間です。
私たちは礼拝で主を喜び、それぞれの生活の場に出て行きます。
神の民がこの世に出て行くことによって、この世界は変えられていきます。
自分だけ楽しみ喜んで終わりではありません。喜びをもって出て行く神の民たちによって、この世に神の国が臨みます。
神の国の最前線が、今ここに、礼拝をささげるこの場に来ています。
平和のために何をしたらいいのか
ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサが記者から質問を受けました。「世界平和のために私たちは何をしたらいいですか?」
マザー・テレサはこう答えました。
「家に帰って自分の家族を愛してください。」
世界平和のためにできることは、まず家に帰って自分の家族を愛すること。
自分がいるべき場所に帰ってそこで愛を表す。そこから世界平和が始まっていきます。
私たちが帰る場所、遣わされている場所は家であったり、学校や職場とも言えるかもしれません。
世界に出て行って愛を表すように召される人もいますが、多くの人にとって自分の家庭を中心とした生活が愛を表すように神から遣わされた場所です。
愛を行わないことで争いが起こる
ある金持ちがナイフを持った男にパンを奪われたとします。
この金持ちにとってパンを奪った人は強盗であり、テロリストです。
しかしパンを奪った人は生きるためにそうするしかなかった人かもしれません。
この世界には不公平な現実があります。
一部の人が力で支配し、多くの人は力なく虐げられます。
ごく一部の人が富を独占し、ほとんど多くの人が貧しく暮らしています。
一部の国では食べるものが捨てるほどあり、多くの国では食べるものに困り、飢え、命を落としています。
それで力のない人が生き延びるために仕方なくパンを奪った。
するとこいつはテロリストだ、だから打ち殺せと言われる。
もちろん強盗は犯罪です。しかしまず解決しなければならないのは、彼をそこまで追い詰めた不公平な現実です。
礼拝者は愛を行う者に変えられる
分け合うことが必要です。
ネヘミヤは礼拝について語りながら、「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。」と言います。
分け合うことが求められています。愛の実践です。
礼拝をささげて神の愛を受け取った私たちは、神を愛し隣人を愛する者に変えられます。
自分の遣わされる場所で愛を実践することが求められます。家族に、そして隣人に、分け合うように求められているのです。
分け合うときに争いの種はなくなっていきます。
パンを分け合うなら戦争なんてしていられない
列王記にはパンを分け合うことで戦争が終わった話が記録されています。
アラムと北イスラエルが戦争をしていました。エリシャのいるドダンという町が包囲されました。
エリシャは、ドダンを包囲するアラム軍をさらに取り囲む天の軍勢を見ます。そして天の軍勢はアラム軍の目をくらませ、北イスラエルの首都サマリアに連れて行きます。
北イスラエルの王はアラム軍を剣で打ち殺そうかと言いますが、エリシャは彼らにパンを食べさせ飲み物を飲ませ、家に帰らせなさいと言います。
イスラエルの人々とパンを食べ、愛を表された彼らは、もう二度とイスラエルに攻めてきませんでした。
一緒にパンを分け合う関係になったら、もう戦争などできないのです。
隣人に愛を行う
これは隣の国同士の話です。イスラエルとアラムは歴史的文化的に深いつながりがあります。そんな民族同士でも争いが生じてしまいます。
ロシアとウクライナも歴史的文化的に深いつながりがあります。
日本、韓国、中国も歴史的文化的に深いつながりがありますが、争いが起こってきました。
この隣の国同士、隣人同士が分かち合う関係になることができれば、戦争はできなくなります。
だからそれぞれ遣わされる場所に帰って愛を実践すること。これが世界平和の第一歩です。
神様は私たちを招き、主を喜ぶことによって力を与えてくれます。
今日の礼拝を通しても力を得てそれぞれの生活の場へ喜びをもって出て行く。そしてどんな状況でも祈りをささげていきましょう。