主の祈り2
天にましますわれらの父よ
ローマの信徒への手紙 8:14-16
14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
どのような神に祈るのか
先週は、祈りとは何であるかを学びました。
「祈りとは神の御心に一致する事のために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです。」
神様にお願いをするとしても、相手が得体の知れない存在ならお願いは空しいものになります。
私は子どものころ、神社に行って祈ったことも、亡くなったおじいちゃんの仏壇の前で手を合わせたこともあります。何と祈っていいかわからなかったし、その祈りはただ心の中でつぶやいているのと変わらないじゃないかと思いました。
ここで、私たちが祈りの対象とする神はどのようなお方か、そして私たちとどのような関係にあるかを学びたいと思います。
天にいる父なる神
まず祈る対象はどのようなお方でしょうか。
それは天におられる父なる神です。
この地上にいる誰かや何かではありません。どんなに立派な人物でも、その能力には限りがあります。
石や金、また山や天体なら長い間変わらないかもしれません。しかしそこに命はありません。
神は霊であり、知恵、力、聖、義、真実において、無限、永遠、不変の方です。そして今日も神は生きています。
このようなお方は、父、子、聖霊の三位一体の神以外にありません。
天の父への畏れ
この天におられる父なる神に、私たちはどのように向かい合うことができるでしょうか。
1つは畏れです。
偉大な存在や大自然を目にすると、私たちは畏れを感じます。これは、その素晴らしさを認めるということです。
私は初めてこの目で富士山を見たとき、その美しさに圧倒されました。
それで静岡市で生まれ育った友人に、そのことを話しました。相手の反応は「え、そう?」という感じでした。
幼いころからずっと見ていると、当たり前になってしまいます。
私たちもクリスチャン生活を続けていると、神への畏れ、つまり天におられる父なる神がどれほど素晴らしいお方かということを忘れてしまうかもしれません。
天の父への親しみ
この畏れと共に、私たちは親しみを持ちます。
この神は、父なる神なのです。そして私たちは神の子です。御子イエス・キリストの十字架によってあがなわれた私たちは、聖霊によってキリストにつながり、神の子とされています。
私たちは神に愛されている子どもです。
地上の親は、父親だけでなくもちろん母親も、子どもを愛します。子どもを助けたいと願っているし、子どもの幸せを喜びます。
地上の親は不完全なので、子どもにふさわしい助けを与えられないことも、子どもとの約束を破ってしまうこともあります。
しかし天のお父さんは、無限の力で私たちを助け、約束を果たします。
このお父ちゃんには何でも話せる
完全な神の子であるイエス様は、このように祈りました。
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
マルコによる福音書14:36
アッバというのは、韓国語の아빠(アッパ)みたいなものです。お父ちゃんという感じですね。
このお父ちゃんには、何でも話せます。何でもできるお父ちゃんに、何でもお願いできる。一日を振り返って、どんなことがあったかお話することもできる。また悩みや不安も聞いてくれます。
そして親に抱きしめられている子どものように、自分が愛されていることに何の疑いも持たずにすべてを委ねるのです。
親に抱っこやおんぶされていたときのあの安心感、覚えていますか?
私にとってはもう30年近く前の記憶ですが、まだ心の深いところに残っています。
天のお父ちゃんは、私たちが何歳になってもどれほど重たくなっても、抱きかかえ、また背負ってくださいます。
私たちの神への祈り
もう一つ大事なことは、「われらの」父だということです。
私たちは共に神の子とされ、共通の父がいます。
だから教会で、家で、学校でも職場でも、兄弟姉妹と共に祈ることができます。そして他の人たちのためにも祈ることができます。この場にいない兄弟姉妹のために、他の教会や世界中の兄弟姉妹のために祈ることができます。
たとえ一人で祈るときにも、天におられるわれらの父に、他の人々のためにも祈りをささげていきましょう。