歴代誌講解67
天まで届く礼拝
歴代誌下 30:1-5, 10-12, 25-27
1 ヒゼキヤはすべてのイスラエルとユダに使者を遣わし、またエフライムとマナセには書簡を送り、エルサレムの主の神殿に来てイスラエルの神、主のために過越祭を行うように呼びかけた。2 王とエルサレムの高官とすべての会衆は協議し、第二の月に過越祭を行うことに決定した。3 それは、まだ自分を聖別した祭司の数が十分でなく、民もエルサレムに集まっていなかったので、その時に過越祭を行うことができなかったからである。4 その決定は王の目にもすべての会衆の目にも正しいと思われたので、5 彼らはそれを実行に移し、ベエル・シェバからダンに至るまですべてのイスラエルに通知を送り、皆がエルサレムに来て、イスラエルの神、主のために過越祭を行うように呼びかけた。規定どおりにその祭りを行っている者は多くなかったからである。
10 急使はエフライムとマナセの地を町から町へと巡り、ゼブルンまで行ったが、人々は彼らを冷笑し、嘲った。11 ただアシェル、マナセ、ゼブルンから、ある人々が謙虚になってエルサレムに来た。12 また、ユダに神の御手が働いて、人々の心が一つにされ、主の言葉に従って王と高官の命令が実行に移された。
25 こうして、ユダの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者、ユダに住む者が共に喜び祝った。26 エルサレムに大きな喜びがあった。イスラエルの王ダビデの子ソロモンの時代以来、このようなことがエルサレムで行われたことはなかった。27 祭司たちとレビ人は立ち上がって、民を祝福した。その声は聞き届けられ、その祈りは主の聖なる住まい、天にまで達した。
神に立ち帰り神の民として歩み出す礼拝
今日の本文は南ユダ王国12代目ヒゼキヤ王の話その2です。
ヒゼキヤは王になった第1年の第1の月1日から神殿をきれいにし、16日まで続きました。
過越祭を祝う
ヒゼキヤはその後、過越祭を行うように呼びかけました。
南ユダだけでなく北イスラエルの部族にも手紙を送り、一緒に過越祭を祝いましょうと呼びかけています。
このように呼びかけた理由の1つは、過越祭を本来のタイミングで行えなかったからです。
本来の過越祭の日程は第1の月の14日です。
その時はまだ神殿を清めている最中で、準備ができませんでした。自分を聖別した祭司の数が十分でなく、民もエルサレムに集まっていなかったので過越祭を行うことができませんでした。
それで王は民とも話し合った上で、1ヶ月後の第2の月の14日に過越祭を行うことを決定しました。
その1ヶ月の間に、使者や手紙を送って過越祭を祝いましょうと呼びかけたわけです。
ヒゼキヤが民に呼びかけた内容が6~9節に記録されています。
そこには主に立ち帰ろうと語られています。過越祭のことは一言も語られていません。
この呼びかけに対する応答が10節以降に記録されています。
北イスラエルの人々は冷笑し嘲りました。「南ユダのやつらが何か言ってるぞ。今さらエルサレムに行って過越祭なんかやるわけないだろ。そもそも過越祭について一言も触れないって、何のための呼びかけだよ。」
しかしいくつかの地域からはある人々が謙虚になってエルサレムにやって来ました。
神様によって人々の心が一つにされ、主の言葉に従って王と高官の命令が実行に移されました。第2の月の14日に過越祭が祝われたわけです。
過越しのいけにえが屠られ、人々はそれを食べます。
しかし北イスラエルから来た人々の多くは身を清めていませんでした。彼らはいけにえを屠ることができないので、レビ人が代わりに行いました。
そしてユダの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者が共に主を賛美し喜び祝いました。
祭司たちとレビ人は立ち上がって、民を祝福しました。
その声は聞き届けられ、その祈りは主の聖なる住まい、天にまで達したとあります。
このように天まで届く礼拝がささげられました。
過越祭とは何か
過越祭とは何でしょうか。
イスラエルの民がエジプトで奴隷状態だったとき、エジプトを10の災いが襲いました。
10番目の災いは死の災いです。エジプト中を神様が行きめぐり、長子の命を奪います。
ただ神様が命じた通り小羊の血で清められた家は死の災いが過ぎ越しました。
こうして神の言葉に従った民は、神の約束通り命が与えられました。そしてエジプトを脱出し、奴隷ではなく神の民として歩み始めました。
このことを記念し、死の災いが起こった第1の月の14日に小羊を屠り、脱出前の食事を再現して酵母を入れていないパンと野菜を食べることになりました。
これが過越祭の由来です。
神はこの過越祭を毎年祝うように命じています。だからイスラエルの民は過越祭を大事にしました。
新約聖書の時代にも、世界中に散らばっていたユダヤ人たちが過越祭の時にエルサレムに集まって礼拝していました。イエス様も公の生涯の間に3回過越祭のためにエルサレムに行ったことが福音書に記録されています。
死ぬべき民が命を得て歩み出す
ヒゼキヤも過越祭を重視しました。
先代のアハズ王の時代、王をはじめ国民も神を捨ててしまいました。神を捨てるという罪を犯した南ユダの民は死ぬべき存在です。
このとき北イスラエルも危機的状況にありました。北イスラエルは末期です。ホシェア王の時代で、アッシリアに包囲され滅ぼされる直前です。北イスラエルの民は神を捨てて立ち返ることなく、滅ぼされようとしています。
そのような死ぬべき状況にある人々に向かって、ヒゼキヤは過越祭を呼びかけました。
死ぬべき人々を救うために小羊の血が流され、人々が命を得る。そして神の民として新たに歩み出す。
過越祭はそのような決意を込めた祭りでした。特別な礼拝です。
礼拝は大切
礼拝は安息日にもささげられていました。十戒で命じられているように、毎週の安息日は大事です。
その上で特に記念すべき祭りがありました。過越祭はその1つです。
私たちにとっても毎週の日曜日、主日の礼拝はとても大事です。週ごとにささげられる礼拝に向けて、ただ日曜日に教会に来るだけでなく、よく備えてささげることが求められます。
礼拝は何のために何をするのかを意識したことはありますか?
それを探るヒントがヒゼキヤの呼びかけの中にあります。
特別な礼拝である過越祭。その呼びかけのはずなのに、ヒゼキヤが言ったのは「主に立ち帰れ」ただこれだけです。
主に背いたことを悔い改め、主に立ち帰ろうと呼びかけています。
私たちも礼拝について、このことを意識してみてください。私たちは神に立ち帰らなければなりません。
礼拝を備えながら、私たちの心は神に向かっているだろうかと考えてみてください。
もしかすると私たちの心は礼拝中でも神様に向かわず、仕事のことや学校のこと、生活のことに向かっているということがあるかもしれません。
礼拝の大切な要素の1つは、神に立ち帰ることです。今まで何と神を忘れて生きてきたことかと、自分の罪を悔い改めて神に立ち帰るのです。
神に立ち帰るとき、神を忘れていたにも関わらず神が与えてくださった恵みに気づき、感謝が湧いてきます。賛美があふれます。
礼拝のたびに命を得て神の民として歩み出す
私たちの教会では過越祭を祝うことはしていませんが、過越祭の概念は毎週の礼拝でも覚えるべきものです。
死ぬべきものが小羊の血によって命を得、神の民として歩み始めた。
私たちも死ぬべき罪人でした。その私たちのために小羊が血を流しました。
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
ヨハネによる福音書1:29
洗礼者ヨハネはイエス・キリストを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と言いました。
そしてイエス・キリストは十字架で血を流し死なれました。
動物の羊ではなく神の子羊が、完全な人間であるイエス様が血を流し死にました。
イエス様が死なれたのは、まさに過越祭のタイミングでした。毎年繰り返さなければならなかった過越しの子羊ではなく神の子羊イエスが死なれたことによって、私たちを死に定めた罪から完全にあがなわれました。
そしてイエス・キリストは死の力を打ち破り復活しました。
イエスを信じる私たちは新しい命を受け、神の民として歩み出すことができます。
私たちは毎週の礼拝でこのことを覚えます。
礼拝のたびに神に立ち帰り、イエスの死と復活を思い起こします。
そして神の言葉を聞いて新しい命を受けて新しい一週間へと遣わされていきます。
毎週の礼拝で私たちは古い自分に死に、新しく造られた者として歩み出します。
神の言葉を聞く今まさに、私たちは新しくされています。
それは神の御業です。
謙虚にされて礼拝をささげる
10節から12節に、ヒゼキヤの呼びかけに対する人々の反応があります。
ある人々は嘲笑いました。
しかしある人々は謙虚になってエルサレムに来て礼拝をささげました。
これは神の御手の働きだと言います。
私たちも友だちを教会に招こうとすると、嘲笑われるかもしれません。「お前アーメンかよ!」とか言って。
そのような反応に対して、ああこの国の99%はイエス様を知らないのだ。イエス様を知ってる俺スゲー!なんて高ぶってはいけません。
私たちがイエス様に出会ったのは自分の功績ではありません。
私たちも罪を犯し完全に堕落したものでした。ただ一方的な神様の選びによって、イエス様を信じる恵みが与えられています。
信仰さえも神様の恵みです。
だから私たちは礼拝するときに謙虚にならなければなりません。
礼拝ささげる私は偉い。礼拝ささげないあの人は不真面目。そのように思ってはいけません。
むしろまだ礼拝に来ることができていない人たちのためにも祈ってください。
神様の前に進み出ようとするなら、私たちは謙虚にならざるを得ません。
不十分に見えても天まで届く礼拝
私たちが謙虚になって礼拝をささげるときに、自分のささげる礼拝が不十分であると思わされることもあります。私の賛美を聞いたら神様は気分を害するのではないか。
私自身、礼拝の奉仕を任されるようになった時はとても荷が重かったです。礼拝の司会を任されるようになりました。礼拝の中で仕えることができるのはうれしかったです。しかし私の場合、賛美がどうしても苦手でした。音痴なので。
周りの人がどのような音で賛美をしていても、とにかく自分の賛美を神様にささげたらいいです。
ある人は違う言語で賛美をささげるかもしれません。いいんです。
ある人は全然違うオリジナルの賛美をしているかもしれません。礼拝中に騒ぐ幼い子など。いいんです。
大人の目には、ハーモニーを乱し礼拝の邪魔をしているように見えるかもしれません。それでも彼らは彼らなりの賛美をささげていると思ってください。
自分の判断で、このような礼拝は神に喜ばれ、このような礼拝は神に喜ばれないなどと裁いてはいけません。
たとえ不十分に見えても、神様の前で謙虚になってささげる礼拝は、天まで届く礼拝です。
そのままで神は受け入れてくださる
今日の本文で北イスラエルから来た人たちの大多数は身を清めていませんでした。礼拝をささげる準備ができていませんでした。
ヒゼキヤは、お前らは聖所の規定に従っていないから帰れ、などとは言いませんでした。いいよいいよ、そのままで大丈夫。一緒に礼拝ささげよう、と招きます。
18-19節でヒゼキヤは彼らのために祈りました。彼らは律法のルールには従っていない。それでも神様、あなたを求めて来ました。どうか恵みをもって彼らを受け入れてください。そのように祈りました。
主はヒゼキヤの祈りを聞き、民を癒されました。
神は人のささげる礼拝が不十分だからと拒むことなく、受け入れたことを示してくださいました。
私たちは人々を見ながら、賛美の音程が外れる人や静かにしていられない子どもを黙らせようとしたり、教会に始めてきた人のファッションに眉をひそめたりするかもしれません。
こうして神様を求めて来た人たちを礼拝の場から追い出します。
そのような権利は、私たちにありません。
神様を求める人たちを、私たちは喜んで受け入れるべきです。
もし彼らに足りないところがあるように見えるなら、彼らのために祈ってください。
助けが必要なら助けの手を差し伸べてください。
あらゆる違いを超えて共に礼拝する
人々は喜びをもって賛美をささげました。
お祝いは1週間に渡り、食べて喜びました。
そこには南ユダの人々、北イスラエルの人々、寄留者も共にいました。
信仰によって神の民とされた
神の民とは誰でしょう。
アブラハムの子孫が神の民と呼ばれるようになります。
それは血統ではありません。ダビデもその系図にはルツという異邦人が入っています。血統書付きのイスラエル人ではないわけです。それでもダビデはあらゆるイスラエル人から尊敬される王です。しかもそのダビデの子孫からイエス・キリストが生まれます。
何をもって神の民と言えるのか。血統ではありません。
神の言葉に従う人々こそ神の民です。
イエス・キリストを信じる私たちも、信仰によるアブラハムの子、神の民なのです。
寄留者、異邦人であっても、イエス様を信じる私たちは聖霊によって神の民とされています。
争い合ってきた人々も共に神を礼拝する
また、北イスラエルと南ユダ、200年間に渡って互いに争って来た民が1つになって礼拝をささげました。
礼拝は、あらゆる違いをもった人々が1つにされる場でもあります。
ここにも色々な違いをもった人々がいます。
その違いを超えて、私たちは共に礼拝をささげます。
礼拝が信仰生活の中心
祭司たちとレビ人は立ち上がり民を祝福しました。
神様からの祝福を受けて人々はそれぞれの生活の場へと出て行きます。
この礼拝を神様は聞き届けてくださいました。主の聖なる住まい、天にまで達します。
今私たちがささげる礼拝も、神様は今まさに喜んで聞き届けてくださっています。
イエス様は私たちの間にいて、私たちと共に礼拝しています。
今一度、礼拝とは何であるのか考えてみてください。
礼拝において私たちは神に立ち帰ります。
神様の恵みとして、私たちは招かれます。神様を忘れて去る一週間を過ごしたとしても、足りない礼拝に感じられたとしても、神様は喜んで受け入れてくださいます。
礼拝にはあらゆる違いを持った人々が集まります。礼拝にはそのような恵みがあります。
礼拝は私たちの信仰生活の中心です。
神様の祝福を受け、新しい命をもってそれぞれの生活の場へ遣わされていきます。
礼拝から新しい一週間が始まります。その一週間の中で次の礼拝を備えます。そして礼拝をもって一週間を締めくくります。
この一週間も礼拝者として過ごし、次の礼拝も天まで届く礼拝を感謝の心で備えていきましょう。