安らぎを与える神

歴代誌講解48

安らぎを与える神

歴代誌下 14:1-14

1 アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った。2 彼は異国の祭壇と聖なる高台を取り除き、石柱を壊し、アシェラ像を砕き、3 ユダの人々に先祖の神、主を求め、律法と戒めを実行するように命じた。4 アサはまたユダのすべての町から聖なる高台と香炉台を取り除いた。こうして彼の統治の下で国は平穏であった。5 主が安らぎを与えられたので、その時代この地は平穏で戦争がなかった。そこで彼は、ユダに砦の町を次々と築いた。6 彼はユダの人々に言った。「我々はこれらの町を築き、城壁を巡らし、塔を建て、城門を造り、かんぬきを付けよう。我々は、我々の神、主を求めたので、この地を保有することができる。主を求めたからこそ、主は周囲の者たちから我々を守って、安らぎを与えてくださったのだ。」そこで彼らは建設を始め、完成した。7 アサには盾と槍を携えるユダの兵三十万、小盾を携え、弓を引くベニヤミンの兵二十八万がいた。これらの者は皆、勇士であった。8 クシュ人ゼラが百万の軍隊と戦車三百両を率いてマレシャまで出て来たとき、9 アサはそれを迎えて出陣し、両軍はマレシャ近くのツェファタの谷で戦いの準備をした。10 アサは彼の神、主を呼び求めて言った。「主よ、あなたは力のある者にも無力な者にも分け隔てなく助けを与えてくださいます。わたしたちの神、主よ、わたしたちを助けてください。わたしたちはあなたを頼みとし、あなたの御名によってこの大軍に向かってやって来ました。あなたはわたしたちの神、主であって、いかなる人間もあなたに対抗することができません。」11 主はアサとユダの目の前でクシュ人を撃たれ、クシュ人は逃げた。12 アサとその軍隊はゲラルまで追撃した。クシュ人は敗北を喫し、主とその陣営の前で打ち砕かれて倒れ、生き残った者は一人もなかった。持ち帰った戦利品は極めて多かった。13 彼らはまたゲラルの周辺にあるすべての町をも撃った。主への恐れが彼らを襲ったからである。彼らはそのすべての町で略奪をほしいままにした。そこには奪い取れるものが多かったからである。14 彼らは家畜の群れの天幕も打ち払い、多くの羊とらくだを捕獲して、エルサレムに帰った。

安らぎを与えるもの

 安心して暮らすためには何が必要でしょうか。
 着るものがあり、食べるものがあり、住むところがある。お金もある。仕事もある。家族や友人がいる。社会が安定している。趣味がある。
 これらのものはすべて必要です。どれか1つでも欠ければ生活は不安定になります。
 これに加えて、もしもの時の頼りも必要ですね。保険に入ったり、警備会社に守ってもらったり。
 何よりも大切なのは、信頼できることではないでしょうか。
 安心の材料をかき集めて守りを固めても、信頼がなければ安心できません。

 昔、中国の杞という国に住んでいたある人が、天が落ちてきたりしないだろうか?と心配しました。すると外に出られません。家にいても、大地が崩れたりしないだろうか?と心配しました。そして彼は夜も眠れず食事もできなくなってしまいました。
 このように余計な心配をすることを杞憂と言います。

 絶対に揺るがないものを信頼していなければ、杞憂になります。
 しかし目に見えるものはすべて移り変わります。
 パンデミックが起って社会は一変し、大国が再び侵略戦争を起こし、絶対に変わらないと思っていたうまい棒の値段が12円になったのです。
 絶対に揺るがないものは神と神の言葉だけです。
 だから安心して暮らすために何よりも必要なのは、神への信頼です。

神を信頼する者は安らぎを得る

 今日の本文は南ユダ王国3代アサ王の話第1部です。アサ王については3回に分けて話します。
 アサ王についてまず1節で「アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った。」と記されています。南ユダ王国の善い王の最初の人です。

 彼の治世の最初の10年間は平穏でした。
 その理由として、アサが主を求め律法に従うように命じたからだと言います。
 主を頼りとしたので、主は安らぎを与えてくれました。
 そしてユダの人々は町を建設し、安心して生活することができました。
 神を信頼し、神の言葉に聞き従うことが安心の秘訣だということがわかります。

信仰があっても災いにあうが、応答が違う

 では神様を頼れば災いにあわないか、クリスチャンになれば絶対安全かというと、そうではありません。
 人間の罪によって壊れたこの世界にあっては、信仰のあるなしに関係なく災いにあいます。
 自然災害は分け隔てなく襲ってきます。クリスチャンも不慮の事故や思いがけない病気に苦しみます。
 その災いのときにどう応答するかで、信仰が試されます。

 アサの治世の最初の10年が過ぎた後、クシュ人が100万人の兵と戦車を携えて攻めてきました。
 南ユダにはユダ族30万、ベニヤミン族28万の兵がいます。ベニヤミン族は弓を使う兵です。
 南ユダは2倍の兵力を持ち兵器の性能も差がある敵と戦わなければなりませんでした。

 突如降りかかったこの災いにあって、アサは神に祈りました。
 災いにあったときに主に祈るというのは、神殿でのソロモンの祈りを思い起こさせます。
 戦争に行かなくてはならないときも、主に祈るなら助けてくださいとソロモンは祈っています。
 アサはひいおじいちゃんであるソロモンの祈りを引き継ぎます。

 困難な状況にあったとき、私たちはどう反応するでしょうか。
 混乱しパニックになるかもしれません。自分の知識や経験、自分の能力でどうにかするかもしれません。他人の力やお金の力など、この世の力で解決しようとするかもしれません。
 これら世の力を利用することで安心を得られる部分もあります。
 しかし私たちに本当に安心を与え、世の力が頼れない状況でも助けてくれるのは神様と神様の言葉です。
 だから困難な状況にあったとき、静まって神を求められるかどうかで信仰が試されます。

静まって神の救いを見る

 今日の本文より絶体絶命な状況がかつてイスラエルにありました。
 エジプトから脱出したばかりのイスラエルの民の行く手を海が阻みました。そして後ろからエジプトの大軍が迫ってきます。戦う力も逃げ道もありません。
 この絶体絶命の状況でモーセは言いました。

13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

出エジプト記14:13-14

 そしてモーセが海に向かって手を差し伸べると、主は激しい風で海を二つに分け、道を作りました。

 困難な状況にあったとき、神を信頼し祈れるか、御言葉に聞き従って歩み出せるかが問われます。

小さな群れよ恐れるな

 イエス・キリストはこのように言いました。

小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

ルカによる福音書12:32

 思い煩うなという話の中で語った言葉です。
 あなたがたが小さな群れでも、神は必要な助けを与え、喜んで神の国を与えてくれるよと約束しています。

目の前の状況に左右されない安らぎ

 だから目の前の状況に左右される必要はありません。
 私たちはあれを持っていない。私たちは数が少ない。想定外の状況に恐れ、他人と比較し弱気になります。
 たとえ何の力もない小さな群れであっても、恐れる必要はありません。
 神は力ある者にも無力なものにも分け隔てなく助けを与えます。
 必要なものを十分に満たしてくれます。
 そして私たちを神の国の民として生かしてくださいます。
 目の前の状況がどんなに悲惨でも、私たちは神の国の民です。
 神を信頼するなら、目の前の状況を超えた神の真実の中で平安を得られます。

無力さを感じる時こそ神を信頼する

 今まさにこの世の現実の中で自分たちが無力で小さな群れだと感じているかもしれません。
 教会に集まる人数は少ない。圧倒的少数な私たちがこの地の塩、世の光として影響を与えていけるはずがない。聖書の言葉は生活の役に立たない。
 そう思うなら、目の前の現実に揺るがされています。
 確かに現実は無視できません。
 それでも神の言葉は生きていて力があります。
 目の前の現実に対して無力さを感じ、自分たちが小さな群れだと感じる時こそ、神を信頼する時です。
 神を信頼し一歩を踏み出すなら、百万の軍隊を退け、山も動き、水の上も歩けます。
 今私たちは、神への信頼が問われています。

神に出会い信頼を深める

 神様を信頼するためには、神様がどのようなお方であるかを知ることが大切です。

神はどのようなお方か

 南ユダの王様の評価は、「主の目にかなう正しいことを行った」かどうかで測られます。
 そして「父祖ダビデのように」という言葉がよく使われます。ダビデが基準になっています。
 主は心を見るお方ですから、ダビデが何をしたかではなく、どのような信仰で行ったかということが評価の基準です。ダビデの信仰が模範とされているわけです。
 ではダビデは神様をどのようなお方として見ていたのでしょうか。
 詩編に記録されたダビデの詩の1つを見てみます。

1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

詩編23:1-4

 ダビデは神様を羊飼いとして見ています。
 現代の日本に生きる私たちには神様が羊飼いと言われてもよくわかりませんね。
 私たちは羊のような存在です。
 羊飼いは羊を導き、青草の原で休ませます。安らぎを与える神です。そこでリフレッシュし、力を得ます。
 死の陰の谷のような災いが襲ってくることはあるけれど恐れません。なぜなら神が共にいて強め、励ましてくれるからです。
 神様がどのような方であるかを知れば、神様に安心して従い、災いの中でも安らぎを得ます。

知識で終わらせてはいけない

 神がどのようなお方であるかを知るために、聖書を読むだけでは足りません。
 神についての知識を得るだけでなく、生きておられる神様に出会うことが大事です。

 聖書の言葉を知識で終わらせてしまっていませんか。
 日曜日に説教を聞き、神様についての知識を得た。そしてそれぞれの生活の現場に遣わされていく。
 しかし聖書の話は聖書の世界の話で、牧師の説教は教会という限られた世界の話だ。現実の世界とは関係ない。
 そのように判断すると、生きておられる神様を体験することはできません。

信仰を実践する

 アサ王の素晴らしいところは、信仰を実践したことです。
 歴代の王たちは祭司などから律法を学ぶ機会があったでしょう。
 しかしレハブアムやアビヤはそれを実践することができませんでした。
 アサ王は律法で学んだことを実践しました。
 申命記にあるように、異国の祭壇を壊し、石柱を壊し、アシェラ像を砕きました。
 それらは尊敬するひいおじいちゃん、ソロモン王が建てたものです。
 でもそんなの関係ない。学んだ律法を実践しました。

 神殿でソロモンがどのように祈ったかも学んだのでしょう。
 信仰の先輩の模範に従い、困難に直面したアサは主に祈りました。

 私たちにも今、聞いた御言葉を実践することが求められています。
 目の前の状況に左右される前に、神様の前で静まって祈ってみてください。
 人を愛するなんて無理だと初めから諦めないで、私たちのために十字架で死なれ復活されたキリストを覚え、その愛に倣ってみよう。
 赦すことはできなくても、敵のようなあの野郎のために祝福を祈ろう。
 そのように一歩一歩、御言葉に従ってみるのです。
 神様が本当に生きておられ今も働いておられることがわかります。

御言葉を実践する人は災いの中でも安らぎを得る

 御言葉に聞いて従うと、その人が本当に岩の上に家を建てた人のようだということがわかってきます。嵐にあった時の反応が違うのです。
 そしてイエス様の声に聞き従うなら、ペトロのように水の上さえも歩ける。道なきところに神が道を造られることがわかります。
 そして神への信頼はますます揺るぎないものになっていきます。

 この世の状況がどんなに悲惨でも、自分が無力に思えても、主を求める者に主は平安を与えてくれます。
 この約束は真実です。
 これからの一週間の生活の中で、実際に静まって祈り、御言葉に従って一歩を踏み出してみてください。
 安らぎを与える神に出会います。

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