小さな者の中で生まれた救い主

アドベント

小さな者の中で生まれた救い主

ミカ書 4:14-5:5

14 今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。2 まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。3 彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。4 彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。5 彼らは剣をもってアッシリアの国を/抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い/我々の領土を踏みにじろうとしても/彼らが我々を救ってくれる。

マッチ売りの少女

マッチ売りの少女

 アンデルセンの童話に「マッチ売りの少女」という悲しい物語があります。

マッチ売りの少女(原作:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 翻訳:結城浩)

 大みそかの夜、ひとりの少女がマッチを売っていました。雪の降る寒い夜でしたが、頭に何もかぶっていません。靴ははいていましたが、お母さんの形見の靴です。大きすぎて脱げてしまい、なくなってしまいました。町の家々からはロウソクのあかりとおいしそうな料理の香りがあふれています。しかし少女に帰る家はありません。マッチを売ってお父さんにお金を渡さなければ、殴られます。しかし町の人たちは少女に関心を払いません。マッチは一本も売れませんでした。
 少女は道端に座り込みました。あまりにも寒くて、手がかじかんでいます。少女はマッチを1本取り出して、家の壁にこすりつけました。1本のマッチでも指を温めればほっとできるかもしれません。
 マッチの火はとても大きく見えました。まるでロウソクのよう。いや、ストーブのようです。少女はその炎で手を温め、足も伸ばして温まろうとしました。しかし炎は消え、ストーブも消えてしまいました。残ったのは燃え尽きたマッチだけです。
 少女はもう一本壁にこすりつけました。するとレンガの壁がヴェールのように透け、中の様子が見えます。テーブルの上にはガチョウの丸焼きが乗っています。驚いたことに、そのガチョウがナイフとフォークを刺したままテーブルから降り、少女の方に歩いてきます。しかしまたマッチが消え、目の前には冷たい壁があるだけでした。
 次に少女がマッチをすると、少女はどこかの家の中にいて、クリスマスツリーの下に座っていました。たくさんの飾りがついています。ツリーの上でたくさんの光が輝いているようです。マッチの火が消えると、それらの光が空高く上っていきます。その内の一つが流れ星になって落ちていきました。
 そのとき少女は「星が1つ落ちるとき、魂が1つ神さまのところへ引き上げられるのよ」というおばあちゃんの言葉を思い出しました。
 少女がもう1本マッチをすると、亡くなったはずのおばあちゃんが現れました。もしマッチが消えてしまったら、ストーブやガチョウ、クリスマスツリーのようにおばあちゃんも消えてしまう!
 少女は慌てて残ったマッチすべてを壁にこすりつけました。少女は光に包まれました。おばあちゃんは少女を抱きしめ、高く高く上っていきます。そしてもう寒さもなく、空腹もなく、恐れもないところ、神様のところへ帰ったのです。
 翌朝、凍え死んだ少女が発見されました。貧しい少女の悲劇的な死です。しかし少女の顔は微笑んでいました。

 誰からも見捨てられたような状況にあっても、主は救いの計画をお持ちで、それを成し遂げます。

ベツレヘムでメシアが生まれる

 今日の本文は南ユダ王国の預言者ミカの預言です。南ユダ王国がアッシリアの脅威にさらされているとき、この預言が与えられました。
 シオンとはエルサレムのことです。エルサレムはアッシリアに包囲されました。あるいは後にバビロンに包囲されることを預言しているのかもしれません。いずれにしても、王の力でこれらの大国を退けることはできませんでした。
 しかし主は、救いの計画を定めています。それはすぐには成し遂げられません。いつかベツレヘムでイスラエルを治める者が生まれる。その方は永遠の昔から存在している。その方によって平和が実現する。
 このように主は、メシア(救い主)がベツレヘムで生まれると約束したのです。

小さな町ベツレヘム

 ベツレヘムとはどういう町だったのでしょうか。「ユダの氏族の中でいと小さき者」と言われています。小さな町でした。城壁で囲まれたような都市ではありません。
 ベツレヘムという名前は直訳すると、パンの家です。肥沃な土地で、穀物の畑や果樹園に囲まれた田舎でした。
 しかしこんな田舎の町が、聖書の主要な事件の舞台になります。
 ヤコブの妻の1人ラケルはエフラタに埋葬されました。このエフラタが後のベツレヘムです。
 ルツ記のナオミが嫁いだエリメレクはベツレヘムの人で、親戚のボアズもベツレヘムに住んでいました。ルツはボアズと結婚し、ベツレヘムに住みます。そしてその子孫からダビデ王が生まれます。後にベツレヘムはダビデの町とも呼ばれるようになりました。

神から見捨てられたように思える時がある

 このメシア預言が成し遂げられるまで、長い年月がかかりました。それまで人々は、主に捨てられたような感じがしたかもしれません。
 敵に包囲され、頼りにしていた指導者も無力にさせられている。神に助けを求めても、神は沈黙している。
 私たちが今直面している問題も、主に捨てられたように感じられることがあるかもしれません。
 全世界を覆うパンデミック。全世界の教会で、寺院やモスクで、また家々で毎日祈りがささげられています。しかし状況は改善されず、再び悪化しています。
 経済的に追い詰められる人も出てきています。国は客を呼び込むキャンペーンを行いましたが、感染が増えた地域ではまた時間を短縮するなどの制限が行われています。年末年始の大切な時期に商売ができないというのは大きな痛手です。それに対して十分な補償は行われません。
 私たちの生活の中でも、仕事の問題や進路の問題、人間関係や経済的な問題、また健康のために長く祈ってきた方々がいます。しかし状況は改善しない。神は沈黙したまま。もう神に見捨てられたのかと思えてきます。

永遠の昔から定められた救いの計画

 しかしそんな敵の前で小さくされた私たちに、主は約束します。「1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。2 まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。」 と。
 見捨てられたように思えても、主は救いの計画を持っています。その計画は永遠の昔から定められています。それは変わることのない計画です。
 神の計画は必ずいつか完了します。救いは成し遂げられます。いつまでも見捨てられたままではありません。
 ミカが預言してから約700年後、エルサレムの郊外に立てられた十字架の上で、ベツレヘム生まれのひとりの男が叫びました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」
 このお方は、私たちを神から引き離すすべての罪を背負って十字架で死なれました。だから私たちはもう、神から見捨てられることはありません。
 この方は十字架につけられる前に約束しました。

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

ヨハネによる福音書14:18

 この約束通り、死んで3日目に復活し、今も生きておられます。救い主は今日も私たちの間に生きておられます。

神の御子はベツレヘムで生まれた

 ガリラヤのナザレで大工をしていたヨセフは、ダビデの家系に属していました。
 ローマ皇帝が住民登録を命じたので、先祖の生まれ故郷であるベツレヘムに向かいました。
 婚約者のマリアも一緒に行きました。このマリアは聖霊によってみごもっていました。
 そしてベツレヘムに着く頃、産気づき、男の子を出産することになります。
 この赤ちゃんこそ、神の子イエス様です。
 神の約束はこうして実現しました。

牧者と君主を立てるという約束

 ミカは、7人の牧者、8人の君主が立てられると約束しています。7人とか8人というのは象徴的な数字です。たくさんの、ということです。
 イエス様はこの地上に来られた時、誰かを羊飼いにしたり王様に任命したりしたということはありませんでした。その代わり、弟子たちを選びました。
 弟子の1人ペトロにイエス様は、「わたしの羊を飼いなさい」と言いました。そのペトロは教会の長老たちを、「神の羊の群れを牧しなさい」と勧めています。だから教会のリーダーたちが羊飼いたちであると言えます。
 では王とは誰でしょうか。ペトロはキリストの弟子たちを「王の系統を引く祭司」と言っています。私たちはキリストと共に世界を治める王とされています。
 アッシリアのような強大な問題が人々を襲うことがあるかもしれません。問題に取り囲まれ、人々から見捨てられたように、あるいは神から見捨てられたように感じることがあるかもしれません。
 それでもキリストの弟子である私たちが立ち向かい、安心して生きることができるようになるのです。

キリストに従う牧者と君主

 イエス・キリストは神ご自身でありながら、小さな者の中で生まれ、人々の間に住みました。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネによる福音書1:14

 今日の本文によれば、救い主はイスラエルを治める者として来ます。
 実際に来られた救い主は、人々の上に君臨し人々を利用するような統治者ではありませんでした。イエス様は私たちの間に住まわれました。
 キリストの弟子である私たちは、キリストの模範に従う羊飼いや王です。
 羊の毛で暖まり、その肉を食らうような羊飼いではありません。羊を養い、羊のために命を捨てる羊飼いです。だから私たちは人を支配したり利用したりしてはいけません。むしろ人々の益を求めて自らをささげるべきです。
 人の上に君臨し仕えられる王ではありません。私たちは仕える者です。

小さな者たちに救いを届ける

 クリスマスが近づいてきました。一年の終わりが近づいています。
 今、マッチを売る少女はいません。しかし相変わらず、寒さに震える人たち、お腹を空かせている人たち、安心できる居場所がない人たちがいます。人々から見捨てられ、神からも見捨てられたかのように思える状況にいる人たちがいます。クリスマスを祝えるような状況ではありません。
 誰がそのような小さな者たちにクリスマスの喜びを届けるのでしょうか。誰が彼らに救いを届けるのでしょうか。
 もちろん救い主はキリストの他にはいません。その救いを届ける役割はキリストの弟子である私たちに委ねられています。
 まず私たち自身がクリスマスの喜びを受け取りましょう。そして救いを必要としている小さな人たちに、この喜びを伝えていく、そのようなキリストの弟子となることを願います。

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