エゼキエル書講解38
巨大なワニと葦の杖
エゼキエル書 29:1-7
1 第十年の十月十二日に主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、あなたの顔をエジプトの王ファラオに向けて、王とエジプトの全土に対して預言し、3 語って言いなさい。主なる神はこう言われる。エジプトの王、ファラオよ/わたしはお前に立ち向かう。ナイル川の真ん中に横たわる巨大なわによ/お前は言う。『ナイル川はわたしのもの/わたしが自分のために造ったものだ』と。4 わたしはお前の顎に鉤をかけ/うろこにナイル川の魚をつけさせ/ナイル川の真ん中から引き上げる/お前のうろこについた川のすべての魚と共に。5 わたしはお前を荒れ野に捨てる/ナイル川のすべての魚と共に。お前は地面に倒れたままで/引き取る者も、葬る者もない。わたしは野の獣、空の鳥に/お前を食物として与える。6 エジプトのすべての住民は/わたしが主であることを知るようになる。お前は、イスラエルの家にとって/葦の杖にすぎない。7 彼らがお前の手をつかむと/お前は折れ、彼らの肩は砕けた。彼らが寄りかかると、お前は裂け/彼らの腰はすべてふらついた。
助け合い成長する子どもたち
水曜日から土曜日まで、子どもキャンプに行ってきました。
子どもたちが同年代のクリスチャンの友だちと一緒に聖書を学び、遊んできました。ケンカもしました。
2日目の昼は外でカレーと焼きそばを作りました。火を起こし、米をとぎ、野菜を切るのも子どもたちでチャレンジしました。互いに知恵を出し合い、協力しておいしいごはんができました。
韓国から来ていた先生は、「日本で食べたものの中で一番おいしい!」と言っていました。
3日目には事件が起こりました。施設から借りた空気入れが壊れてしまいました。部品がなくなってしまったのです。
みんなで一緒に探しに行きました。結局見つけられませんでしたが、問題を解決するために一緒に協力しました。
聖書の学びではダビデの人生をモデルに、神様に心を見る方であること、心を神様に向ければ恐れるものがないこと、悔い改めるるなら神様は清くしてくれること、どんなときでも賛美することの力を学びました。
学んだことがどれほど心に残っているかわかりませんが、今回の経験をきっかけに、これからも成長していくことを期待しています。
こういう子どもキャンプのとき、先生たちは基本的に優しくないです。身の回りのことは自分でさせます。問題が起きてもすぐ助けません。ちょっと難しい課題にもチャレンジさせます。
ある小学校1年生の男の子は、「先生のくせに何でやってくれないの!」と怒っていましたが、先生だからやってあげないです。
子どたちが自分たちで助け合い、一つになり、成長することを願っているからです。
ある子は弱さがあるでしょう。強い子が助ければいいです。ある子は知らないことがあるでしょう。知っている人が教えればいいです。
弱いからといって仲間外れにしたり、知らないからといって笑ったりするのはよくないです。
もしそのように力を間違ったことに使う子がいたら、先生が入って叱らなければなりません。
エジプトへの預言
今日の本文はエジプトへの預言です。
エジプトはナイル川によって豊かに潤され、古代から繁栄した王国でした。その姿は巨大なワニにたとえられています。
エジプトはその力を誇りました。
それは正しい姿ではありませんでした。
イスラエルはエジプトの力を頼ってきましたが、エジプトは彼らの期待を裏切りました。まるで葦の杖のようでした。
主はなぜエジプトに力を与えたのでしょうか。
エジプトは与えられた力を正しく使いませんでした。
だから主はエジプトを裁きます。
巨大なワニ
まず今日の本文の1節から3節前半で『1 第十年の十月十二日に主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、あなたの顔をエジプトの王ファラオに向けて、王とエジプトの全土に対して預言し、3 語って言いなさい。主なる神はこう言われる。エジプトの王、ファラオよ/わたしはお前に立ち向かう。ナイル川の真ん中に横たわる巨大なわによ』 とあります。
主は私たちに力を分け与えています。
豊かなエジプト
今日はエジプトのファラオと国民への預言です。
エジプトと言えば何を思い浮かべるでしょうか。ピラミッド、ミイラ、ヒエログリフ、面白いものがたくさんあります。これらは古代エジプト王国の遺産です。
天文学や幾何学の面でも高度な文明を築いてきました。
その姿は巨大なワニにたとえられています。
ここで出てくるワニという言葉はヘブライ語でレビヤタンと言います。
ヨブ記の中で神様ご自身が最強の生物として造ったと言われた龍のような生き物です。レビヤタンを見たことある人いますか?ちょっと想像しづらいですね。
巨大なワニと言った方が想像しやすいですね。
それで今日のタイトルは「巨大なワニと葦の杖」としました。ハリーポッターの新作のタイトルではありません。
巨大なワニは強そうなイメージですね。エジプト王国のイメージにぴったりです。
ナイルの賜物
エジプトが繁栄したのはナイル川のおかげでした。
古代の文明は大きな川のそばで発展しました。メソポタミアはチグリス・ユーフラテス川、インドはインダス川、中国は黄河、そしてエジプトはナイル川によって潤されて人々が集まり、発展しました。
エジプトはナイルの賜物という言葉もあります。ですから地理的な恵みでエジプトは発展してきたわけです。
ナイル川をそこに通したのは誰でしょうか。
エジプト人ではありません。創造主なる神様です。
主がレビヤタンのことを最強の生物としてほめたたえているように、主はエジプトを祝福し、繁栄と力を与えました。
繁栄や力は、主の恵みで与えられるものです。
賜物を用いる
恵みをいただいた人はどのようにするべきでしょうか。
その恵みの賜物を用いなければなりません。
子どもキャンプの中で、子どもたちはたくさんのタラントをもらいました。積極的にがんばった人にシールが与えられました。
最後の夜に、マーケットが開かれました。たくさんの勉強道具やおもちゃが販売されました。それを子どもたちが買います。
代金はどうするかというと、与えられたタラントを用いるのです。
このタラントというのはイエス・キリストが語られたたとえの中に出てくるものです。
もともとは金の重さをはかる単位でしたが、後にお金の単位としても使われるようになりました。
イエス・キリストはそれを神様が分け与えた賜物のたとえとして用いています。
主人が3人のしもべに5タラント、2タラント、1タラントの管理を委ねました。
5タラント、2タラントを預かった人はそれを用いて商売をしました。主人は彼らに対し、「忠実な良いしもべだ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ。お前は小さなことに忠実だったから、大きなことを任せよう。」と言われます。
一方、1タラント預かった人はそれを惜しみ、土の中に埋めておきました。主人は帰って来て、彼から1タラントを取り上げて5タラント用いた人に渡してしまいます。
主人はどういう気持ちだったでしょうか。悲しいですね。タラントを用いてもらうために委ねたのに、それを使わないどころか土の中に隠してしまった。
主人はタラントをよく使ってもらい、一緒に喜びたかった。
だからよく使うことができる人に、与えてしまいます。
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
エフェソの信徒への手紙4:7
主は私たち一人一人に賜物を委ねています。
それを用いてほしいのです。
それぞれ違う賜物があります。
他の人と比べると、自分には賜物がないように感じるかもしれません。
しかし主は他の誰とも違う特有の賜物を与えています。比べられるものではありません。
自分には特別なものはないと感じるかもしれません。
むしろ自分にとって特別ではないこと、当たり前にできることこそ賜物です。あなたが当たり前に何気なくやっていることは、他の人にとって難しいものかもしれません。
そしてその賜物をよく使う人を主は喜びます。
成功したら喜ぶのではありありません。成功しても失敗しても、使うことを喜びます。
そして使う人にはもっと多くの賜物を与えるのです。
主は私たちを祝福し、賜物を与えておられます。
ナイルは誰のもの
次に今日の本文の3節後半から5節に『お前は言う。『ナイル川はわたしのもの/わたしが自分のために造ったものだ』と。4 わたしはお前の顎に鉤をかけ/うろこにナイル川の魚をつけさせ/ナイル川の真ん中から引き上げる/お前のうろこについた川のすべての魚と共に。5 わたしはお前を荒れ野に捨てる/ナイル川のすべての魚と共に。お前は地面に倒れたままで/引き取る者も、葬る者もない。わたしは野の獣、空の鳥に/お前を食物として与える。』 とあります。
賜物に気付いた人は高慢に気を付けなければなりません。
自分の力を誇る
豊かに繁栄したエジプト王国の中で、王であるファラオは強大な権力を持っていました。
彼はこのように言いました。
『ナイル川はわたしのもの/わたしが自分のために造ったものだ』
まるで自分の力でナイル川を造ったかのような言い方です。
エジプトはナイル川のおかげで繁栄しました。それなのにエジプトがナイル川を造ったかのように言っています。
私たちは自分の力を誇ることがあります。自分の能力、知識、財産を誇ります。
俺はこんなことができる。すごいだろ。お前はこんな簡単なこともできないのか。
私はこんなことを知っている。聞いて聞いて、すごいでしょ。は?知らないの?いいよ、私が教えてあげる。秘密だよ。
私はこんなおいしいものを食べた。こんなオシャレなところに行った。こんなパーティーに参加した。イェーイ、みんないいね押してよ!
私たちの心にはこのような欲があります。人からの称賛を得たいのです。
そこでつい、自分がすごい存在であるように見せかけてしまいます。
自分が栄光を受けたいのです。
造り主を忘れる
ナイル川は誰が造りましたか。
エジプト人ではありません。ファラオでもありません。創造主なる神様が造ったのです。
しかしファラオは自分が造ったと言っています。
創造主の椅子に、自分が座ろうとしています。
ファラオは自分が神であるかのように振る舞いました。
私たちが自分の力を誇るとき、私たちは自分を神にしています。
全ての栄光は主のものなのに、自分が栄光を受けるようにしてしまいます。
捨てられる
与えられた賜物を正しく用いず、自分が栄光を受けるようにしたなら、どうなるでしょうか。
神を捨てるなら、どうなるでしょうか。
栄光は奪われ、捨てられます。
ヨブ記によればレビヤタンはどのような剣も槍も効きません。誰もレビヤタンを釣り上げることはできません。
しかし巨大なワニは顎に鉤をかけられ、釣り上げられてしまいます。
誰がそうしますか。
主ご自身が顔を向け、立ち向かいます。そして荒野に捨てられます。
たとえ大きな力を持っている巨大なワニでも、荒野では生きられません。水がなくては生きていけません。
私たちが人間的にどんな力、知識、富を持っているとしても、主から離れては生きられません。
生ける命の源である主から離れては、誰も生きられないのです。
栄光を受けるべき方は私たちではありません。主だけです。
しかし栄光を受けるべきイエス・キリストは惨めな姿で十字架につけられました。嘲られ、裸にされ、茨の冠を被って十字架につけられました。
力がないからですか。
いいえ、イエス・キリストは全能の神です。十字架をへし折って降りることくらい楽勝です。
知らなかったのでしょうか。
いいえ、イエス・キリストは全知の神です。こうなることはわかっていました。
誰も味方がいなかったからですか。
いいえ、イエス・キリストは王の王、主の主です。天の十二軍団が従っています。
自分が力を発揮し、栄光を受ける道はいくらでもありました。
しかしイエス・キリストはその全てを諦め、十字架で捨てられた者のように死にました。
イエス・キリストは私たちの代わりに捨てられました。
自分の栄光を求める私たちの罪のために、イエス・キリストは全ての栄光を捨てました。
そして父なる神はイエス・キリストを墓の中から復活させ、天の右の座に着かせました。
今は全ての栄光が主にあります。
なぜイエス・キリストは自分の力を誇らなかったのでしょうか。
人から称賛されなくても、称賛してくれる方の声を聞いていたからです。それは父なる神様の声です。
洗礼のとき、天から「お前は私の愛する子、私はお前を喜ぶ」という声が聞こえました。働きが始まる前です。
父は子を承認します。それは子どもが何かをしたから、知っているから、持っているからではありません。子が子だからです。
神の子である私たちは父なる神からこのように言われる存在です。
「お前は私の愛する子、私はお前を喜ぶ。」
たとえ失敗しつまずき倒れることがあっても、小さな一歩を見て「よくやった!」と抱きかかえてもらえます。
だから私たちはもう自分の栄光を求める必要はありません。
与えられた賜物はただ主の栄光のためにささげればいいのです。
葦の杖
最後に今日の本文の6節7節に『6 エジプトのすべての住民は/わたしが主であることを知るようになる。お前は、イスラエルの家にとって/葦の杖にすぎない。7 彼らがお前の手をつかむと/お前は折れ、彼らの肩は砕けた。彼らが寄りかかると、お前は裂け/彼らの腰はすべてふらついた。』 とあります。
私たちは互いに支え合う存在です。
頼られる
古代から繁栄していたエジプトは近隣諸国にとって大切な安全保障になっていました。
ナイル川で潤されたエジプトには食べ物が豊かにありました。周りの国が飢饉のときもエジプトには食べ物がありました。アブラハムもエジプトに避難したことがあります。
ヤコブの時代には大飢饉が起こりました。7年間続いた飢饉のためにエジプトでも収穫がなくなってしまいました。
そのとき主はヨセフを先に送り、前の7年の豊作のときの食料を蓄えて置かせました。それで大飢饉の中でエジプトも周りの国々も生き延びることができました。
そのときヤコブたち70人の家族はエジプトに下ります。それから400年の間、主は彼らをエジプトで養い、200万人以上のイスラエルの民として育てます。
イエス・キリストが生まれたばかりのときにもしばらくエジプトに避難した時期がありました。
エジプトはこのように、その豊かさによって周りの小さな国々や弱い人々を助ける使命がありました。
頼る人を刺す
エジプトの力は農作物だけではありません。軍事力もありました。
ユダ王国も危機のときにエジプトを頼りました。
今ゼデキヤ王もバビロンから助けてもらおうとエジプトに使者を送っていました。
ところが主はエジプトのことを、「イスラエルの家にとって葦の杖にすぎない」と言っています。
葦の杖とはどのようなものでしょうか。
葦は水辺に生える真っすぐな植物です。杖にするのにぴったりな形をしています。
しかし葦は弱い植物です。簡単に折れてしまいます。
ですから葦の杖を頼ろうとすると肩や腰を痛めてしまいます。
エジプトもこのように、頼りにしてきたイスラエルの期待を裏切りました。
一時はファラオの軍隊がエジプトを出たという噂が流れ、バビロンの包囲が解かれます。
しかしエジプト軍はエルサレムに来ることなく帰ってしまいました。結局エルサレムは火で焼かれてしまいます。
エルサレム陥落後、生き残った人たちはエジプトに行こうと考えます。
エレミヤは行くなと言いました。しかし民は聞き入れることなく、エレミヤも仕方なく彼らについていきました。
彼らはエジプトで安心して暮らせたでしょうか。
いいえ、数年後にエジプトもバビロンに攻められることになります。
巨大なワニのウロコにはたくさんの魚がついていました。ワニの力を頼っていた魚たちです。
しかしワニが釣り上げられるとき、その魚たちも一緒に荒野に捨てられてしまいます。
エジプトは自分を誇りました。
その結果、エジプトを頼って来た人々まで滅ぼされてしまいます。
恵みの管理者
葦は1本だけでは確かに弱いです。
しかし何本か束ねれば硬い柱になり、家を建てることも可能です。
主は私たちに賜物を分け与えています。それは私たちが互いに仕え合い、支え合うためです。
そのとき私たちは愛によって結ばれ、一つのキリストの体、神の家族となって行きます。
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
エフェソの信徒への手紙4:16
賜物は自慢するためにあるのではなく、主の栄光のため、互いに高め合うためにあります。
私たちが自分の栄光を求めるなら、周りの人々を傷付けます。
栄光を受ける方は私たちではありません。
信頼の対象は人ではありません。偉大なのは主です。
ただ主に栄光をささげ、人々の目を主に向けさせるのです。
私たちは弱い葦の杖。互いに愛し合い、仕え合うとき、その価値が輝きます。
私たちは恵みの賜物を与えられています。
自分の栄光ではなく主の栄光を求め、互いに愛し合い仕え合う私たちになることを期待します。