主の祈り5
御心の天になるごとく地にも
ローマの信徒への手紙7:18
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
地上で完全には成し遂げられていない御心
主の祈りの3つ目の願いは、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。
神様の御心が天で行われるように、この地上でも行われるようにしてくださいという願いです。
このように祈るということは、御心は地上で行われていないということでしょうか。
神様の摂理は今も働いています。神様の御心によって、私たちは生かされています。一羽の雀さえ、天の父の御心でなければ地に落ちることはないのです。
しかし現実には、御心が完全に成し遂げられているわけではありません。
この世界には罪と悲惨が満ちています。疫病に苦しめられ、人と人の距離は遠くなり、愛は冷め、格差が広がり、生きていく環境が破壊されています。
この世界を見て、天のお父さんが「よしよし、上手くいっている」とほほ笑んでいると思いますか?
御心はまだ完全には成し遂げられていません。
誰が御心を行うのか
誰が神の御心を実現させるのでしょうか。
20 御使いたちよ、主をたたえよ/主の語られる声を聞き/御言葉を成し遂げるものよ/力ある勇士たちよ。21 主の万軍よ、主をたたえよ/御もとに仕え、御旨を果たすものよ。
詩編103:20-21
天使たちが御言葉を聞き、御心を成し遂げると言っています。
しかし御言葉を聞いて行うのは天使だけではありません。私たちもそうです。
イエス様はゲツセマネで「御心が行われますように」と祈り、十字架に向かいました。
キリストの体である私たちは、このお方に従い、御心を行っていくのです。
御心は天で天使たちによって成し遂げられます。地上では私たちが御心を行います。
神様は人を通して働きます。
先週は「御国を来らせたまえ」という願いを学びましたが、恵みの王国を前進させていくのは私たちです。
天と地をつなぐ鍵を、私たちは持っているのです。
善を行う力がない
しかしこれは簡単なことではありません。
今日の御言葉にあるように、私たちの内に善はありません。
御言葉を聞き、こうしよう!と決断することはあります。でも行う力がありません。人がなすべき善を知りながらそれを行わないのは、罪です。人間は弱いです。
だから祈りが必要です。
イエス様だって「御心が行われますように」と祈りました。1日の始まりに祈り、祈りで1日を終えました。
御心を知る力を与えてください、そしてそれを行う力を与えてくださいと祈る必要があります。
御心を知る力
まずは御心を知る力です。
御心は何か、と悩むことは多くありますよね。重大な選択を迫られたとき、AかBか、どっちが御心なのかと悩みます。
パウロがエルサレムに行こうとするとき、エルサレムに行ったら苦難にあうと聖霊に示されました。
エルサレムは危ないから行くなというのが神様の御心だと判断することもできます。
しかしパウロは福音のためなら死ぬことも覚悟していると言ってエルサレムに行ってしまいました。
これはSTOPのサインなのか、GOのサインなのか、わかりづらいです。
コロナウイルスが完全には収まっていない中で、集まるのが御心か、それとも自粛するのが御心か悩みます。
自分たちとは違う決断をした人たちを見て、あの人たちは不信仰だとか、愛がないとか批判したくなる心もわいてきてしまいます。
御心を考える上で大事なポイントが1つあります。
人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書6:8
神と共に歩むことを主は求めています。
AでもBでもいい。STOPでもGOでもいい。
もしも間違えたら、羊飼いである主の声を聴き、帰ってくればいい。
イエス様にしっかりつながっていることを求めていきましょう。
御心を行う力
次に御心を行う力です。
この世界に満ちている罪と悲惨の問題を、神様は放っておきません。愛と正義が成し遂げられていないのを見て、心を痛めているのではないでしょうか。
イエス様は100匹の中から迷い出た1匹の羊を探すたとえの中で、こう言いました。
そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
マタイによる福音書18:14
また、重い皮膚病の患者がイエス様のところに来て、病の癒しを求めました。
そのときこのように言いました。
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
マルコによる福音書1:41 新改訳第三版
このような救いのための働きが、私たちに委ねられています。
驚くべき愛の働きです。
普通に考えたら99匹を残して1匹を探すなんて合理的ではありません。道を外れたのは自己責任だと切り捨てられるかもしれません。
重い皮膚病の人は汚れた人として扱われました。イエス様はあえてこの人のさわります。
そうする必要はありませんでした。ただ命じれば癒されたはずです。
彼にさわることは、宗教的に汚れることになるし、感染のリスクもあると考えられていました。
しかしイエス様は、そんなものをぶち壊して、愛しに行ったのです。
神様の目はこのような人々に注がれています。
これを行う力が私たちに注がれています。
聖霊の満たしを求めましょう。
そして神様が目を留めるところに、私の目が向くように。
神様が愛するものを私も愛することができるように。
神様の手にある道具として用いていただけるように求めていきましょう。