御言葉がこの身に成る
ルカによる福音書 1:26-38
26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37 神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
受胎告知
今年、岡山県倉敷市にある大原美術館が所蔵する「受胎告知」という絵が60年ぶりに修復されたというニュースがありました。
この絵はスペインで活動したギリシア出身の画家エル・グレコの作品です。
洋画家の児島虎次郎がヨーロッパ留学中にこの絵に出会い、感銘を受けます。
法外な値段でしたが、友人の実業家大原孫三郎の支援で購入します。
大原孫三郎はクリスチャンで、「私に資産が与えられたのは自分のためではなく世界のためである。私はその世界に与えられた金を通して神の御心によって働くのである。」と言っていました。それで会社の利益を戦災孤児のために寄付したり、病院や学校、幼稚園を設立するなどしました。また美術館を建て、児島虎次郎が収集した海外の美術品を収蔵します。
いいですね、お金は神の御心を行うために与えられた。私もよく用いていきたいです。
使うほどの資産がないのが残念ですが。
絵の話に戻りますが、「受胎告知」はキリスト教絵画としてよく扱われるテーマです。
天使ガブリエルがマリアに救い主イエスの懐胎を告げる場面です。中央に描かれた鳩は聖霊を表しています。
私も岡山に行ったときに倉敷に寄る機会が与えられて、実物を見てきました。縦に2m近い作品で、その大きさにも圧倒されます。
皆さんも機会があればぜひ修復後の実物を見ていただきたいです。
どうしてそのようなことがありえましょうか
今日はその受胎告知の元になった聖書の箇所からお話しします。
6ヶ月目というのは、天使ガブリエルが祭司ザカリアに現れてから6ヶ月目です。
ガブリエルはザカリアの妻エリサベトが男の子を産むと言います。これまでエリサベトには赤ちゃんが与えられず、既に年をとっていました。しかしガブリエルのお告げの通り、彼女は妊娠します。
救い主誕生の預言
ガブリエルはガリラヤのナザレという田舎の村にするマリアのもとに遣わされました。
マリアはダビデの家系に属するヨセフという人と婚約していました。
当時の習慣では、女の子は12歳から16歳で結婚の約束をします。今の日本では中高生の世代ですね。
そのマリアに天使が現れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と言うのです。
いや、何の話?というかあなた誰?戸惑いますよね。マリアは考え込みます。
すると天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と言います。
自分のお腹に赤ちゃんが来る。それだけでも驚きですが、天使が言ったことの後半は、生まれる子が旧約聖書で約束された救い主メシアであるということを意味します。イエスという名はユダヤで一般的な男性名でしたが、その意味は「主は救う」です。
神の約束は自分にふさわしくないと思う
マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と天使に尋ねます。
マリアはヨセフと婚約していましたが、まだ結婚していません。結婚前に男女の関係を持つことは、死に値する重罪でした。だからマリアが妊娠することはあり得ません。
それに自分がメシアを産む?そのような神様の働きをする資格があるとは思えません。
マリアは祭司の家系だったようです。祭司は神様と人に仕える仕事ですが、30歳以上の男性に限られていました。
マリアはまだ10代前半くらいです。若すぎます。
マリアの家もヨセフの家も貧しかったようです。神様の祝福を受けていないように思えます。
神学的な教養もありません。
それに男性ではありません。
祭司のように神様のために働く条件を全く満たしていないように思えます。
私たちも自分には何もできないと無力感を感じることはありませんか。
自分のような未熟者に何ができるのか。若くはないかもしれないけれど、もう新しいこと未経験のことに挑戦する勇気はない。
何かを始めようと思っても、そのための初期費用が出せない。
学歴もない。
それに性別など生まれ持ったものが壁となる。
障害や心身の病気のために夢を諦めさせられることもあります。
そうして、自分には大原孫三郎のように神様のために働くことはできないのだと思わされます。
わたしは主のはしため
聖霊によって身ごもる
そんなマリアにガブリエルは答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
生まれる子は男女の関係によって身ごもるのではありません。
普通の生まれ方で誕生した子は、アダムの罪の中に生まれてきます。しかし罪ある人は人の罪を解決できません。
イエスは聖霊によって身ごもります。人から生まれるのでイエスは紛れもなく人です。
同時にイエスは聖霊によって宿った神の子。罪なき神の独り子が人となって私たちの間に宿ったのです。
神にできないことは何一つない
マリアはあのエリサベトの親戚でした。エリサベトの妊娠についても聞いていたでしょう。
神にできないことは何一つありません。
神様はどのような人も用いることができます。
エレミヤは若者でしたが、預言者として活躍しました。年齢は関係ありません。
エリヤはカラスにパンを運んでもらうという極限の貧困生活を送りましたが、数多くの奇跡を起こしました。財産の有無は関係ありません。
新約聖書ではペトロとヨハネの説教を聞いた祭司たちが、彼らが無学で普通の人だと知って驚いています。学歴も関係ありません。
聖書にはルツやエステルなど女性の活躍が描かれていることを忘れてはいけません。性別も関係ありません。
イエス・キリストは生まれつきの盲人について、この人の目が見えないのは神の業がこの人に現れるためであると言われました。肉体の弱さも関係ない。むしろ私たちの弱さを通して神の力が現れます。
神の手に委ねられるなら神が用いる
マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えます。
私は神様のものということです。
熟練の演奏家は、普通のリコーダーでも素晴らしい賛美を奏でることができます。
私たちが神様の手に委ねられるとき、神様はこのような私たちを通しても素晴らしいことを成し遂げられます。
苦難の中でも主が共にいる
それは同時に苦難を引き受けることも意味します。
10代の未婚の少女が妊娠する。世間で受け入れられることではないし、ヨセフを失望させるかもしれない。様々な苦難が想像されます。
実際は旅先で出産、しかも赤ちゃんを飼葉桶に寝かせないといけない、幼い赤ちゃんを連れてエジプトに逃げるなどの想像を超えた苦難が襲います。
そして救い主として働く息子が十字架で死ぬのを目撃することになるとは考えもしなかったでしょう。
それでもマリアは逃げません。
マリアは不思議な出来事一つ一つについて考え、思い巡らします。
そうしてイエスが神の子であること、神が共におられるということを心に刻んで行ったのではないかと思います。
神様は私たち一人一人の人生を通しても働こうとしています。このことを皆さんも考え、思い巡らしてみてください。
神様は皆さんを通して何をしようとしておられるでしょうか。
神にできないことは何一つありません。
神様のために働くということは祝福ではありますが、苦難も予想されます。それでも神が共にいます。
神様に期待してください。
大きなことはできないかもしれません。たとえ私たちの目には小さなささげものに思えても、神の手に委ねるならば、豊かな実を結びます。
皆さんを通して、クリスマスの祝福が皆さんの周りに満ちあふれていきます。



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