恥を取り去ってくださる神
ルカによる福音書1:5-7, 24-25
5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
24 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。25 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
不妊の苦しみ
祭司ザカリアと妻エリサベトには子どもがいませんでした。年を取り、既に子どもが与えられる望みはなくなっていました。
現代でも、結婚して子どもがいない女性は苦労させられることがあります。
有名な女性の方が結婚すると、妊娠しているかどうかが必ずと言っていいほど報道されます。妊娠をきっかけに結婚するというケースが増えたということもあると思いますが、結婚と妊娠は別の話です。まるで結婚と妊娠は一連の流れであるかのように扱われています。
結婚したばかりの夫婦に出産の予定を聞いたりすることもあります。それではまるで子どもを産むために結婚したかのようです。
妊娠して赤ちゃんが生まれても、2人目は?3人目は?若いからまだまだいけるよ!と言われてしまいます。
これが現代の日本の状況です。
2000年以上前のイスラエルでも同じような状況がありました。
旧約聖書にもサラ、ラケル、ハンナなど、赤ちゃん、特に男の子が与えられなくて苦しんだ女性たちが登場します。
エリサベトも子どもがいないということで姑や周りの人から冷たい目で見られていたようです。
そんなエリサベトに男の子が与えられるという約束が与えられました。
不妊が罪であるかのような圧力
不妊であることは罪でしょうか。
天地創造のとき、神様は産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよと言いました。
子を産んで増えることが神様の命令だとしたら、子どもを産まないこと、育てないことは神様に背くことになります。
また神様からの呪いとして子どもを産めなくなるということもありました。
ですから子どもを産めないということが罪や呪いの結果だと受け取られることもありました。
しかし不妊の夫婦に対して「子を産まないと罪だ」とか「子どもを産みなさい」という圧力をかけることは正しいことでしょうか。
生まれつき目の見えない人についてイエス様は、「この人が生まれつき目が見えないのは神の栄光が現れるためだ」と言いました。
目が見えないというのは体の機能が正常に働いていない状態です。イエス様はそれを罪だとか呪いだとか言うことはありませんでした。
むしろその弱さを神の栄光が現れる機会として用いました。
不妊というのも体の機能が正常に働いていない状態です。神様が造られた本来の状態ではないのでしょう。しかしその弱さもまた神の栄光が現れる機会となるのではないでしょうか。
正しく生きられない人間の悲惨
こうあるべきだという理想のクリスチャン像を作り出すことによって、誰かを傷つけてしまうことがあります。
クリスチャンは禁酒禁煙。クリスチャンはクリスチャンと結婚すべき。結婚したら子どもを産んで、信仰継承すべき。
聖書を読んで理想の生き方を思い描くのは勝手です。
しかしそれを他人の生き方に押し付けてしまうと、その型から外れる人が必ず出てきます。
酒やタバコがやめられない。クリスチャンではない人と結婚した。結婚したけれど子どもが与えられない。子どもが信仰から離れていった。
もしかするとそれは神様が創造した人間の在り方から外れている可能性も無くは無いかもしれません。
しかしその型からあふれ出してしまうのが人間の現実です。
正しい生き方という型を作ることで、自分も苦しいし、他人を苦しめます。
そして人間は、善意でその型を作るのです。悪意はないけど人を傷つけてしまいます。
誰も傷つけないように距離を取ろうとしても、人は独りで生きられません。
ヤマアラシのように傷つけあわずには生きられないのが人間の現実です。
人間とはなんと悲惨な存在なのでしょう。
人の痛みを背負った神
この罪と悲惨の世界に、完全に正しい方が来てくださいました。神ご自身が、人間となって来られたのです。
イエス・キリストは完全な神であり、完全な人間でした。
この正しいお方は私たちを型にはめようとはなさいませんでした。むしろその痛みを背負われました。
4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
イザヤ書53:4-6
イエス様は正しく生きられない私たちの悲惨を知っており、そこから救ってくださる救い主です。
救いはどこにあるのか
子どもがいないことでエリサベトは恥を受けていました。エリサベトは子を産むことに希望を置いていたことでしょう。子どもを産むことができればこの恥は取り去られる、と考えていたと思います。
エリサベトは実際に子どもが与えられました。旧約聖書の中で不妊に悩んでいた女性たちにも子どもが与えられています。
しかし問題の真の解決はそこではありません。
サラもハンナも、念願の息子を手放さなければならない経験をしました。ラケルは2人目の子が難産で、それがきっかけで息を引き取りました。
子どもが私たちを救ってくれるのではないのです。不妊で悩む人の中には、子どもが与えられないままの人ももちろんいます。
静まって神と向き合う
ザカリアとエリサベトの間に生まれる子について、天使ガブリエルはこう預言しました。
16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
ルカによる福音書1:16-17
父の心を子に、子の心を父に向けさせる。これは旧約聖書の一番最後の言葉です。
預言者マラキは、エリヤが来てこの働きをすると言いました。
バアルを崇拝していたイスラエルの民に「主こそ神です」と言わせたエリヤのように、神に立ち返らせる。
これこそまさにザカリアとエリサベトの子、洗礼者ヨハネがした働きでした。
洗礼者ヨハネはどのようにして人々を神に立ち返らせたのでしょうか。
それは人間の罪を指摘することによってでした。
正しく生きられない人間の悲惨を知るとき、救いは人間の間にはなく、ただ神にしかないのだと知ります。
子どもが与えられたエリサベトは「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」と告白しました。
この告白は妊娠してすぐに出てきたものではありません。エリサベトは妊娠してから5か月間、身を隠していました。その後にこの告白が出てきます。
エリサベトは5か月の間、何をしていたのでしょう。
静まって神と向き合う時間だったのではないでしょうか。
私たちの問題の本当の解決は神にしかありません。静まって祈りと御言葉の中で神と向き合う時間が必要です。
私たちは生きている限り、互いに傷つけあいます。その傷が深く残ることもあります。
どうすれば癒されるのでしょうか。相手が謝ればいいですか。復讐すればいいですか。
どんなに謝られても気が済まないことはあるし、相手に同じ苦しみ以上を味わわせても納まらないこともあります。
その問題の解決は、人間の間にはないのです。本当の解決は神にしかありません。
この人間の悲惨をその身に背負い、十字架で死なれ復活されたキリストが、私たちの平和です。
5か月も身を隠すのは無理でしょうが、静まって祈りと御言葉の中で神と向き合う時間を持ってください。
この悲惨な人間の現実の中で、問題が直接解決されてもされなくても、主が私たちの恥を取り去ってくださいます。