イースター礼拝
恵みの夜明け
ヨハネによる福音書 21:1-14
26 生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。27 腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。28 周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。
恵みの夜明けがやってくる
イースターおめでとうございます。
イエス様は金曜日に十字架で死なれ、墓に葬られます。しかし3日目、日曜日の朝に復活しました。
金曜日の夜、弟子たちは悲しみや恐れに捕らわれていました。それで泊まっていた部屋の戸に鍵をかけ、引きこもりました。
ところが日曜日、その部屋の真ん中にイエス様が現れ、「あなたがたに平安があるように」と言います。
悲しみや落胆に暮れる夜があっても、恵みの夜明けがやってきます。
イエス様が恵みを準備している
今日の本文に「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」とあります。
弟子たちはエルサレムで復活のイエス様に既に出会っていました。
最初に密室でイエス様が現れたときトマスはいませんでした。その8日後にイエス様は全く同じ状況でトマスのためにまた現れてくださいました。
それから弟子たちは故郷のガリラヤに戻りました。
ガリラヤに戻ってもイエス様が見つからない
かつてイエス様は、復活した後、弟子たちより先にガリラヤに行くと予告していました。
だから弟子たちはガリラヤに行けばイエス様がいて、また何かが始まるだろうと期待したことでしょう。
ところがガリラヤに行ってもイエス様を見つけることはできませんでした。
ガリラヤに来たはいいがどうすればいい?何をしたらいい?弟子たちは途方に暮れます。
再び漁に出ても何もとれない
ペトロはじっとしていられず、漁に出ることにしました。
かつて漁師だったペトロは、昔の生活に戻ります。
トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、その他2名もついて行きます。この7人の弟子たちのうち3人は元漁師です。熟練の知識と技術がありますから、3年間のブランクがあっても魚のとり方はマスターしています。
しかし夜通し漁をしても何もとれませんでした。
ガッカリしますね。ああダメだ。オレたちには何もできない。イエス様に従えず逃げ出してしまった。漁師に戻ることもできないのか。再び途方に暮れてしまいます。
舟の右側に網を打て
そんな時、岸の方から声が聞こえます。「子たちよ、何か食べる物があるか」
残念ながら何もありません。
すると「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と声が聞こえます。
弟子たちはこのとき、声の主がイエス様だとはわかっていません。姿も声も変わっていたようです。
何者かわからない人に突然アドバイスされたらどうですか。
弟子たちは夜通し漁をして1匹もとれなかったのです。舟の右側に網を打ったところでどうなりますか。
こちらには熟練の元漁師が3人もいる。そういうお前は何者?
とは言わず、弟子たちはその声に従って舟の右側に網を打ちます。
すると魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができないほどの大漁になりました。
イエス様は先に恵みを準備していた
ヨハネはここで声の主がイエス様だと気づきます。
イエス様は予告していた通りガリラヤに来ていました。
弟子たちが夜通し漁をして1匹もとれなかったことを知っていました。そして舟の右側に魚を用意しておきました。
イエスが見えなくなり、どうしていいかわからず途方に暮れてしまうことがあります。
そうなると今まで慣れ親しんだ生活に戻ることで安心します。
しかしイエス様はいなくなったのではありません。すぐそばにいます。そして恵みを準備しています。
イエス様の声に従って網を打つときにその恵みを受け取れます。
過去を美化して後戻りしたくなる
私たちも信仰生活の中で、どうしたらいいのかわからなくなることがあります。
何か変化が必要かもしれないけれど、新しいことにチャレンジすることは恐ろしいです。そうなると昔の慣れ親しんだ生活に安心感を覚えます。
エジプトから出てきたイスラエルの民は奴隷の生活から自由な生活になりました。
それまでは自分で考えることなく主人の命令通りにすればよかった。しかし自由な身分になると自分で考えなければなりません。食べものはどうしたらいい?誰かが配給してくれるんじゃないのか?
いや、これは大変だ。エジプトの方がよかったじゃないか。
そのように昔の生き方に後戻りしようとします。
しかしエジプトでは奴隷だったのであり、自由はありませんでした。
私たちもどうしていいのかわからなくなると、過去を美化して後戻りしたくなります。
過去の幻想ではなくイエス様を見てください。
イエス様は私たちより先に進んでいます。そして恵みを準備しています。
イエス様は夜のうちに舟の右側に魚をたくさん準備していました。
イエスが招く声に従うとき、その恵みを受け取ることができます。
新しい一歩を踏み出し、イエス様が私たちの目の前に準備している恵みを受け取ってください。
恵みの機会を逃すな
恵みはいつまでもあるものではありません。
もし弟子たちが「お前誰だよ。オレたち夜通し漁をしたんだ。これ以上やってもムダだ。」と拒んでいたら魚をとることはできなかったでしょう。
私は、恵みには消費期限があると思っています。神様が用意している恵みを受け取らなければ、過ぎ去ってしまい、他の人の手に渡ります。
恵みの機会があります。
2月に妻の両親が浜松に来て、舘山寺のホテルで一緒に泊まりました。
全国旅行支援のキャンペーンがあり、静岡県内で使える地域クーポンをもらいました。1人2000円、家族4人で8000円です。大きいですね。
そのうち3000円くらいは昼食代で使いました。まだ5000円くらい残っています。
私たちは静岡県に住んでいるからいつでも使えます。いつか買い物の時に使おうとのん気に考えていました。
それからしばらく経ってスーパーに買い物に行ったときに使おうとしました。
ところが残高が0円になっています。5000円はどこに行った?
調べてみたら、地域クーポンには有効期限がありました。
3月末までという期限はチェックしてあったのですが、泊ってから8日間という期限を見落としていました。
それで5000円はパーになりました。
この5000円はもともと自分のお金ではないので、なくなっても無傷です。それでもせっかく使えた5000円を逃してしまったのは残念です。
恵みには期限があります。
イエス様は私たちの前に恵みを準備しています。
恵みの機会を逃してはいけません。
一歩を踏み出し、恵みを受け取ってください。
迷いの中でイエス様を再発見する
今日の本文を見ていくと、福音書に同じような場面が出てくることに気づくと思います。
イエス様と歩んできた日々を思い出す
ルカによる福音書5章には最初にペトロたちを弟子として招く場面があります。
その時もペトロたちは夜通し漁をしましたが1匹もとれませんでした。
イエス様の「沖にこぎ出して漁をしなさい」という言葉に従うと、魚がいっぱいとれました。
今日の本文の前半とよく似ています。
後半で弟子たちは陸に上がり、イエス様が準備していた朝ご飯を食べます。
メニューはパンと魚。イエス様はそのパンを取って、弟子たちに与えました。魚も同じようにします。
ここを見るとイエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人以上を満腹にさせた場面を思い出します。
あるいは最後の晩餐の場面を思い出す人もいるかもしれません。
ヨハネが「主だ」と気づいたのは魚が多くて網を引き上げることができなかった時でした。
3年前に同じガリラヤ湖で同じような出来事があった。あの時と同じだ。この手に今も残る魚の重み。間違いない、あの声の主は「主だ」イエス様だ。
ヨハネもイエス様を見失っていましたが、イエス様と歩んできた道のりやイエス様がこれまでしてくださったことを思い出しました。
そうすると、今のこの出来事の中にもイエス様がいてくださるのだとわかります。
経験や体験を通してイエス様を再発見します。
迷ったからこそ出会うイエス様がいる
これはペトロがもう一度漁に出たから気づけたことです。
もしペトロが、自分はもう漁師を辞めたんだと舟に乗ることを拒んだなら、この出来事は起こりませんでした。
後戻りしなければ出会えなかったイエス様の姿です。
私たちは後戻りすることや他の道にそれることを失敗であるかのように考えます。
私はこの仕事を辞めたんだ。この道で行くと決めたんだ。だから後戻りしてはいけないんだと。
確かに私たちはエジプトの奴隷状態に後戻りしてはいけません。昔の罪の生き方に戻ってはいけません。
しかし昔の生き方が罪でないなら、後戻りしても大丈夫です。脇道にそれても大丈夫です。
後戻りしたからこそ、迷ったからこそ出会うイエス様がいます。
迷いが消えて確信を持って一歩を踏み出す
最初にペトロが弟子として呼ばれたとき、イエス様はシモン・ペトロに約束をしていました。
シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
ルカによる福音書5:10
今日の本文でヨハネが「主だ」と言ったとき、ペトロも声の主がイエス様だと理解したでしょう。そして3年前の出来事を思い起こしたことでしょう。
「そうだ。私はイエス様に、人間をとる漁師にしていただいたんだ。魚をとっている場合じゃない。」
ペトロは一刻も早くイエス様のところに戻りたくて、湖に飛び込んで泳いで岸に戻りました。
後戻りしたり迷ったりすることを恐れなくていいです。
迷いの中でイエス様に出会ったなら、確信をもって新しい一歩を踏み出せるようになります。
夜明け前からイエス様は私たちのために働く
弟子たちが陸に上がると炭火が起こしてあり、焼き魚とトーストが準備されていました。
おいしそうな朝ごはんが既に準備してあります。
さらにイエス様は、弟子たちがとってきた魚も何匹か持って来るように言いました。
手間暇かけた朝ごはん
この朝ごはんはいつ誰が準備したものでしょうか。
弟子たちが来る前にイエス様が準備しておいたのです。
イエス様は無から有を創造した神の言葉そのものですから、「ファイヤー!」と命令すれば炭火を燃え上がらせることもできたでしょう。忙しい時はインスタントな朝ごはんもいいです。
しかしこれは恵みの夜明けに備えられた大切な朝食。おそらくイエス様はじっくり時間をかけて準備したでしょう。
炭火もイエス様自身が起こしたと思います。
今では着火剤やバーナーで簡単に火がつけられます。
イエス様の時代はどうやっていたのか私にはわかりませんが、手間がかかったはずです。30分か1時間か、時間もかかります。
魚もウロコを取ったり内臓を取ったり下処理があったかもしれません。
インスタントではない、イエス様が手間暇かけた朝食です。
暗闇の中でもイエス様は働いている
準備はいつからしていたのでしょう。
イエス様が最初に弟子たちに声をかけたのは夜明けごろでした。そこから準備しては間に合わないので、声をかけたときには既にほとんど準備ができていたでしょう。
ということは、まだ夜が明ける前、暗い内から準備を始めていたということになります。
まだ暗い内から、イエス様は私たちのために働いています。
イエス様は十字架で死なれ、墓に葬られた。もうお終い。神様はもう私たちのために何もしてくれない。
そのような暗い状況の中でも、イエス様は働いています。
墓のように最も低く暗く冷たいところであっても、イエス様は共にいて恵みを準備しています。
私たちのためにも温かく心のこもった恵みの朝ごはんを準備してくださっています。
そして「さあ、来て、朝ごはんにしよう」と招きます。
また「あなたがとってきた魚、あなたの働きの実も一緒に味わおう」と言ってくださいます。
共にいるイエス様を見出す
イエス様は相変わらず姿も声も別人のようでしたが、弟子たちは誰も「あなたは誰ですか」と聞きませんでした。
イエス様を見出したのです。
私たちは暗い中を通らされることがあります。どうしたらいいのかわからず途方に暮れます。
その暗闇の中でもイエス様は働いておられ、私たちの目の前に恵みを準備してくださっています。
自分の力で魚を得ることができないとしても、イエス様が与えてくださいます。そして一緒に喜んでくださいます。
私たちが新しい一歩を踏み出すとき、イエス様が先に準備している恵みを受け取ります。
4月、新年度が始まりました。新しいチャレンジを始めた人は、ぜひその歩みを続けてください。
もし恐れに捕らわれてチャレンジができないなら、たまには後戻りしても大丈夫です。そこでイエス様に出会うこともあります。そうすると安心してイエス様の招きに従い、新しい一歩を踏み出せます。
恵みの機会を逃すことなく、イエス様が招いている恵みの夜明けを迎えてください。