悲劇の中で備えられた救い

元旦礼拝

悲劇の中で備えられた救い

出エジプト記1:22-2:10

1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」2:1 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

明けましておめでとうございます

 新年明けましておめでとうございます。
 2020年を振り返ってみると大変なことは確かにたくさんありました。しかしその大変さの中にも感謝なことがありました。
 この世界には苦難があります。しかし神様が願っているのは私たちが苦しむことではありません。神様は私たちを祝福したいと願っています。
 新しい年の初めに神様の言葉から励ましを受け取りたいです。

人として扱われないヘブライ人

 今日の本文はモーセの誕生の個所です。
 創世記の最後にヤコブとその家族がエジプトに移住しました。それから長い年月が経ちました。ヘブライ人と呼ばれるようになった彼らはやがて奴隷の身分にさせられました。
 ヘブライ人の人数が増えてきたので、エジプトの王ファラオは脅威を抱きました。それでヘブライ人がこれ以上増えないように、男の子が生まれたらナイル川に捨てるように命じました。
 なんとひどい命令でしょうか。人間として扱われていません。まるで害虫のような扱いです。
 王にとって害虫の子どもでも、親にとってはかけがえのない息子です。
 レビ族のアムラムとヨケベト夫妻、もしくはその子孫の家庭に、赤ちゃんが与えられました。長男アロンくん、長女ミリアムちゃんは徐々に大きくなってくるお母さんのおなかを見ながら、赤ちゃんの誕生を待ち望んでいたと思います。
 本来なら新しい家族が与えられた喜びがあふれてくるべきですが、赤ちゃんが生まれたときにあふれたのはため息でした。男の子だったのです。
 ファラオの命令は絶対です。ナイル川に捨てなければなりません。
 それでも両親は、この男の子がかわいいのを見て、三か月の間隠しておきました。自分の子どもを捨てるなんて、できるはずがありません。
 しかし息子がすくすく育ち、泣き声も大きくなってきます。これ以上隠しておくわけにはいきません。
 両親はエジプト人に殺されるよりは神の手に委ねようと、パピルスの籠に入れて葦の茂みに隠すことにしました。

 悲劇です。人が人として扱われない社会。
 現在は男の子を殺せなど言われませんが、人が人として扱われているだろうかと疑問がわくことがあります。
 生産性ということが人間の価値となり、道具のように消費されていきます。
 新型コロナウイルスに関するニュースでは新規感染者数、重症者数、病床使用率などの数字ばかりが注目されます。
 労働力にならない人はいなくていい、欧米に比べて感染者は少ないから対策は上手くいっている。何人死んでも政策は成功だ。そのような印象を受けます。
 しかし、いなくていい命などは無く、たとえ他の国より対策が上手くいっているとしても、現に病に苦しみ、命を落とす人がいるという事実は無視してはいけません。

あなたの命は全世界より尊い

 旧約聖書を読んでいると、神様は人間の命など何とも思っていないのではないかと思える場面があります。
 ノアの洪水の場面では、ノアとその家族以外のすべての人を滅ぼしてしまいました。ソドムとゴモラに火の雨を降らせ、反逆した者たちを大地の裂け目に落とし、カナンの先住民を滅ぼし尽くせと命じたのは神様です。
 しかし聖書全体を読んでいくと、神様が人間をどのように思っているのか、別の視点が見えてきます。それは神様が私たち一人一人を愛しておられ、誰の死も喜ばず、生きることを願っているということです。
 イエス様はこのように言いました。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

マタイによる福音書16:26

 たとえ全世界を手に入れても、失われた命を買い戻すことはできない。一人の人間の命は、全世界のすべてを合わせたよりも尊いのです。
 その命を買い戻すために、神は独り子を与えました。
 かけがえのない愛する独り子を十字架にかけるほど、神は私たち一人一人を愛しています。
 この悲劇の世界の中でも、神様の愛を受け取っていきたいです。

悲劇は悲劇で終わらない

 葦の茂みに隠された男の子のもとに、ファラオの王女がたまたま水浴びをしようと近づいてきました。それで泣いている男の子を助け出しました。
 王女はこの子がヘブライ人の男の子だと気づいていました。ファラオが殺すように命じていた、ヘブライ人の男の子です。
 しかし王女はふびんに思い、その子を自分の子として育てることにしました。
 その様子を、男の子の姉であるミリアムちゃんが見ていました。
 そして王女に、「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」と提案します。
 こうして乳離れするまで、母親は自分の息子を育てることができました。
 男の子は乳離れすると王女のもとに連れて行かれ、王女の養子になりました。王女は男の子に、モーセという名前を付けます。
 モーセはこうして王族として当時の最先端の教養を身につけました。そしてヘブライ人をエジプトから救い出すリーダーとして成長していくのです。

 なんというドラマでしょうか。悲劇は悲劇で終わりません。悲劇の中でも、救いは準備されています。偶然のように見える一つ一つの出来事が、救いにつながっていきます。
 イエス様の十字架は悲劇でした。しかしイエス様の十字架の死と復活によって、私たちは救われ、新しい命が与えられています。
 私たちは信仰をもってそれを受け入れていますが、その信仰が与えられるまでにも様々なドラマがあったはずです。
 中には悲しく辛い経験を通して、神様をもっと深く知ったという方もいるでしょう。
 モーセは自分がヘブライ人であることに悩んだことでしょう。羊飼いをしていたときにはエジプトの最先端の教養を学んだ過去を呪ったかもしれません。
 しかしその教養のためにモーセは数百万の民を率い、民に律法を伝え、モーセ五書を記録することができました。
 辛く苦しい経験も、呪いたくなるような過去も、悲劇は悲劇で終わりません。
 エレミヤはこう告白しています。

19 苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを 20 決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても 21 再び心を励まし、なお待ち望む。22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。

哀歌3:19-22

 そうは言っても、今はまだ消化しきれないでしょう。なぜ私たちは今、こんなに苦しまなければならないのか。悲しい思いをしなければならないのか。その答えはすぐにはわかりません。
 しかしやがてわかる時が来ます。2021年を過ごす中で、2020年に経験したことはこの時のためだった。あの時に自分や社会を見つめ直したからこそ、主に望みを置き、今がある。

 2021年、どのような年になろうとも、神様に期待し、神様の愛を受け取って歩んでいきましょう。

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