歴代誌講解70
愛ある方の声を聞く
歴代誌下 32:9-23
9 その後、全軍を率いてラキシュを攻めていたアッシリアの王センナケリブは、エルサレムに家臣たちを遣わし、エルサレムにいるユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々にこう言わせた。10 「アッシリアの王センナケリブはこう言われる。お前たちは何を頼りにして、包囲されたエルサレムにとどまっているのか。11 ヒゼキヤは、『我々の神、主がアッシリアの王の手から救ってくださる』と言って、お前たちを唆し、飢えと渇きで死なせようとしているのではないか。12 ヒゼキヤはユダとエルサレムに向かい、『ただ一つの祭壇の前で礼拝し、その上で犠牲を燃やして煙にせよ』と言って、彼の主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのではなかったか。13 お前たちは、わたしとわたしの先祖が全世界の民に行ったことを知らないのか。諸国の神々がわたしの手からその国を救い出すことができたか。14 わたしの先祖によって滅ぼされたこれら諸国の神々のうち、どの神がわたしの手からその民を救い出すことができたか。お前たちの神は、わたしの手からお前たちを救うことができるというのか。15 そのようにしてヒゼキヤに欺かれ、唆されてはならない。彼を信じてはならない。どの民、どの国のどの神も、わたしの手から、またわたしの先祖の手からその民を救うことができなかった。お前たちの神も、このわたしの手からお前たちを救い出すことはできない。」16 センナケリブの家臣たちは、神なる主とその僕ヒゼキヤに向かってなお語り続けた。17 またセンナケリブ自らイスラエルの神、主を侮る手紙を書き、主に逆らって言った。「わたしの手から自分の民を救うことのできなかった諸国の神々と同じように、ヒゼキヤの神も、わたしの手からその民を救い出すことはできない。」18 彼らは城壁の上にいたエルサレムの民に、ユダの言葉を使って大声で呼びかけ、恐れと戸惑いを起こさせ、町を占領しようとした。19 彼らは、エルサレムの神を、人の手の業にすぎない諸国の神々と同じように考えて語った。20 ヒゼキヤ王と預言者、アモツの子イザヤはこの事のために祈り、天に助けを求めて叫んだ。21 主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいる勇士、指揮官、将軍を全滅させられた。王は面目を失って帰国し、その神の神殿に来たところ、自分の血を引く王子らによって剣にかけられ倒された。22 こうして主は、ヒゼキヤとエルサレムの住民を、アッシリアの王センナケリブおよびあらゆる敵の手から救い、周囲の者たちから彼らを守って安らぎを与えられた。23 多くの人々が主にささげる供え物と、ユダの王ヒゼキヤにささげる貴重な品々を携えてエルサレムに来た。それ以来、王はあらゆる国の民から仰ぎ見られるようになった。
人の言葉ではなく神の言葉の上に立つ
1517年10月31日に始まった宗教改革。
当時のローマ・カトリックとルター派の対立は深刻さを増していきます。ついに教皇レオ10世はルターを破門。神聖ローマ帝国内を二分する対立に皇帝カール5世は危機感を抱きます。そしてヴォルムス帝国議会にルターを呼び出しました。
皇帝を始めとする権力者たちがルターに、自分の主張を撤回するように迫りました。
それでもルターは、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べました。
我ここに立つ。ルターが立つ場所、それは聖書の御言葉の上です。
ルターは人の言葉ではなく、聖書、神の言葉に聞き従うことを選びました。
滅ぼそうとする者の声に揺るがされる
今日の本文は南ユダ王国13代目ヒゼキヤ王の話その5、アッシリアの包囲です。
アッシリア王センナケリブが18万5千の兵を率いてエルサレムに向かっています。
それでもヒゼキヤは民を励まし、主を見上げさせました。
神への信仰を揺るがす言葉
城壁を建て直したし、水道も整備した。信仰の目で神を見上げた。視覚的に揺るがされる心配はありません。
しかしアッシリアはその信仰を揺るがそうとしてきます。言葉による攻撃です。
センナケリブはラブ・シャケというヘブライ語が話せる部下をエルサレムに送ります。
ラブ・シャケはエルサレムを包囲した上でエルサレムの住民に呼びかけました。それはヒゼキヤに騙されるなという内容です。
ヒゼキヤは聖なる高台を破壊した。礼拝の場を壊したではないか。そのようなことをすれば神の怒りを招く。だからヒゼキヤに従うと神の裁きが下るぞ。
18万5千の兵に囲まれて逃げ場はない。エルサレムに留まれば飢え渇く。食べるものも飲むものもないから、自分の糞を食べ尿を飲むようになるぞ。
もし降伏するなら豊かな生活を保障しよう。
今までアッシリアは様々な国を滅ぼしてきた。どの国の神がアッシリアの手から救ってくれただろう。どの神もアッシリア王センナケリブの手から自分の民を救えなかったではないか。
見てみろ、同胞北イスラエルも滅んだ。主もその民を救えないのだ。
センナケリブ自身も手紙を送り、それをエルサレムの住民に聞こえるように読ませました。
権威ある王の言葉ですから、説得力があります。
センナケリブやラブ・シャケがこのようなことを言うのは、エルサレムの住民に恐れと戸惑いを起こさせ、町を占領するためです。
ヒゼキヤの言うことはウソなのではないか。主なる神様は助けてくれないのではないか。アッシリアの王の言う通りにした方が平安に生きられるのではないか。そのように信仰が揺るがされます。
以前、信仰が人生の土台だと言いました。信仰が揺らぐと、人生そのものが倒れます。
アッシリアは主なる神様への信仰を揺るがし、エルサレムを倒そうとしています。
言葉で揺るがされる
私たちも揺るがされることもあります。目の前の状況に揺るがされることもあれば、耳に入るニュースや噂で揺るがされることもあります。
遠い国で起きている惨事を直接目にすることはあまりありません。それでもウクライナでの戦争、パキスタンやアフリカの諸国で起きた洪水のニュースを聞くと、どうしてこのような悲惨なことが起こるのかと揺さぶられます。
昨夜は韓国で大きな事故があったようです。梨泰院でたくさんの人が押しつぶされ、149人以上亡くなったと今朝のニュースで聞きました。事故の映像を見なくても、その話を聞くだけで心が揺るがされます。
真実の言葉でなくても揺るがすものがあります。
神なんていないよ。
イエスは十字架で殺されたじゃないか。そんな死刑囚が救い主なわけないだろ。
神が人間を造ったなんてあり得ない。科学を勉強してみろ。人間は偶然サルから進化したのだ。人生に意味も目的もない。
そのような言葉で揺るがしてきます。
権威ある言葉に揺るがされることもあります。
ボスが、日曜日に教会なんか行ってないで、働け、勉強しろ、部活に来いと言ってくる。
政府が信仰に口を出してくる国もあります。
私たちを揺るがそうとする言葉に気をつけなければなりません。
サタンの言葉にそそのかされたアダムとエバ
アダムとエバも言葉に揺るがされました。
彼らは神の言葉を聞いていました。
そこにヘビが来て言います。「園のどの木からも食べるなと神が言ったか」 エバはヘビに扮したサタンと話しながら、揺るがされていきます。
それまで触れようとも思わなかった木の実だけれど、食べたら目が開いて神のようになるというサタンの言葉を聞いたとき、揺るがされます。エバが善悪を知る木の実を見ると、いかにもおいしそうに見えてきました。
エバは禁断の実を食べ、アダムも食べてしまいました。
エバはサタンの言葉に揺るがされてしまった。アダムもエバの言うがままに食べてしまった。
神の言葉は忘れ去られています。
権威者の声に流されイエスを十字架に
イエス様をエルサレムに迎えた群衆はホサナと叫んで歓迎しました。
その数日後、イエス様は裁判にかけられます。祭司長たちは「十字架につけろと言え」と群衆を扇動します。
権威ある祭司長の言う通りに、群衆は「十字架につけろ」と叫びだします。
人は言葉によって簡単に揺るがされ、流されていきます。
私たちもそそのかす者の声に簡単に流され、神の言葉を無視し、イエス様に背きます。
私たちも「十字架につけろ」と叫びイエス様を殺した者の側です。
誰の声を聞くのか
この世の中には様々なメディアが発信する色々な情報があり、簡単に得ることができます。
それらすべてが有益なわけではありません。中にはいい加減で無責任な情報もあります。悪意をもって私たちをだまそうとする情報もあります。
それは私たちを滅ぼそうとするサタンの声かもしれません。
誰の言葉を聞くのか気をつけなければいけません。
神の言葉を聞く
ヒゼキヤとイザヤは共に祈りました。
彼らもラブ・シャケの言葉を聞きました。そして真っ先に取った行動がこれです。
「ヒゼキヤ王と預言者、アモツの子イザヤはこの事のために祈り、天に助けを求めて叫んだ。」
天におられる父なる神様に助けを求めました。
祈りは神の言葉を聞くことも含む
祈りは一方通行ではありません。助けてと叫ぶだけではなく、神の言葉を聞くことでもあります。
ヒゼキヤとイザヤはセンナケリブやラブ・シャケの言葉ではなく、神の言葉に耳を傾けることを選択しました。
神の言葉こそ真実
するとアッシリア軍を天使が襲い、一晩で18万5千の兵が全滅しました。
南ユダ軍は何もしていません。祈っただけです。
何が起きたかわかりませんが、とにかくすごいことを神様がしました。
センナケリブは帰国しますが、後にニネベの神殿で息子たちに殺されます。
ユダの人々はこれを神からの裁きだと理解しました。
創造主なる神を人の手の業にすぎない諸国の神々と同じように考えた敵は滅ぼされました。
彼らの言葉は真実ではありませんでした。
神の言葉こそ生きていて力ある真実の言葉でした。
アッシリアも神の言葉を聞いて命を得たことがあった
アッシリアの人々も主なる神様の言葉を聞くべきでした。
ラブ・シャケはアッシリアの先祖が全世界の民に行ったことを引き合いに出します。アッシリアの歴史を語ります。
しかし彼らが知るべき歴史は、かつてアッシリアのニネベに神の怒りが下ろうとしていたときに起こった出来事です。
神様はヨナをニネベに送りました。
ヨナが「ニネベは滅びる」と預言すると、その神の言葉を聞いて王も民も家畜も断食し悔い改めました。
神の言葉に聞き従ってニネベの12万人以上の人々は命を得ました。
神の言葉に聞き従って命を得るのです。
どうしたらいいのかわからないとき神の言葉を聞く
どうしたらいいのかわからない問題にぶつかることがあります。
そのような時、私たちは情報を求めます。人に聞いたり、グーグル先生に聞いたりします。
ペトロにもどうしたらいいのかわからない時がありました。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人がイエス様と一緒に山に登ったときのことです。
そこでイエス・キリストの姿が変わりました。モーセとエリヤも現れます。
ペトロはどうしていいかわからなくなり、小屋を3つ建てましょうかとか意味不明なことを言いだします。
そこに父なる神様の声が響きました。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
マルコによる福音書9:7
「これはわたしの愛する子」 この言葉はイエス様がいつも聞いていた言葉です。
イエス様が洗礼を受け聖霊が鳩のように降ったとき、天が開いてこの声が聞こえました。
その後イエス様は荒野でサタンの誘惑を受けますが、サタンの言葉を神の言葉で退けます。
どんなに忙しくても、イエス様は人里離れたところで祈りの時を持ちました。天のお父さんとお話したのです。
弟子に裏切られる時も、イエス様はいつも通りゲツセマネの園で祈りました。イエス様は切実な願いを叫びますが、神の御心に聞き従うことを優先します。
イエス様は父なる神の声を聞き続けたのです。
どうしたらいいのかわからない時、神の言葉を求めてください。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
イエス・キリストの弟子たちにはキリストの声を聞き続けることが求められています。
羊飼いの声を聞く
イエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言いました。
そして私たちを羊にたとえます。
27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
ヨハネによる福音書10:27-28
羊を羊飼いの手から奪い滅ぼそうとする者がいます。盗人、オオカミ、ほえたける獅子。
羊はその声ではなく、羊を愛し命を与える羊飼いの声を聞き分けます。
イエス様は私たちを愛してくださる羊飼いです。
私たちが命を豊かに受けられるように、命を捨ててくださった良い羊飼いです。
そそのかす者の声に流され背いた私たちのためにイエス様が十字架で死んで復活してくださったことで、神の愛が私たちに示されています。
私たちを滅ぼそうとする者、無責任な者の声ではなく、私たちを責任をもって愛してくださったイエス様の声を聞いてください。
一般的にも、色々な情報に惑わされないで自分を愛してくれる人の声を聞いてください。
色々な声がある中で、私たちは神の言葉に堅く立つ者でありたいです。
私たちを愛しておられるイエス様の声を聞き分けられるよう、日々聞き従っていきましょう。