棕櫚の主日
愛されている人の応答
ヨハネによる福音書 12:1-8
1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
寒さによって暖かさを受け取るスイッチが入る
入学式の時期を迎えました。
私が子どもの頃は、入学式の時期に桜が咲いていたような気がします。
しかし日本の桜の代表的な品種であるソメイヨシノは、この時期にはもう散って葉っぱがついています。
むしろ小中学校の卒業式の時期が見頃です。
桜の開花時期が早くなっているようです。
桜は最高気温の合計で開花を予想できます。
気温の高い日が増えれば、開花は早くなります。
すると温暖化が続いて気温が上昇すれば、開花はどんどん早くなるのでしょうか。
実はそうではありません。桜の開花は温かさだけではなく、寒さも重要です。
桜の花の芽は前年の夏には作られていますが、眠っています。この眠りを覚まさせるのが、冬の寒さです。
寒さにさらされることで、暖かさを受け取るスイッチが入ります。
だから冬の寒さがなくなれば、桜はきれいに咲くことができないのです。
暖かさを受け取って花を咲かせる桜のように、私たちも愛を受け取ることで愛を表すことができます。
しかしまずは眠りから覚める必要があります。
愛を受け取るためのスイッチを入れなければなりません。
惜しみない愛
今日イースターの1週間前。棕櫚の主日です。
イエス様がエルサレムに入ったとき、群衆が棕櫚(ナツメヤシ)の葉っぱを敷いてイエス様を迎えたことを記念する日です。
ナルドの香油をささげたマリア
今日の本文はその前日の夕方に起こった出来事です。
イエス様と弟子たちはべタニア村で夕食の席に招かれました。
べタニア村と言えばマルタ、マリア、ラザロの3きょうだいが住んでいたところです。彼らはこの場にも居合わせています。
ラザロも食事の席に着いています。マルタ姉さんはやはり給仕をしています。マリアはどこに行ったのでしょう。
今日も給仕のチームには入っていません。イエス様のそばにもいません。
マリアは自宅からナルドの香油を持って来ました。1リトラ(約326g)で300万円もする高価な香油です。
マリアはその香油をイエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。
家は香油の香りでいっぱいになりました。
そこまでする必要があるか
それを見ていたイスカリオテのユダは無駄遣いだと怒ります。
イエス様に塗るだけなら数滴だけでいいです。1リトラも使うなんて、そこまでする必要があるか。
売れば300万円にもなるのだから、多くの貧しい人を助けるために使った方が有益ではないか。
そのように言うユダに対して、イエス様は「この人のするままにさせておきなさい。」と言います。
イエス様はマリアの行為を受け入れます。
明らかに無駄遣いなのですが、それを良しとします。
多くの罪を赦された人は大きな愛を示す
ルカは今日の本文とは違う場面で香油をイエス様に塗った女性の話を紹介しています。
ファリサイ派のシモンという人がイエスを食事に招きました。
そこに、この町で有名な罪深い女の人が入ってきて、イエス様の足を涙で濡らし、自分の髪でそれをぬぐい、足に接吻して香油を塗りました。
シモンは、罪深い女にべたべた触られるイエスを見てさげすみます。
イエス様はそんなシモンに言います。あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は足を涙で濡らし髪でぬぐった。あなたは接吻の挨拶もしなかったが、彼女は足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油も塗ってくれなかったが、彼女は香油を塗ってくれた。
なぜ彼女はこのようなことができたのでしょう。
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
ルカによる福音書7:47
彼女は自分に多くの罪があり、イエス様がそれを赦してくださることを知っていました。
だから大きな愛の表現ができます。
ファリサイ派のシモンに罪がなかったわけではありません。自分の罪の大きさに気づいていないだけです。
だから愛を表すことができません。
イエスの愛を疑っていたことに気づいたマリア
べタニア村のマリアも自分の罪の大きさを知りました。
ラザロが病気になった時、イエス様は来てくれませんでした。そしてラザロは死んでしまいました。
イエス様に失望したマリアは、イエス様がべタニアに来ても迎えに出ません。
そしてマルタに呼び出されると、イエス様に向かって「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と恨みを口にします。
マリアは自分たちが見捨てられたような気がし、イエスの愛に疑いを持っていたのでした。
しかしイエス様が涙を流し、ラザロを生き返らせるのを見たとき、イエスの愛の大きさを知りました。
そしてイエス様を疑った自分の罪を知りました。
十字架で示された神の惜しみない愛
私たちもイエスの愛の大きさを知る必要があります。
イエス様は私たちを救うためにとてつもない無駄遣いをしました。
神の子イエスは天の栄光を捨て、人間となった。すべてを捨てて自分を無にし、律法の支配の下に置かれました。
そして十字架につけられ、死んで墓に葬られました。
そこまでする必要があるか。
神が命をかけるほど、人間の命に価値があるか。私の命にそれほどの価値があるのか。
戦争で民間人が虐殺されたりコロナの死者がただの数字として扱われたりするのを毎日見せられていると、人間の命なんてそんなもんかと思えてきます。
しかし神は、人を救うために十字架で死んだのです。
神はとんでもない無駄遣いをしました。
それほど神は私たちが生きることを願っています。
それほど私たちは神の目に高価で尊い存在なのです。
この惜しみない神の愛を受け取ってしまったら、私たちも惜しまずささげずにはいられなくなります。
罪がわかると愛がわかる
イスカリオテのユダは3年半の間、四六時中イエス様のそばにいました。
それなのにユダはマリアの行為が無駄遣いにしか見えません。その惜しみない愛が理解できません。
ユダは、イエス様が示してきた惜しみない愛がわかっていなかったのです。
そしてユダはこの数日後、イエス様を銀貨30枚で売る約束をし、何の罪もない方を売り渡します。
愛されていながら愛がわからないユダ
イエス様がユダを愛していなかったわけではありません。最も近くで愛を示し続けたはずです。
ユダが裏切る約束をした後でも、イエス様はユダを含む弟子たちをこの上なく愛し抜き、一人一人の足を洗いました。ユダはその体で、ご自分を裏切ろうとする者をも愛するイエスの愛を体験しました。
それでもユダは愛がわかりませんでした。
十字架の愛を受け取らない罪
愛されていながら、その愛がわからない。これは大きな罪です。
イエス様は最期の晩餐の時に聖霊について教えます。
その中で、聖霊は罪と義と裁きに関する世の誤りを明らかにすると言います。
罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
ヨハネによる福音書16:9
してはいけないことをすることも罪だし、しなければいけないことをしないことも罪です。
それだけではなく、イエス様を信じないことこそ罪なのです。
罪人であるあなたを救うために十字架で示されたイエス様の愛を受け取らないことが罪なのです。
惜しみない神の愛が注がれていながら、それに気づかないあなたの罪を聖霊は指摘します。
罪のもだえ
自分の罪深さを知っていますか。
クリスチャンは罪の告白をして洗礼を受けます。
しかしただ罪を知っているということと罪にもだえるというのは大きな違いがあります。
ちいろば牧師として知られた榎本保郎先生は、京都の教会に下宿をしていた時、そこの教会の牧師から「君はまだ罪にもだえていない」と指摘されました。
自分が罪人であることは知っています。しかし自分の罪の大きさにもだえるほどではなかった。
榎本先生は自分の罪を書き出し、何枚も積み重なった便箋の厚さを見て自分の罪深さに気づきました。
そしてこんな自分のためにイエス様が十字架にかかったということが実感でき、感激の涙があふれたそうです。
愛を受け取るスイッチを入れよう
受難週に入ります。
イースターを前にして、聖書を読みながら祈りながら、もう一度自分の罪を見つめ直してほしいのです。
神の愛を無視し続けて来ませんでしたか。
日常の中で神様の恵みを見落としていませんでしたか。
身近な家族や友人、教会の兄弟姉妹からの愛を受け取ってきましたか。
自分の罪にもだえるとき、愛を受け取るスイッチが入ります。
愛を受け取ると応答が変わる
イエス様の愛を受け取ると、イエス様への応答が変わります。
イエス様をどう受け入れるかが変わります。
イエス様は問います。「あなたはわたしを何者だと思うのか。」
ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白しました。
イエス様の前で自分の罪深さを認識したペトロだからこそ口にできた告白です。
イエスをメシアとして扱う
メシアとは油注がれた者という意味の言葉です。
旧約時代に王、預言者、祭司が任命されるときに油注がれました。
だからイスラエルの王として来られる約束の救い主を人々はメシアと呼び、待ち望んでいました。
棕櫚の主日の時、群衆はイエス様をこのイスラエルの王、メシアとして迎え入れたのでした。
ではイエス様はいつ油を注がれたのでしょうか。
イエス様のメシアとしての公生涯が始まるのは洗礼を受けた時です。
天が開き聖霊がハトのように降ったとき、聖霊による油を注がれたとも言えます。
実際に油を注がれたのは、福音書によって状況にばらつきがありますが、この場面だけです。
マリアはイエス様に油を注ぎ、メシアとして扱いました。
イエスの救いの働きに加わる
イエス様はマリアのしたことを葬りの日の準備だと受け取ります。
この1週間後に十字架で死んで墓に葬られる。その死体に塗る香油を前もって塗ってくれたのだと。
イエス様の愛を受け取った者は、イエスを主として受け入れます。そしてイエス様の救いの働きに用いられていきます。
イエス様の愛の大きさを知るために、まず自分の罪の大きさを知る必要があります。
愛されていながらその愛を受け取って来なかった自分の罪にもだえる必要があります。
そのとき愛を受け取るスイッチが入り、神の惜しみない愛がわかります。
そして惜しまず愛を表す者に変えられます。
私たちが惜しみない愛を表すとき、家中に香油の香りが拡散したように、私たちの周りにキリストの愛が拡散します。