歴代誌講解68
感謝のささげ物
歴代誌下 31:2-10, 14
2 ヒゼキヤは祭司とレビ人の組分けを行い、その組ごとに、主の陣営の門の中で、祭司とレビ人がそれぞれの任務に従って焼き尽くす献げ物や和解の献げ物をささげ、感謝し、賛美しながら奉仕するように定めた。3 王はまた焼き尽くす献げ物のために自分の財産から王の分を出し、主の律法に記されているとおり、朝夕の焼き尽くす献げ物、安息日、新月祭、およびその他の祝祭日の焼き尽くす献げ物をささげさせた。4 更に彼はエルサレムに住む民に、祭司とレビ人の受けるべき分を提供するように命じた。これは、祭司とレビ人が主の律法のことに専念するためであった。5 この命令が伝わると、イスラエルの人々は穀物、ぶどう酒、油、蜜など、畑のあらゆる産物の初物を大量にささげ、またあらゆる物の十分の一を大量に運んで来た。6 ユダの町々に住むイスラエルとユダの人々も、牛と羊の十分の一と、自分たちの神、主のために聖別された物の十分の一を運んで来て、次々と積み上げた。7 第三の月に、その積み上げが始まり、第七の月に終わった。8 ヒゼキヤと高官たちはその積み上げを見に来て、主とその民イスラエルをたたえた。9 ヒゼキヤが祭司とレビ人にその積み上げについて尋ねると、10 ツァドク家の祭司長アザルヤはこう答えた。「主の神殿に献納物の奉納が始まってから私たちは食べ物に不足はなく、むしろたくさん残ってしまうほどです。主はその民を祝福してくださいました。この大量の物が残っています。」
14 東の門の門衛、レビ人イムナの子コレが神への随意の献げ物の責任を負い、主への献納物と神聖なる物を分配した。
感謝してささげる
今日の本文は南ユダ王国12代目ヒゼキヤ王の話その3、ヒゼキヤの礼拝改革です。
過越祭を祝った民は、死ぬべき罪人が神の民とされた恵みに感謝し、それぞれの生活の場所に出て行きました。
その途中であらゆる偶像を捨てていきました。
それからヒゼキヤは祭司とレビ人の組分けを行い、ささげ物の奉仕をさせました。
そして王自身の財産から、律法に定められたささげ物をささげるようにしました。
さらにヒゼキヤは民に、祭司とレビ人が神様への奉仕に専念できるように食べ物を提供するよう呼びかけました。すると民はあらゆるものの十分の一を運び込み、山のように積み上げました。
ヒゼキヤの礼拝改革
改革と言っても、ヒゼキヤが新しいことをしたわけではありません。
ダビデがしたように組分けを行い、律法に従って礼拝できるように整えました。
礼拝が本来あるべき状態でささげられるように戻したと言うこともできます。
民の協力によって礼拝がささげられる
礼拝の奉仕は、祭司やレビ人のような神様に身をささげた人たちだけでできるわけではありません。
教会の礼拝は牧師一人でもできると言えばできるのですが、奏楽者、代表して祈る人、また会衆など、皆さんの存在が大事です。皆さんの参加によって礼拝がささげられます。
今日の本文ではヒゼキヤ王がささげものをしています。
定期的な礼拝のために律法で規定されたささげものがありました。
王には力がありますから、王が自分の財産の中から出せば足りるかもしれません。
それだけでなく民の協力も必要です。
歴代誌の著者は主の陣営(宿営)という言葉を使います。これはモーセの時代、幕屋に住んでいた頃を思い起こさせる表現です。
死の災いを過ぎ越したイスラエルの民は荒野に出てきました。何もない荒野でのテント生活です。神の民のこのような様子が陣営とも表現されました。
直前まで奴隷だった人たちばかりが、何もない荒野に置かれました。
身分も所有もない民が持っているものを出し合い、臨在の幕屋が築かれました。
その後イスラエルの民はカナンの地に定住します。
ダビデが神殿を建てる準備をしたとき、ダビデも大量のささげ物をしましたが、民が自らすすんでささげものをしました。こうして神殿建築のすべての必要が満たされました。
このように皆の協力によって礼拝の場が築かれ、礼拝がささげられました。
量ではなく感謝の心が大事
自分にはささげられるほど豊かじゃない。豊かな人がささげればいいじゃないか、と思う方もいます。
どれぐらいささげられるかという量や、いくらささげられるかという金額が大事なのではありません。感謝の心をもってささげることが大事です。
ある日、イエス様のところに5000人以上の人が集まりました。
夕方になり、皆お腹が空いてきます。イエス様は彼らに食べ物を提供しようとします。
しかし食べるものが何もありません。
そこに1人の少年が来ます。
アンデレは言いました。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
ヨハネによる福音書6:9
5000人を食べさせるという目標に対して5つのパンと2匹の魚では圧倒的に足りません。何の役にも立たないと思えます。
そんなことは気にせず少年は喜んでそれを差し出しました。
イエスが感謝の祈りをとなえてそれを分け与えると、5000人以上の人々が満腹になりました。さらに残ったパンくずを集めると12かごにもなりました。
量ではなく、感謝してささげる心が大事です。
まず神が祝福してくださったのでささげる力がある
祭司長アザルヤはこう言います。「主の神殿に献納物の奉納が始まってから私たちは食べ物に不足はなく、むしろたくさん残ってしまうほどです。主はその民を祝福してくださいました。この大量の物が残っています。」
確かに、ささげるためにはささげられる豊かさが必要です。パンを持っていない人はパンをささげられません。
そのささげる力は神から与えられます。
まず神が祝福してくださったので、ささげ物を山のように集めることができました。
ダビデが神殿建築の材料を集めたとき、こう告白しました。
このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。
歴代誌上29:14
まず神が祝福を与えてくださっているので、わたしたちにはささげる力があります。
神の祝福に目を向ける時、私たちは感謝してささげることができます。
私に豊かさはない。パンすら持っていない。そのように思っていると何もささげられません。
何もささげないなら、5000人を食べさせる豊かさは生まれません。
目を開いて神からの祝福に目を向けてください。
どんな小さな祝福でも感謝してささげるなら神は喜んで受け取り、大いに用いてくださいます。
ささげることで気づく限りない祝福
神の祝福は豊かです。
神は天の窓を開いて祝福を限りなく注ぐと約束しています。
十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。
マラキ書3:10
人がささげ物をしたらその報いとして祝福する、ということではありません。
神が先に祝福を注いでいます。
人がささげ物をするとき、神から与えられた祝福が限りないものだったと気づきます。
ヒゼキヤは祭司とレビ人に、感謝し賛美しながら奉仕するよう定めました。
仕方なくささげるのではなく、感謝し喜んでささげるのです。
感謝をもって礼拝をささげる私たちでありたいです。
与えられたものを分け合う
14節ではささげ物の管理、分配の話が出てきます。
祭司長アザルヤは大量のささげ物が残ったと言います。
これを放っておくと、傷んでしまいます。穀物はいいですが、野菜などは鮮度が大事です。
ささげられたものを無駄にしないように、管理者を決めて必要なところに分配するようにしました。
分け合うことで不足が解消された
10節で祭司長アザルヤが言った言葉が気にかかります。
「献納物の奉納が始まってから私たちは食べ物に不足はなく」 ささげ物が集まってから食べ物に不足はなくなった。
ということは、それまで祭司たちの食べ物が不足することがあったということでしょう。
その不足はなぜ解消されたのでしょう。収穫が増えて祭司たちに行き渡るようになったわけではありません。
分け合うことで不足が解消されたのです。
元々十分な収穫があったけれど、どこかに偏っていて祭司たちの分が不足していた。それをささげることで分配され、不足なく余るほどになりました。
このような出来事は新約聖書の時代にも繰り返されています。
34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
使徒言行録4:34-35
最初の教会の様子です。
信徒たちが自分の財産の中からささげものをし、必要に応じて分配された。すると貧しい人が一人もいなくなりました。
分け合うことができない私たち
現代の日本でも貧富の格差があり、貧困に苦しむ人たちが多くいます。
世界の飢餓人口は8億人。80億人の全人類の1割が飢餓に苦しんでいます。しかし世界で生産される食物は世界中の人が食べて満足して余るほどあります。分配がうまく行っていないのです。
私たちは自分に与えられたものうまく管理することができません。
これは私の物。だから私が使う。これはぼくのだ!と言い張る子どもみたいです。
仲良く使えば皆が笑顔になれるのに、独り占めする。そして取り合いになる。
国同士がそのようなケンカをすることもあります。
分配がうまくいかないと格差が生まれ、持つ人はさらに持ち、持たない人はさらに奪われます。
持つ人が持たない人を支配し、力をつけていく。
思い上がり、自分が神であるかのように勘違いします。
神から与えられた豊かさを正しく管理できない
かつてエデンの園で人間はあり余るほどの豊かさの中にいました。
そこに蛇が来て誘惑します。「園の中央にある善悪を知る木の実を食べれば、目が開いて神のようになれるよ」
すでに神からの祝福に満たされていたのに、神のようになれるという言葉にそそのかされて食べてはいけない実を食べてしまいました。
このように今ある祝福に満足せず、もっと欲しい、もっと力を得たい、支配したい、神のようになりたいという欲求が私たちにあります。
力を得た人間はついに自分が神になり、神を捨てます。
神様は私たちに祝福として必要なものを与えてくださっています。
それは自分が独り占めし互いに争い、他の人を支配し、神を捨てるためではありません。
私たちは祝福の管理の仕方を間違えます。
宝が与えられているなら、その宝を腐らせてはいけません。
すべてささげ尽くしたイエス
正しく管理するために分配が必要です。
イエス様は天の栄光をすべて持っていました。
それをすべて手放しました。天の栄光を捨て人となり、私たちにすべてを与えてくださいました。
ご自分の命さえも与えてくださいました。十字架で血を流し死なれたのです。
イエス様は私たちを生かすためにすべてをささげ尽くしてくださいました。
恵みを分かち合う
死の力を破り復活されたイエス様は今、私たちと共にいます。
イエス様を信じ結び合わされた私たちは、イエス様から恵みを受け取ります。
恵みを受け取った者は恵みの管理者になります。
恵みを分かち合うのが、恵みの善い管理者です。
ペトロは言います。
9 不平を言わずにもてなし合いなさい。10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
ペトロの手紙一4:9-10
不平を言わずもてなし合う。互いに仕え合う。それが恵みの善い管理の仕方です。
日々、神様がどのような恵みを与えてくださっているのか目を向けてください。
そのいただいた恵みを感謝してささげ、互いに仕え合いましょう。