収穫感謝礼拝
感謝を選び取る
ルカによる福音書 17:12-18
12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
当然でなく神の恵みであることに目を向ける
今日は収穫感謝礼拝です。神様からの恵みに感謝して礼拝をささげます。
皆さんはどのようなことに感謝だな、ありがたいなと思いますか。
反対に感謝できないことはありますか。
感謝できないことというのは、ありがたいことを否定して、ありがたくないことでしょうか。ありがたくないことと言うと嫌なことという感じですね。
ありがたいという言葉は漢字で「有難い」つまり「有ることが難しい」と書きます。
その反対は「有ることが易しい」です。つまり有って当然なことです。
感謝できないことというのは、当然だと思っていることなのです。
しかし私たちが当然だと思っていることも、よく見ていくと当然ではないことに気づきます。そこに神の恵みを見出します。
当たり前なことなど一つもなくすべてが神様の恵みです。そう思うと感謝だなと思えます。
そして神の恵みを見出すなら、ありがたくないと思えるような困難の中にも神の恵みが隠されていることに気づきます。ありがたくないことでも感謝はできます。
今日から神の恵みに目を向け、感謝を選び取る皆さんになることを願います。
イエス・キリストとの出会いによって体験する感謝
10人の重い皮膚病の患者たちの叫び
イエス・キリストがある村に近づいたとき、遠くから呼ぶ声が聞こえました。声の主は10人の重い皮膚病の患者たちでした。
聖書で重い皮膚病と訳された皮膚病は人から人に感染する病気だったようです。今でいうハンセン病ではないかという説があります。
ハンセン病の原因になる らい菌の感染力は弱いですが、発症すると体に斑点ができ、感覚を失います。
現代は薬で治療できますが、薬がなかった時代は病気の進行によって体が変形するなどしました。痛みも感じないのでケガをしても気づかず、傷口からばい菌が入って腐ってしまいます。それで指や鼻など体の先端部分から失われてしまいます。
旧約の律法では人々から隔離され、町の外で暮らすことが命じられていました。しかも人が近づかないように「私は汚れています」と叫ばなければなりません。
そんな生活は嫌ですね。本当に自分が汚く、社会に必要ない存在なのではないかとも思えてきます。
なので重い皮膚病は人々からとても恐れられていました。
この10人の患者たちも、早くこのような生活から抜け出したいと思っていたでしょう。
ルカによる福音書5章には、イエス様が全身を重い皮膚病に冒された人に手を差し伸べて癒したという出来事が記されています。
彼らもこの話を聞き、イエス様に癒してもらいたいと思った。しかし自分たちは汚れた存在。近づくことはできないが、遠くからでも助けを求めたい。
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」
そのような叫びだったのでしょう。
イエス様によって癒された
その叫びはイエス様の耳にも届きました。
イエス様は彼らを見ると、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言います。
祭司が見て癒されていると判断されれば、町に入ることができるからです。
しかし彼らはまだ癒されていません。イエス様に触れてもらってもいません。
それでも彼らはイエス様の言う通りにしました。
イエス様の言葉を信じて従ったのでしょうか。
私は違うと思います。
人は願いを聞いてもらえないことが続くと、願うことをやめます。
彼らは重い皮膚病だと診断されてから、様々な願いを訴えてきたことでしょう。
「祭司様、もう一度見てください!」
「家に帰らせてくれ!」
「待ってくれ、見捨てないで!」
「食べるものをください」
「お恵みを…」
そのような願いをことごとく断られてきました。
願ってもどうせ聞いてもらえない。願いを持つこと自体がムダだ。
イエス様の噂を聞いたときは、癒されるかもしれない、もう一度人の手の温もりを感じられるかもしれないと思いました。
しかしイエスという男の答えは「祭司のところに行け。」 どうせあの男も他の人と同じ。私たちを去らせたいだけだ。
これ以上何かを願うことは無駄だから立ち去ろう。
そうやってとぼとぼと歩いて行きました。
ハンセン病の場合、皮膚の感覚がなくなり、痛みも感じなくなります。
病気の進行で手足に変形が起こることもあります。
歩くのも大変だったでしょう。石につまずくこともあります。
彼らのうちの1人が叫びました。「痛っ!」 またつまずいてしまいました。
ん?痛い?それまで痛みを感じなかったのに。
見ると斑点が消えています。曲がった足が真っすぐになっています。
「治ってる!」
その声を聞き、他の人たちも自分が癒されたことを知りました。
絶望の中に留まるのを止めイエスに目を向ける
ハンセン病の恐ろしいところは無感覚になることです。痛みすら感じなくなります。
そして人々から拒絶され、何かを願うことすらなくなります。
私たちも同じような部分がありませんか?
無感覚になって痛みを感じることもなく、何かを願うこともない。
今の自分は本来の自分ではない。痛みがある。
自分の置かれた状況には解決すべき問題がある。
私はこうしたい。この状況をどうにかしたい。
そのような願いを感じていますか。
重い皮膚病の10人は、イエス様に出会い変えられました。癒されたいと願うようになったのです。
イエス様から遠く離れているように感じられても、イエス様はその声に耳を傾け、目を留めてくれました。
イエス様は皆さんの痛みも苦しみも知っています。心に秘めた本当の願いを聞いています。皆さんの生活に目を留めています。
絶望の中に留まることをやめ、そこから救い出してくださるイエス様に助けを求めてください。
そのとき、あなたの人生に感謝なことが起こります。
イエス様に目を向けることができるなら、病になること、痛みを感じることさえも感謝に変わります。
神の恵みから目をそらすもの
癒された人々は祭司のところに向かいました。
ただ1人、サマリア人の人だけは来た道を戻ります。大声で神を賛美しながら。
そしてイエス様のもとに進み出ると、足もとにひれ伏して感謝しました。
イエス様は10人全員が癒されたことを知っています。それで聞きました。
「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
他の9人はどうして癒してくれたイエス様に感謝を伝えなかったのでしょうか。いくつか理由が考えられます。
人の言いなりになる
1つ目は、言われた通りにしたからです。
イエス様が命じたのは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」ということです。9人は言われた通りにしただけです。命令した本人に「どこにいるのか」と言われる筋合いはありません。
しかし人の言いなりになるとき、私たちは感謝ができなくなります。
親がごはん食べなさい、学校に行きなさいと言う。言われた通りにごはんを食べ、学校で勉強をした。おかげで元気に育ち、知識を身に着けられた。
子どもの頃、そのように感謝していましたか?
大人になって苦労を知り、ごはんを食べられることのありがたさ、教養の大切さを知ってようやく、感謝だったなと気づいた人が多いのではないでしょうか。
もちろん従うことは大事です。
ただ言われた通りにするだけのロボットになるのではなく、主体的に感謝を選び取る人間になってください。
目の前に物事に捕らわれる
2つ目は、癒されて感動したからです。
自分の体が癒された。曲がった足が真っすぐになった。
早く祭司に体を見せ、家に帰りたい。家族を抱きしめたい。
そう思ったら自然と町に向かって駆け出してしまいます。
幸せな未来が待っています。
その幸せを与えてくれるのは、癒された体でしょうか。祭司でしょうか。
いいえ、癒してくださった神様です。
あなたが作った弁当を食べた人がこう言ったらどうですか。
「うまい!この弁当は最高だ!弁当ありがとう!」
作った私への感謝はないんかい!
私たちは目の前の物事ばかり見てしまいます。
目を開き、それを与えてくれた神様への感謝を忘れないでください。
周りの人に流される
3つ目は、周りの人に流されたからです。
戻ってこなかった9人の中にもイエス様に感謝を感じた人はいたでしょう。
また、ペトロみたいな人もいて、癒された喜びですぐに町に向かって走り出します。パウロみたいな人もいて、「律法にもある通り、まず祭司に見せるべきだ」とか言い出す。
それで「ちょ、待てよ!」と追いかけなければならないし、確かに律法にも従わなきゃ、と思わされる。
それで一緒になって町に向かいます。
イエス様のもとに戻った人はただ1人、逆の道を選んだのです。
この日本で神の恵みに目を向け感謝を選び取るのは簡単ではありません。
私たちの周りの99%は神様の恵みがわからないからです。9対1どころか99対1。
その中で「イエス様ありがとうございます。」なんて言ったらどうなるか。
出る杭は打たれる…。だから会社や学校では神様の話をしないようにしよう。
そうして隠れクリスチャンになっていきます。
救いという驚くばかりの恵みが与えられている
人の言いなりになり、目の前の出来事に恐れ、周りに流される。
そのような人たちが祭司長たちの言いなりになって「十字架につけろ」と叫び、3回も「あんな男は知らない」と否認し、「この人の血について、わたしには責任がない」と言ってイエス様を十字架につけて殺しました。
このような罪人を救うためにこそ、イエス様は十字架で死なれ、復活されました。
驚くばかりの恵み。私たちが救われたことこそ、最大の恵みです。感謝せずにはいられません。
たとえこの国の99%の人と逆の道を歩むとしても、イエス様に感謝する人生を選び取りましょう。
私たちは無感覚になり、神様の恵みを見失っています。
イエス様の救いの恵みに感謝し、神様を賛美する人生を選び取ってください。
聖霊が私たちの目を開き、神様の恵みに気づかせてくれます。