歴代誌講解56
敵の前で神を賛美する
歴代誌下 20:20-37
20 翌朝早く、彼らはテコアの荒れ野に向かって出て行った。出て行くとき、ヨシャファトは立って言った。「ユダとエルサレムの住民よ、聞け。あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。」21 彼は民と協議したうえで、主に向かって歌をうたい、主の聖なる輝きをたたえる者たちを任命し、彼らに軍隊の先頭を進ませ、こう言わせた。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」22 彼らが喜びと賛美の歌をうたい始めると、主はユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので、彼らは敗れた。23 するとアンモン人とモアブ人は、セイルの山の住民に立ち向かい、一人残らず討って、全滅させた。セイルの住民を絶やすと、彼らは互いに戦って自滅した。24 ユダの人々が荒れ野を見渡せる所に来て、大軍のいた方を向くと、その地には死体が横たわり、生き残った者は一人もなかった。25 ヨシャファトと軍隊は戦利品を奪うために来て、多くの家畜、装備、衣類、宝物を見つけ、運ぶことができなくなるまで取り去った。戦利品は多く、それを奪い去るのに三日かかった。26 四日目に、彼らはベラカの谷に集まった。そこで主をたたえたので、その地名はベラカ(たたえること)の谷と呼ばれ、今日に至っている。27 ユダとエルサレムの人々は皆、ヨシャファトを先頭にして喜び祝いながらエルサレムに帰った。主が敵を破って、彼らに喜びを与えられたからである。28 彼らは琴と竪琴を奏で、ラッパを吹き鳴らして、エルサレムの主の神殿に入った。29 主がイスラエルの敵と戦われたということを聞いて、地のすべての国がどこも神への恐れに襲われた。30 ヨシャファトの王国は平穏で、神は、周囲の者たちから彼を守って、安らぎを与えられた。31 ヨシャファトは三十五歳で王となり、ユダを治めた。彼は二十五年間エルサレムで王位にあった。その母は名をアズバと言い、シルヒの娘であった。32 彼は父アサの道を歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行った。33 しかし、聖なる高台は取り除かなかった。民はまだ先祖の神に揺るぎない心を向けてはいなかった。34 ヨシャファトの他の事績は、初期のことも後期のことも、『ハナニの子イエフの言葉』に記されている。これは『イスラエルの列王の書』にも載せられている。35 その後、ユダの王ヨシャファトはイスラエルの王アハズヤと協定を結んだ。この王は悪を行った。36 彼らはタルシシュ行きの船団を造るために協定を結び、エツヨン・ゲベルで船団を造った。37 そのとき、マレシャ出身のドダワフの子エリエゼルがヨシャファトに向かってこう預言した。「アハズヤと協定を結んだため、主はあなたの事業を打ち壊される。」こうして船は難破し、タルシシュに行くことは妨げられた。
歌には力がある
「Do you hear the people sing?」
ミュージカル「レ・ミゼラブル」の中で、政府に不満を持った民衆が立ち上がる場面で歌われる「民衆の歌」です。
「民衆の歌が聞こえるか?怒る者たちの歌が。それは2度と奴隷になどならないという者たちの歌だ。」
この歌は現実の政府への抗議行動でも歌われるようになりました。
香港では2014年の雨傘革命で若者たちが大合唱し、2019年からの反政府デモでも歌われました。
強大な国家に対して一部の地域の民衆がうたう歌など無力ではないかと思うかもしれません。
しかし歌には大きな力があります。
歌はただの空気の振動ではなく、人の心を震わせます。
そして歌には私たちが何者であるかを思い起こさせる力があります。
神への賛美はあらゆる状況を打ち破る
今日の本文は南ユダ王国4代ヨシャファト王の話第3部の後半。ヨシャファト編の最終回です。
モアブ、アンモンの連合軍がエルサレムの近くまで攻めてきました。なす術ない状況でヨシャファトは恐れますが、民に呼びかけて共に主を求めます。
そこで聖霊の働きによって預言が与えられました。
「これは主の戦いだ。主が共にいる」繰り返し語られるこれらの言葉に励まされ、人々は共に主を礼拝しました。
神の言葉に励まされ戦いに挑む
主は預言の中で決戦は明日だと言っていました。ヨシャファトは翌朝早くから民を励まします。
「ユダとエルサレムの住民よ、聞け。あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。」
主を信頼せよ。主の預言者を信頼せよ。昨日まで恐れに捕らわれていたヨシャファトが別人のようになっています。彼自身が神の言葉に励まされたからです。
そして主が勝利を与えてくださると信頼し、無謀な戦いに挑みます。
協議して軍の戦闘に聖歌隊を置くことにした
ヨシャファトは大軍に挑むという無謀の上に、さらに無謀なことをします。
軍隊の先頭に聖歌隊を配置したのです。
信仰に狂った王様が現実を顧みず、無茶な軍事作戦を立てた、というわけではありません。
この作戦は協議した上で立てられました。
もちろん軍事の専門家もいたでしょう。当の聖歌隊のリーダーもいたでしょう。彼らが話し合い、勝利を得るための最善策として聖歌隊を先頭に置くことがよいと判断したわけです。
迫りくるエジプトの軍勢から逃れ葦の海を渡るときに、民は賛美しました。これは神の救いの御業を見たので賛美しました。
ヨシュアたちがエリコの城壁を7周回ったヨシュアたちは角笛を吹き鬨の声を上げました。角笛や鬨の声は戦いを象徴するものであり、賛美ではありません。
戦いの前に主を賛美するというのは前例がないのです。
それでも聖歌隊を先頭にしたユダ軍は無謀な作戦を実行に移します。
賛美を始めたときに主が送られた伏兵が動く
「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」と賛美しながら進みました。
彼らが喜びをもって賛美し始めたとき、驚くべきことが起こります。
どこかから伏兵が連合軍を襲い、打ち破ります。
彼らの所属は不明です。ユダ軍が先に兵を送りこんでいたのかもしれないし、連合軍の中に裏切り者がいたのかもしれません。
主が送られた伏兵とあります。天使だったかもしれません。
突然正体不明の敵に襲われたので、連合軍は誰かが裏切ったのではと疑い、同士討ちを始め、自滅します。
ユダ軍が戦場に到着したとき、既に敵は全滅していました。
17節で「そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ」と主が約束した通り、彼らは主の救いをただ見るだけでした。
賛美を住まいとする主
賛美には力があります。
この出来事は主への賛美をきっかけに起こりました。
パウロとシラスは牢の中で主を賛美しました。
理不尽に逮捕され牢の一番奥に入れられています。このどん底の状態で彼らは賛美します。
すると真夜中に地震が起きて牢が開きます。そして看守とその家族が洗礼を受けました。
最後の晩餐を終えたイエス様と弟子たちは賛美の歌をうたいながらゲツセマネに向かいます。
これから何が起こるか、イエス様は知っています。それでも賛美しながら進みます。
十字架上でイエス様は賛美はしませんでしたが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びます。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味のこの言葉は、詩編22編からの引用です。最初は嘆きの言葉から始まりますが、後半は神への賛美に変わります。
その詩の中にこのような言葉もあります。
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
詩篇22:3 新改訳第3版
主は賛美の中に住まわれるお方です。
イエス様は神への賛美を込めてこの詩を引用したのだと思います。
イエス様はどんな時も賛美をやめることはありませんでした。
愛する弟子に裏切られても、人の罪を背負って十字架につけられても、墓に葬られても。
そしてイエス・キリストは死の力さえも打ち破り復活しました。
どんな時も賛美はやめられません。
神への賛美はあらゆる状況を打ち破ります。
絶望の谷底が賛美の谷になる
目の前にどんなに大きな問題があっても、主を賛美するときにそこに住んでおられる主を見ます。
敵がどんなに強大でも、敵の軍勢より強大な万軍の主を見ます。
山のように大きな問題が立ちはだかっても、天地を造られた主がいます。深い絶望の谷底にあっても、死の力を破り復活したイエス様が共にいる。そこもベラカの谷、主をたたえる谷になります。だから主を賛美しましょう。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」
仲間と共に賛美する
31節以降はヨシャファトの治世のまとめです。
「彼は父アサの道を歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行った」善王として記録されています。
ところがその後でヨシャファトの失敗が記されています。
ヨシャファトは確かに善い王でしたが、見逃せない失敗もありました。
失敗を繰り返すヨシャファト
ヨシャファトはアハブの子アハズヤとも同盟を結び、貿易によって富を得ようとしました。
タルシシュという地名はおそらく西方のイベリア半島あたりにあった地域を意味する言葉だったと思われます。時代が下ると、地の果てのような遠い場所という意味でも使われるようになりました。ヨシャファトらが船団を造ったエツヨン・ゲベルはアカバ湾に面した都市なので、そこからイベリア半島に向かうのは非現実的です。まだスエズ運河は通っていませんから。東方のアラビア半島かインドを目指したのでしょう。
ここでヨシャファトは、アハブと同盟を結んだ時と同じ失敗をしています。神の言葉を聞こうとせず、自分の目に良いと映ることをしています。
神はヨシャファトの企みを止めます。船は難破し、貿易は行われませんでした。
失敗を繰り返してしまうヨシャファト。真っ先に取り組んだ教育の改革も未完了。「民はまだ先祖の神に揺るぎない心を向けてはいなかった」とあります。
信仰の友
こんな足りないヨシャファトだけれども、神に愛されています。
そして神は共に支える仲間を与えました。
共に話し合い、聖歌隊を軍の先頭に置こうと信仰の決断ができる仲間がいました。
ヨシャファトが間違った道を行くときには、その過ちをはっきりと指摘してくれる預言者たちが送られました。間違いを指摘してくれる仲間がいてくれることは、本当にありがたいことです。
私たちにも共に主を賛美する仲間が必要です。
一人では倒れてしまうような状況でも、仲間がいることで支え合えます。三つよりの糸は強いです。
主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな
5月にライフ・ラインのつどいがありました。笠井キリスト福音教会を会場に、声楽家の鈴木花安さんとピアニストの宮本汀さんがゲストで来てくださいました。
集会の中で鈴木花安さんがご自身の証しを紹介しました。
声楽家として活動している中、舌癌が見つかり、舌の一部を切除。
手術後は激痛に耐える日々。病室で神様に祈りながら過ごすが、病室の窓ガラスを割って飛び降りてしまいたいと思えるような苦痛だったそうです。
それでも毎日家族や友人からの励まし、祈りがあって乗り越えることができました。
リハビリによって会話はできるようになったものの、歌うことはできない。
もう一生歌えないのではないかという絶望感や焦燥感に襲われ、夜も眠れず泣き続けた。
泣き疲れて夜空を眺めていた時、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」というヨブ記の一節を元にしたワーシップソングが頭の中で流れてきた。
神様からの語りかけを感じて聖書を読み、自分の力で解決しようとしていたことを悔い改め、今は歌えなくても感謝できるようにと祈った。
それからは感謝の祈りをしてから歌の練習を始めた。
すると日に日に回復し、歌の仕事にも復帰できるようになった。
以前より舌の使い方を意識するようになったことで、手術前よりできることが増えた。
神に栄光を帰すように歌い続けていく、と語っていました。
私たちは賛美するために造られた
私たちも、どのような状況にあっても主を賛美することを忘れてはいけません。私たちの存在意義は主を賛美することにあるからです。
後の世代のために/このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
詩編102:19
私たちは主を賛美するために存在しています。
困難な状況に置かれ、なぜこんなに苦しまなければならないのかと思い、生きる目的を見失いそうな時、自分の存在意義を思い出してください。
それは主を賛美することです。
主を賛美するとき、生きる道が見えてきます。
うまくいかないことがあって落胆させられることがあります。神が願っているのは何か、わからなくなります。
私自身、日本宣教のために大いに用いられるようにと祈られて牧師になりました。
ところが現実には教会の規模が小さくなるばかりです。
教会員が浜松から出世してさらに大きな世界へ出て行くのは祝福です。そう信じています。
しかし教会に集まる人が減り続けるのを見ると、やはり寂しさがあります。私のせいで教会が小さく弱くなっているような気がして落胆させられます。
しかし私の存在目的は、私が大きく用いられることではありません。
教会にたくさんの人を集めたり財政の規模を大きくしたりするために、私は存在しているのではありません。
私の存在目的は主を賛美すること。
だからどんな時もまず主を賛美するのです。
自分が思い描いたとおりにならなくても、神に感謝できたらいいです。
ウェストミンスター小教理問答第1問にはこうあります。
問:人の主な目的は何ですか。
答:人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。
ウェストミンスター小教理問答第1問
神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことが私たちの人生の主な目的です。
色々な楽器が1人の指揮者に従って奏でるハーモニー
音楽を奏でる時、1つの楽器のソロで演奏することもできます。人の声だけ、アカペラで奏でることもできます。
色々な楽器を集めた重厚なオーケストラで音楽を奏でることもできます。
別々の楽器がそれぞれのパートを演奏するとしても、1人の指揮者に従うことで美しいハーモニーを奏でることができます。
私たち一人一人は小さく無力かもしれません。ソロパートを担当するような金管楽器ではなく、舞台の端にあって少ししか出番がない打楽器かもしれません。
それでもその楽器があるから、ハーモニーが完成します。
目立った活躍ができなくても、そこに存在して指揮者に従えばいいのです。
教会はキリストを頭にした一つの体です。
仲間たちと共に主を賛美しよう。
ヨシャファトには共に主を賛美する仲間たちがいました。
その賛美によって強大な敵を打ち破りました。
私たちがどんな状況に置かれるとしても、そこで仲間たちと共に主を見上げ、賛美をささげるのです。