受難4
死は勝利にのまれた
コリントの信徒への手紙一15:54-58
54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
3.11 圧倒的な悲劇
2011年3月11日午後2時46分、東北沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生、最大震度7を観測しました。
この巨大地震は文字通り日本列島全体を揺るがし、北海道から九州にかけて震度6弱から震度1の揺れが観測されました。
またこの地震によって大津波が発生し、太平洋沿岸を襲いました。海の水が引いたかと思うと黒々とした水が海岸に押し寄せ、堤防を乗り越え、川を逆上り、陸地に押し寄せます。まるで生き物のようにうごめく黒い水は、船を押し流し、車を押し流し、家を破壊し、町を壊滅させていきました。宮城県女川港では、14.8mの津波の痕跡が確認されています。仙台平野では海岸線から約5㎞内陸まで浸水しました。
この地震発生に伴い、福島第一原子力発電所では自動的に原子炉の稼働が停止されました。炉心は極度の高熱状態にあるため、非常用電源によって冷却材が送られるはずでした。しかしそこに大津波が襲います。防波堤を乗り越え、原発内に津波がなだれ込みました。そして非常用電源も失われます。その結果、炉心溶融(メルトダウン)が発生。水素爆発も置き、原発建屋が損壊します。そして大量の放射性物質が大気中に放出されました。付近の住民は強制的に退去させられました。
この地震、津波、原発事故によって1万8000人以上の方が命を落としたり行方不明になったりしました。関連死も含めると約2万2000人になります。
あれから10年。町は整備され復興は進んでいるかのように見えます。しかし今でも避難生活を送る方は、福島県を中心に4万人以上います。原発の問題は終わりが見えません。フクシマは汚染された地として世界に知られるようになりました。
あまりにも多くのものが失われました。その傷は時間が経っても癒えるものではありません。
この世界はそのような悲劇が圧倒的な勝利を納めているようです。死という問題は誰も避けられず、時に突然襲ってきます。
このような圧倒的な悲劇が襲い来るこの世界で、私たちはどのように生きることができるでしょうか。
朽ちるべき人間
人間とはむなしいものです。神は人のことを、鼻で息をしているだけの存在だと言います。
天地創造の6日目に、神は人を土の塵から形づくりました。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記2:7
その鼻には命の息、神の息吹が吹き込まれていました。
しかしアダムの罪によって人は呪われた者になってしまいました。
お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
創世記3:19
人は皆死にます。そして土に還ります。塵に過ぎない私たちは塵に返ります。私たちは朽ちるべき存在なのです。
一休さんというお坊さんのところに、ある人が訪ねてきました。子どもが生まれたので、祝福して欲しいと。
一休さんはこのような言葉を贈りました。
「父死ぬ。子死ぬ。孫死ぬ。」
子どもが生まれたのに何ということを言うのか?と思いますね。
人は皆、死ぬのです。死ぬために生まれたようなもの。それが早いか遅いかの違いしかない。父が死んで子どもが死んで孫が死ぬという順番ならいいでしょう。逆なら嫌です。
一休さんはこのように説明しました。
この世界には、死という問題に対してこのような答えしかありません。
死の力を破ったイエス
このような悲惨な世界に生きる私たちのところに、イエス様が来ました。神ご自身でありながら朽ちるべき肉の体を持って来ました。イエス様には罪に犯されていない完全な人間性があります。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書1:14
彼が私たちの罪を担い、十字架で死なれました。
しかし主はイエス様を復活させました。栄光の体、朽ちない体を持って。
これがイエス様の勝利です。イエス様は死の力を打ち破り復活しました。
最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。
コリントの信徒への手紙一15:47-48
イエスは主であると信じる私たちもキリストにつながりました。
それは聖霊の働きです。聖霊が私たちの内に住んでいます。
聖書のもとの言葉では、霊、風、息は同じ単語が使われています。
神の息吹が吹き込まれて土の塵が生きる者になったように、聖霊を受けた私たちは本当に生きる者とされました。
朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着ました。
こうして私たちは天に属するものとして、キリストのようになっていきます。
悲しみ嘆き労苦は過ぎ去る
私たちは洗礼を受けるとき、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられます。
私たちを束縛していた鎖は解かれました。
キリストによって、私たちは圧倒的な勝利者とされています。死が圧倒的な勝利をしていた時代はもう過ぎ去ったのです。
死はキリストの勝利にのみ込まれました。だからもう罪の軛につながれてはいけません。古い自分は死んだのです。
決して朽ちることのない栄光にあずかる希望を持って生きることができます。主が共にいます。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
ヨハネの黙示録21:3-4
この世界は悲惨です。私たちの人生を揺り動かす様々な問題、悲劇があります。
しかしイエス・キリストが帰って来るその時、もはや死はなく悲しみも嘆きも労苦もない神の国が完成します。
その日が来るまで私たちは涙を流さなければいけない労苦を経験します。
その涙はイエス様が拭ってくださいます。「よく頑張ったね、もう泣かなくてもよい」と。
その日まで主と共に歩みましょう。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、私たちは知っています。