民をあがなう大祭司の系図

歴代誌講解6

民をあがなう大祭司の系図

歴代誌 5:27-41

27 レビの子はゲルション、ケハト、メラリ。28 ケハトの子はアムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエル。29 アムラムの子はアロン、モーセ、ミリアム。アロンの子はナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。30 エルアザルにはピネハスが生まれ、ピネハスにはアビシュアが生まれ、31 アビシュアにはブキが生まれ、ブキにはウジが生まれ、32 ウジにはゼラフヤが生まれ、ゼラフヤにはメラヨトが生まれ、33 メラヨトにはアマルヤが生まれ、アマルヤにはアヒトブが生まれ、34 アヒトブにはツァドクが生まれ、ツァドクにはアヒマアツが生まれ、35 アヒマアツにはアザルヤが生まれ、アザルヤにはヨハナンが生まれ、36 ヨハナンにはアザルヤが生まれた。ソロモンがエルサレムに建てた神殿で祭司として仕えたのは、このアザルヤである。37 アザルヤにはアマルヤが生まれ、アマルヤにはアヒトブが生まれ、38 アヒトブにはツァドクが生まれ、ツァドクにはシャルムが生まれ、39 シャルムにはヒルキヤが生まれ、ヒルキヤにはアザルヤが生まれ、40 アザルヤにはセラヤが生まれ、セラヤにはヨツァダクが生まれた。41 主がネブカドネツァルの手によってユダとエルサレムの人々を捕囚として連れ去らせたとき、このヨツァダクも引いて行かれた。

家族の物語

 執事さんの家族の引越しがありました。荷物を運び出すために、何度か執事さんの家に伺いました。行くたびに荷物が整理され、広くなっていきます。その様子を見ながら、ここに家族の物語があったのだなと感じました。
 引越しをしたことがある方は、同じような経験をしたことがあるのではないでしょうか。家はただの建物ではありません。そこには家族の物語があります。賃貸住宅の場合は1世代か2世代の家族の物語があります。持ち家ならば、何世代もその地に住み続けてきた家族の歴史が刻まれているという場合もあります。
 苗字に家族の歴史が刻まれているという場合もあります。苗字に、住んでいた土地や仕事などの情報が刻まれているのです。
 家族の物語、家族の歴史に思いをはせてみるのはいかがでしょうか。

大祭司の系図

 今日の本文は大祭司の系図です。
 歴代誌の系図の中で、ユダ族、特にダビデの子孫の系図が重視されていることを見ました。ダビデの子孫の中からメシアが出るからです。
 ユダ族と並んで重視されているのが、レビ族です。
 レビ族は特殊な部族でした。彼らはイスラエルの12部族には属していません。レビ族として割り当てられた土地もありませんでした。代わりに彼らには神様のための奉仕が割り当てられていました。
 レビ族の中から祭司が立てられました。特にアロンの子孫は大祭司の働きを受け継いでいきました。

恵みによって神に仕える祭司

 レビはヤコブの三男でした。
 レビの子孫が祭司の働きをするようになったのは、レビがきよい人だったからではありません。むしろレビには暴力的なところがありました。
 レビは、妹のディナがシケムの若者にレイプされたことを聞きました。それで復讐のために、兄のシメオンと協力してシケムの男性を剣で皆殺しにしました。
 父親のヤコブは彼らがしたことを嘆きました。それで最期に息子たちを祝福するとき、シメオンとレビには呪いをかけています。それは、シメオンとレビはイスラエルの間に散らされるという呪いでした。

 レビの子孫たちが再び剣を取る時が来ます。それは出エジプトの時です。
 モーセがシナイ山に登って、神様から契約の板をいただいた時のことです。モーセは40日40夜、シナイ山にいました。その間、民はアロンに金の子牛の像を作らせ、それを礼拝していました。神様は怒り、民を滅ぼそうとしました。
 モーセは急いで山を下り、民が偶像崇拝する様子を見てブチ切れました。そして神様からいただいた契約の板を投げつけて砕いてしまいます。
 そして、主につく者は集まれと呼びかけます。そこで集まったのがレビ族でした。
 モーセは彼らに、自分の兄弟や友を剣で殺せと命じます。こうして3000人が殺されました。
 これで神の怒りは収まります。そして神の側につくことを選んだレビ人は、神様のための奉仕を担うことになったのです。

 イスラエルの民がカナンの地に入ったとき、シメオン族はユダの人々の間に住むことになりました。ヤコブの呪いの通りです。
 レビ族も土地の割り当てがありませんでしたが、各部族からレビ族のための町が贈られました。
 これもヤコブの言った通りになっていますが、レビ族には呪いが祝福に変えられています。

人間の弱さ足りなさをよく知っている大祭司

 レビ族が神様のための奉仕を担うようになったのは、このような経緯からでした。
 神様の側についたと言っても、自分の兄弟や友を殺しているわけです。暴力的で血生臭いです。よいことをしたとは言い難いです。
 だからレビ族が奉仕をするのは、決してレビ族がきよい民族だからではありません。よい行いをしてきたからでもありません。ただ神様の恵みです。
 金の子牛の像を作ったとき、アロンがその中心人物でした。
 アロンもモーセもレビ族です。だからモーセが兄弟や友を殺せとレビ族に命じたとき、兄のアロンこそ殺されるべきでした。
 しかしアロンは生き残ります。しかも金の子牛の像を作った責任も問われません。
 このアロンの子孫が大祭司を受け継いでいきます。
 大祭司こそ、自分の罪深さを知っています。もちろん自分をきよく保たなければなりません。それは決して自分の力ではなく、神様の恵みによらなければならないことを知っています。

 大祭司は民を代表する人です。新約の時代には大祭司がサンヘドリンという議会の議長を務めました。
 民を代表する人は、民のことをよく知っていなければなりません。一般庶民がどんな生活をしているのか。そのささやかな幸せも、日常の労苦も知っている人であるべきです。
 パンがなければお菓子を食べればいいじゃない、みたいなことを言う人は追放されます。雲の上の人のような生活をしていてはいけないのです。
 暴力的なこの世界で生きる人間の、悩み、痛み、悲しみ、弱さを知っているべきです。

暗闇から救い出された私たちも祭司

 聖書は、私たちも祭司だと言っています。

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

ペトロの手紙一2:9

 それは私たちが立派な家柄だからではありません。立派な行いをしたからではありません。
 むしろ暗闇の中にいたのです。そこからただ恵みにより救われました。
 私たちは恵みによって神に仕えることができます。そして同じく暗闇の中にいる人たちに、命の光を届けることができます。

あがない

 大祭司に与えられた特別な役割は、民を罪からあがなうことです。
 贖罪日という日がありました。1年に1度、至聖所に入っていけにえの血を流すという儀式が行われました。
 至聖所は、幕屋や神殿の一番奥の部屋です。神様の前に立つということです。
 大祭司は神の前に立ちます。だから聖なる存在でなければなりません。
 しかし大祭司もやはり罪人です。だから大祭司の行うあがないの儀式は不完全なものでした。それで大祭司によるあがないの儀式は、毎年繰り返さなければならなかったのです。

不完全な大祭司たち

 神の前に立つというのは恐ろしいことです。聖さが求められます。しかし大祭司たちは皆、不完全な人間でした。
 大祭司はアロンの子孫が受け継いでいきました。しかし順調に受け継がれていったわけではありません。
 アロンにはナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルという4人の息子たちがいました。順当に行けば、長男のナダブが大祭司になるべきです。しかし大祭司は三男のエルアザルが継ぎました。ナダブとアビフが神様にふさわしくない礼拝をささげたからです。大祭司の中には神の前に立つのにふさわしくない人たちもいたわけです。
 後にアロンの家系の大祭司は一度途絶え、エリの家系が担います。
 その後、ソロモンの時代にツァドクが大祭司になってアロンの子孫に戻ります。
 しかし捕囚が起こり、神殿も破壊されてしまいました。そこで再び途絶えます。
 捕囚から帰ってきた人たちによって神殿が再建され、また祭司が立てられるようになっていきます。しかしやがて大祭司はアロンの子孫と関係なくなり、政治的なものへと変化していってしまいました。

完全な大祭司イエス

 それでは、民の代表として罪をあがなうという大祭司の働きはどうなってしまったのでしょうか。
 本来ならば、毎年至聖所に入って血を流す儀式を行わなければなりません。
 しかし今はもう必要ありません。完了しているからです。
 イエス・キリストによって、私たちの罪の贖いは完全に永遠に成し遂げられています。

 大祭司は民の代表でなければなりません。人間の痛み、悩み、苦しみを知らなければなりません。それを最もよく知っているのがイエス・キリストです。
 彼は完全な人間でした。クリスマスの日、暗く冷たいところで生まれたイエス様は、田舎の貧しい一般庶民の間で育ちました。そして十字架につくとき、愛する弟子たちに裏切られ、嘲られ、鞭打たれました。
 イエス様は私たちの痛み、悩み、苦しみを知っています。

 それと同時に大祭司は、神の前に立つ聖い存在でなければなりません。罪があってはいけません。
 イエス様は全く罪がありませんでした。イエス様は神の子。三位一体の神ご自身であったからです。
 だからイエス・キリストこそ、完全な大祭司です。

 このお方が自ら十字架で血を流し死なれました。民の代表として、私たちすべての人の罪を背負い、あがないを成し遂げてくださいました。
 だからもう、2度と罪のあがないの儀式は必要ありません。
 私たちはこのイエス様を信じるとき、あがないを受け取ることができます。
 そして私たちもまた、祭司として神様の前に立つことができるのです。

15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

ヘブライ人への手紙4:15-16

 この大祭司というのが、イエス様です。
 イエス様によって私たちは必要な助けを受けて、大胆に神様の前に進み出ることができます。
 私たちが今日この場所に集まり礼拝をささげていること自体が神様からの恵みです。
 この暗闇の中、暴力的で血生臭い世界で生きる私たちの痛み、悩み、苦しみを神様は知っています。そのありのままの姿で神様の前に立つ恵みが与えられています。
 大胆に神様に求めましょう。こんな弱さがあります。こんな足りなさがあります。どうか助けてください。神様は本当に必要な助けを与えてくださいます。
 そして私たちは、神様の前に立つ祭司として、闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、今なお闇の中にいる人たちに伝えることができます。

 私たちの周りで、私たちの兄弟や友だちで罪の中にいる人たちに対して、私たちは再び剣を持ちます。その剣は彼らを打つためのものではありません。
 彼らを罪から、闇の世から、悪魔から引き離すために剣が与えられています。
 霊の剣、神の言葉です。
 私たちの周りの人たちのために立つ祭司として歩んでいきましょう。

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