民全体への良い知らせ

クリスマス礼拝

民全体への良い知らせ

ルカによる福音書 2:8-10

8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 良い知らせは羊飼いたちに伝えられた

 今日はクリスマス礼拝。子どもたちの賛美もあって素敵でした。
 ちょうどこの聖書の場面をうたっています。
 群れを見守る羊飼いに天から注ぐまばゆい光。
 そして「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」と天使のお告げを聞きます。

すべての人のための良い知らせ

カール・ブロッホ「羊飼いたちと御使い」

 羊飼いたちは町の外で野宿をしながら羊の群れを見守っていました。時間帯は夜です。
 その暗闇を切り裂くように光が射してきたらビックリしますよね。電灯なんかない時代です。雷でもない。

 その光の方を見ると誰かが立っていて「恐れるな」と言う。
 いやいや、恐れますよ。

 その人は続けて「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」と言います。
 この言葉もおかしいですよね。
 民全体とありますが、これはすべての民とも訳せます。世界中の皆です。
 この人は世界中の人に与えられる大きな喜びを告げている。
 真夜中に野原にいる羊飼いに。
 なぜ夜?
 なぜ野原で?
 なぜ羊飼いに?

いつどこで誰に良い知らせを伝えるか

 皆さんがより多くの人に良い知らせを伝えようと思ったらどうしますか。
 今ではテレビやインターネットなどのメディアを使うことができます。
 2000年前にそういうメディアはありませんでしたから、口コミで情報を伝えると考えてください。
 できるだけ多くの人が集まるような都市で伝えた方がいいでしょう。
 ちょうどダビデの町ベツレヘムには多くの人が来ており、身重の女性が泊まる部屋もないほどです。
 暗くなると寝てしまいますから、明るい昼間がいいでしょう。
 教養のある人や身分の高い人など、言葉に信ぴょう性や影響力がある人ならさらに多くの人に伝えられそうです。

羊飼いの言葉は信用されなかった

 真夜中に野原にいる羊飼いに伝えるというのは、マーケティングに失敗しているのではないでしょうか。
 だって羊飼いですよ。いや、羊飼いも立派な職業です。しかしこの当時はあまり尊重されていませんでした。教養がある人たちとは思われていなかったし、身分は決して高くない。町の外側で暮らす人たちです。
 彼らに良い知らせを伝えたとして、そこから広がるでしょうか。
 羊飼いの言うことは、あまり信用されなかったのです。
 かつてアモスという預言者がいました。彼も羊飼いでした。
 祭司アマツヤはアモスを通して語られる主の言葉を拒み、アモスを追い返そうとします。

力のある人に情報を伝えても民に広まるかわからない

 しかし教養のある人や身分の高い人など力のある人に情報を伝えたらどうなりますか。

 夏にジュビロ磐田がサッカーの試合に浜松の小中学生を無料で招待してくれました。
 学校で配布されるチラシから、チケットの予約ができます。いい情報をもらいました。
 それで息子に聞いてみましたが、学校でそんなプリントはもらっていないと。
 一週間たってももらっていない。もう夏休みに入ってしまいます。
 おかしいなと思いつつ、面談のために学校に行きました。
 すると昇降口の机の上に「ご自由にお取りください」と張り紙が。
 こういうの大好き。
 何かいいものあるかなと思って見てみると、あのジュビロのチラシが。やっと見つけた!
 ところが申込期限が過ぎていて、チケットは取れませんでした。

 誰かを非難しているわけではありません。
 どの情報をどこまで伝えるかは学校の裁量です。
 だから力のある人に良い知らせを伝えても、それが一般民衆まで広がるかどうかはわかりません。
 親や大名が福音を聞き、その家族や領民も救われた例もあります。
 しかし中世の教会のようにラテン語が読める司祭たちしか福音を聞けないようにしたこともありました。
 ヘロデ大王のように権力者に不都合な情報は消されそうになることもあります。

 だから民全体への良い知らせを羊飼いに伝えたことも、神の計画の内でした。
 こうして私たちも良い知らせを聞くことができています。

自分が出会った救い主を知らせる

信じがたい話

 羊飼いたちが聞いた良い知らせの内容は「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」ということでした。
 ユダヤ人が何百年も待ち望んでいたダビデの子、メシアが来たというのです。
 本当でしょうか。
 どうやら声の主は、神様からのメッセージを伝える天使のようです。
 しかし本当に天使でしょうか。
 真夜中に光に照らされるという状況も現実とは思えないし、話の内容も信じがたい。

 すると天使らしき人は言います。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 見つけるであろうって。探しに行けってこと?自分の目で確かめてみろと。

 メシアが来た証拠は、飼葉桶の中の赤ちゃん。
 飼葉桶って何か知ってる?
 家畜がエサを食べるところですよ。
 動物のよだれがついて臭くて汚い。
 しかもこの時代は石で作られていたらしい。
 そんなところに赤ちゃんを寝かせるなんてあり得ない。
 もしこの人の言う通りなら、メシアが来られたというのも本当かもしれない。

天使が告げた出来事を見に行く

 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しました。栄光が高いところにおられる神にあるように。グローリア インエクセルシス デオ。

 そして天使たちは去っていきました。
 再び静かな夜に戻ります。

 …どうする?
 自分たちの見たこと、聞いたことに興奮しています。
 このまま野原にいられる?

ルーベンス「羊飼いの礼拝」

 一人が言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」
 じっとしていられません。
 急いでベツレヘムに行きました。
 そしてマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。

 いや、ここの展開早すぎ。
 宿屋を探したけど見つからず、真夜中にうるさいと怒鳴られ、一匹の羊がいなくなって、町の人たちを巻き込んで大捜索、とかあったでしょう。
 でも羊飼いたちの話はどうでもいいのです。
 大事なのは、天使たちの言ったことは本当だったということです。
 本当に飼葉桶の中に赤ちゃんがいる!
 こんな状況で赤ちゃんを産むなんて、マリアさん大変でしたね。
 ということは、この子が約束された救い主、メシア、キリストか。

本当かどうか確かめてみる

 羊飼いたちは一緒に探しに来てくれた町の人たちに、天使が伝えてくれたことを話しました。
 人々は不思議に思いました。まあ、話の内容も不思議だし、羊飼いの話というのはどうも信ぴょう性に欠ける。
 しかしマリアは心に納め思い巡らしていました。

 羊飼いやマリアの姿に、信仰の模範を見ます。
 「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」
 天使たちが「見つけるであろう」と言ったんだから、見つかるでしょう。
 このように、聞いた話が本当かどうか確かめてみることは大事です。
 べレアの町の人たちは、パウロから聞いた福音が本当かどうか、聖書をよく読んで確かめました。
 教えられたことを鵜呑みにするのは信仰ではなく、妄信です。

 先週私は照り焼きチキンを作りました。
 いつもの作り方があったのですが、気合を入れてもうひと手間かけることにしました。「専門店のレシピ」なるものをネットで見つけたのです。
 これはうまそう!と思って作ったら、よくわからない味の茶色い肉の塊ができました。
 ネットの情報を鵜呑みにせず、先に確かめてみたらよかったです。
 先週よくわからない肉の塊を食べさせられた方、すみません。

思い巡らす

 聖書を読んでもわからないこと、引っかかることもありますよね。
 私たちは自分に理解できる範囲で答えを出そうとしたり、わからないまま放置したりします。
 マリアのように思い巡らしてみてください。
 するとふとした瞬間に、答えがわかることがあります。

 エマオ村に向かった2人の弟子は、イエス様の十字架の死が理解できませんでした。
 婦人たちから「イエスは生きておられる」と聞きました。
 このことを話し合っていると、見知らぬ人が会話に入ってきて、メシアが苦しみを受けて栄光に入ると、聖書全体から説き明かしてくれました。
 そして村について夕食の席でパンを裂いたとき、この人が復活したイエス様だったと気付きました。
 イエス様の霊、聖霊は私たちと共にいて、私たちが真理の言葉を理解できるように助けてくれます。
 神様の恵みは私たちの日常の中に満ちあふれています。

自分が出会ったイエスを伝える

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

 この喜びの知らせは私たちにも伝えられています。
 今日このとき、この町に、救いが訪れた。
 神の子イエスが人となり、私たちの間に住まわれた。
 そして私たちを罪から救うために十字架で死なれ、復活された。
 この方を信じるとき、私たちは新しい命に生かされる。

 本当だろうか。
 確かめてみてください。聖書をよく読んでみてください。
 日常の中で思い巡らしてみてください。
 すると「イエスは生きておられる」とわかるでしょう。
 こうして自分自身が出会ったイエス様を証ししてください。
 聖霊の力によって、私たちはキリストの復活の証人になります。
 そして私たちを通して地の果てまで、すべての民がこの良い知らせを受けることを神様は願っています。

 クリスマスの喜びが皆さんを通して、皆さんの家庭に、友人に、職場に、この町に満ちあふれることを願います。

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