永遠の一致

エゼキエル書講解48

永遠の一致

エゼキエル書 37:15-28

15 主の言葉がわたしに臨んだ。16 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書き記しなさい。17 それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。18 あなたの民の子らがあなたに向かって、『これらはあなたにとって何を意味するのか告げてくれないか』と言うとき、19 彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはエフライムの手の中にあるヨセフの木、およびそれと結ばれたイスラエルの諸部族を取り、それをユダの木につないで一本の木とする。それらはわたしの手の中で一つとなる。20 あなたがその上に書き記した木は、彼らの目の前であなたの手にある。21 そこで、彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。22 わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に分かれることはない。23 彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。24 わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。25 彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。27 わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。28 わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」

命の源につながる

 昨日は教会の大掃除をしました。礼拝堂の床がピカピカになっています。階段もスッキリしました。
 掃除を手伝ってくれた皆さん、ありがとうございました。
 そしてこの1年間、礼拝する場所を与えてくださった主に感謝します。

 掃除をするときに掃除機を使いますね。この床を磨くときにはポリッシャーという機械を借りました。2階の床はスチームの雑巾で拭きました。こういう機械のおかげできれいにできます。
 しかしこれらの機械は電気がなければ動きません。電源につながっていて初めてその本当の力を発揮することができます。

 先週は枯れた骨の復活の話をしました。人も命の源につながることで生きる者になり、自分の足で立つことができます。
 私たちには、つながるべきものがあります。

神の手の中で一つになるイスラエル

 今日の本文はイスラエルが神の手の中で一つの民になるという約束が語られる場面です。
 イスラエルの全家は国を失い、絶望の谷底にいました。
 主は2つの木を1つにつなげることを通して、イスラエルの回復を約束します。
 世界中に散らされたイスラエルの民は約束の地に帰り、ダビデの子が永遠に治め、神殿が建て直されます。
 この約束は今、私たちに対して語られる神様からのラブレターです。

キリストにつながる

 まず今日の本文の15節から19節で『15 主の言葉がわたしに臨んだ。16 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書き記しなさい。17 それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。18 あなたの民の子らがあなたに向かって、『これらはあなたにとって何を意味するのか告げてくれないか』と言うとき、19 彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはエフライムの手の中にあるヨセフの木、およびそれと結ばれたイスラエルの諸部族を取り、それをユダの木につないで一本の木とする。それらはわたしの手の中で一つとなる。』 とあります。
 キリストにつながることが私たちの命です。

ユダの木

 主はエゼキエルに、1本の木を取り、『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書かせました。
 ユダ族と言えばイスラエルの12部族の中で王権を受け継いだ部族です。
 ユダ族の中からイスラエルを代表する王が出ました。ダビデです。
 ダビデの後、息子のソロモン、孫のレハブアムという形で王位が継承されました。
 レハブアムの時代にイスラエル王国は分裂しますが、南ユダ王国はダビデの子が王になり続けました。
 南ユダ王国にはベニヤミン族も住んでいました。

 また主は別の木を取り、『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書かせました。
 エフライムはヨセフの子でした。ヤコブはヨセフの二人の息子マナセとエフライムを自分の養子にし、エフライムに長子の祝福を与えました。
 エフライム族のヨシュアがリーダーだったとき、ヤコブが住んでいたシケムはエフライム族に割り当てられました。
 レハブアム王の時代にエフライム族のヤロブアムがイスラエルの10部族を率いて独立し、北イスラエル王国を建てました。こうしてもともと1つだったイスラエルの民は、ユダとエフライムの間で南北に分けられてしまったのです。

 主はエゼキエルに、ユダの木とエフライムの木を近づけて一つにしなさいと言います。
 どうつなげましょうか。
 直列(--)?
 並列(=)?
 直交(+)?

 これは民の見ているところで行われました。
 人々は疑問に思いますよね。エゼキエルさん、また何か始めたよ。そして『これらはあなたにとって何を意味するのか告げてくれないか』と聞くでしょう。
 こういう質問が出ることは想定内です。主はその答えも準備しています。
 つまり主がイスラエルの10部族を取り、ユダの木につなぐのです。
 バラバラに散らされたイスラエルの民を、主がその御手の中で一つにします。

 主はただエフライムとユダをつなげると言ったのではなく、ユダの木につなげると言いました。
 対等な関係ではなく、ユダが主体です。
 ユダ族から出る王、ダビデの子につなげるのです。
 つまりメシア、イエス・キリストにおいてイスラエルが一つになると主は約束します。

オリーブの木

 木をつなげるという話は新約聖書にも出てきます。
 パウロはローマの信徒への手紙11章でオリーブの木の話をしました。栽培種のオリーブと野生のオリーブが出てきます。
 栽培種のオリーブとは、主がカルデアのウルから導き出しカナンの地に住まわせたアブラハムの子孫、イスラエル人のことです。
 野生のオリーブは異邦人です。
 パウロは、神の憐れみによって野生のオリーブの枝が栽培種のオリーブの木に接ぎ木されたのだと言います。
 こうして異邦人である私たちもキリストにつながる道が開かれているということです。

ぶどうの木

 キリストにつながるというのはぶどうの木と枝のようなものです。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

ヨハネによる福音書15:5

 ぶどうの木の特徴は、どこまでが幹でどこからが枝か区別ができないことです。木と枝は一体になっているのです。
 そして木につながっている枝は実を結びます。

 私たちはあの木につながって、死にました。罪の奴隷だった古い自分はもうキリストと共に死んだのです。
 そしてキリストにつながった私たちは、復活のキリストと共に新しい命に生かされています。
 私たち自身は正しく生きる力がありません。しかしキリストは律法の要求を全て満たしました。だからキリストにつながる私たちは、既に義と認められています。
 そして愛の実をむすぶ人生へ、栄光から栄光へキリストの似姿に変えられていきます。
 だから私たちは、キリストにつながって初めて生きることができます。
 キリストにつながるとき、本当に人間らしく生きることができます。

キリストの統治

 次に今日の本文の20節から25節に『20 あなたがその上に書き記した木は、彼らの目の前であなたの手にある。21 そこで、彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。22 わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に分かれることはない。23 彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。24 わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。25 彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。』 とあります。
 私たちはキリストを頭とする一つの体です。

国々から集める

 現実的に捕囚になっている民の目の前でエゼキエルはこのパフォーマンスをしました。視覚的に主の約束を見せます。
 確かにこの通り、主がその民を国々の中から集め、一つにするよ。地の果てからも呼び集めるよ。
 たとえ絶望の谷底で枯れた骨のようになっていても、主はそこから立ち上がらせるよ。
 私たちがどんな状況にいても、主はそこから私たちを導き出します。
 起きなさい、立ち上がりなさい、出てきなさい、私のところに来なさい。
 主は今日も私たちを招いています。

一つの国

 主はイスラエルの山々で民を一つの国にすると約束しています。
 ダビデの子である一人の王が永遠の支配者になります。

 今、世界にはいろいろな隔ての壁があります。
 北緯38度線で1つの民族、1つの半島が分断されています。
 グアテマラから大勢の移民がアメリカを目指していますが、アメリカはメキシコとの国境の警備を強化し、壁を作って分断しようとしています。
 日本に大勢の外国人実習生が来ていますが、半年で4000人が失踪しました。日本人とは違う差別的な待遇やいじめがあり、その過酷さに耐えられず逃げ出して他の仕事を探すのです。中には自殺を図った人もいます。
 日本人の作る見えない壁によって苦しめられている少数者の数は少なくありません。

 何より私たちは神との間に深い断絶がありました。
 それは私たちの罪のためです。
 私たち自身が神に従うことを拒み、神から離れて行きました。
 そして罪の奴隷となりました。
 律法によって罪を示され、律法という軛を負って苦しめられていました。

 神と民との断絶を視覚的に現わしていたのが臨在の幕屋です。
 神はイスラエルの民の中に幕屋を張って住みました。
 しかし主と出会うことができる至聖所は、垂れ幕によって隔てられていました。
 民は罪のために神に近づくことができませんでした。

 この幕はキリストが十字架で死なれたとき、上から下まで真っ二つに裂けました。
 それはキリストの血潮によって私たちの罪が完全に永遠に取り除かれたからです。
 私たちは神と和解しました。
 そして十字架の血潮はあらゆる隔ての壁を壊します。

14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

エフェソの信徒への手紙2:14-16

 私たちはキリストを頭とする一つの体です。
 年齢、性別、国籍、民族、言語、あらゆる違いを越えて一つになっています。

牧者が養う

 キリストはよい羊飼いとして私たちを養います。

 私たちの周りには疲れている人たちがいます。休みが必要です。
 休み方にもコツがあります。ただ寝ているだけだと逆に疲れます。
 少し体を動かしたり、遠くに出かけたりすることでリフレッシュできます。

 休み方を一番よく知っているのは誰でしょうか。
 世界で一番最初に休んだのは神です。
 イエス・キリストと弟子たちはとても忙しかったですが、キリストは弟子たちに、休みなさいと命じています。
 イエス・キリストは休みを大事にする神です。休みを提供する神です。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタイによる福音書11:28

 イエス・キリストはこのように招いています。
 イエス・キリストは祈りで一日を始めました。
 神との関係が、今日働く力を与えます。
 キリストにつながるとき、キリストの軛を負うとき、私たちは力づけられます。
 自分の力で立つのではありません。聖霊の力によって自分の足で立つのです。
 私たちは共に一つの体として、共に立ち上がります。 

インマヌエルの神

 最後に今日の本文の26節から28節に『26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。27 わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。28 わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」』 とあります。
 人々はキリストにつながった私たちを見て、主がそこにおられると知るようになります。

平和の契約

 私たちはキリストを仲介者として神と平和の契約を結びました。
 契約には義務があります。神は人に永遠の命を与えます。
 人は神に従わなければなりませんでしたが、その力がありません。
 契約違反の刑罰は死です。
 だから人は死ぬべき存在でしたが、キリストが代わりに死にました。
 そして人が守らなければならなかった律法は、キリストが全て満たしてくださいました。
 だから人に残されている義務はただ一つ。イエス・キリストを主と信じることです。
 私たちは神との間に平和を得ています。

共に住む

 平和と言うとどのような光景を思い浮かべるでしょうか。
 狼と羊が共に住む。
 ジョージアの赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつく。子どもたちが肌の色によってではなく人格そのものによって評価される国に住む。あらゆる壁がなくなり、共に住む。
 このように共に住むことができれば、平和を実感するでしょう。
 かつてノーベル平和賞を受賞したキング牧師はこのようなアメリカを夢見ていました。

 神は私たちの間に住むと約束しています。
 言は肉となって私たちの間に宿られた。
 ヨハネによる福音書1:14で約束されたこの言葉には、神がテントを張って共に住むという表現が使われています。

主がそこにおられる

 神は私たちの間にいるのです。
 主の名によって集まるところにキリストも共にいます。
 この教会という建物の中にもキリストがいます。
 ここだけではありません。家でも職場でも学校でも、私たちが集まるところにキリストは共にいます。
 もし生活の現場の周りにクリスチャンがいなければ、求めましょう、探してみましょう。求めれば与えられます。探せば見つかります。
 そしてこの町に、キリストが住みます。
 だからこの地に神の国が臨みます。

 さらに私たちの内にキリストが共に住みます。
 私たち自身が神殿です。
 イエス・キリストはインマヌエルの神。共にいる神です。

 イスラエルの人々にとって、国の回復とは神殿の再建と同じことでした。
 エゼキエル書はこの少し後から神殿の回復の話に入ります。
 ここで語られる神殿はハガイやゼカリヤの時代に立てられた第2神殿とは規模が全く違うものです。この約束はまだ成就していないわけです。
 神の約束は必ず成就します。いつ成就するのか。神の国の完成形を見せていると言えます。黙示録で描かれた新しいエルサレムにつながっていきます。
 それは私たちを通して成し遂げられます。

 エゼキエル書の最後はこの言葉で閉じています。
 『この都の名は「主がそこにおられる」と言われる』
  人々は私たちを見て、主に出会います。
 私たちを通して、主がここにおられることを知り、主の栄光を見るのです。

 キリストにつながることが私たちの命です。
 一つの体として互いに愛し合うとき、主がここにいることを人々は知ります。

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