汚れの中にいる民

エゼキエル書講解6

汚れの中にいる民

エゼキエル書 4:9-17

9 あなたは小麦、大麦、そら豆、ひら豆、きび、裸麦を取って、一つの器に入れ、パンを作りなさい。あなたが脇を下にして横たわっている日数、つまり三百九十日間、それを食べなさい。10 あなたの食べる食物の分量は一日につき二十シェケルで、それを一定の間隔をおいて食べなければならない。11 あなたの飲む水の分量は六分の一ヒンで、それを一定の間隔をおいて飲まなければならない。12 大麦のパン菓子のようにそれを食べなければならない。それを人々の目の前で人糞で焼きなさい。13 更に主は言われた。「このようにイスラエルの人々はわたしが追いやる先の国々で、汚れたパンを食べる。」14 そこで、わたしは言った。「ああ、主なる神よ、わたしはわが身を汚したことがありません。若いころから今に至るまで、死んだ動物や、野獣が引き裂いた動物の肉を食べたことはなく、定められた日数を過ぎたいけにえの肉を口に入れたこともありません。」15 主はわたしに言われた。「あなたが人糞の代わりに牛糞を用いることをわたしは許す。あなたはその上でパンを焼くがよい。」16 また、主はわたしに言われた。「人の子よ、わたしはエルサレムのパンをつるして蓄える棒を折る。彼らはおびえながらパンの目方を量って食べ、硬直した様で水を升で量って飲むようになる。17 彼らは罪のゆえにパンにも水にも事欠き、やせ衰えて、互いに恐れに取りつかれる。」

汚れたパンを食べなければならない現実

ディートリヒ・ボンヘッファー

 人を殺すことは悪いことです。皆知っています。
 人を殺す計画を立てていた牧師がいたとしたら、どう思いますか。
 そのような牧師は悪い牧師だ、そんな牧師の言うことは聞いてはいけないと思うかもしれません。ところがその牧師の神学は今も大きな影響力を持っています。ドイツ人の牧師、ディートリヒ・ボンヘッファーという人です。
 ボンヘッファーは第二次世界大戦の時代に活躍した牧師です。
 ナチ党が政権を握り、ヒトラーが総統に就任しました。ボンヘッファーはヒトラーの危険性をいち早く察知し、ラジオ放送などで彼の危険性を訴えていました。ドイツの多くの教会がヒトラーに従う中、ただ神に従うことを告白する牧師たちによる告白教会の設立にも協力します。
 ヒトラーに支配されていたその時代、何もしないでいることは大きな罪を犯すことでした。たくさんのユダヤ人や心を病んだ人たちが殺されていくのを知りながら、見殺しにすることになる。
 そのような時代に、ヒトラーに反対する黒いオーケストラと呼ばれる組織が結成されます。黒いオーケストラはヒトラーの暗殺を計画しますが、失敗します。そして多くの関係者が逮捕され、処刑されました。
 黒いオーケストラの関係者を捜索する中で、ボンヘッファーも関与していることがわかりました。
 ボンヘッファーは既にユダヤ人の亡命を援助したために逮捕されていたので、暗殺には直接参加してはいませんでした。しかし数日後、ボンヘッファーは死刑判決を受け、処刑されました。
 牧師がなぜ人を殺す計画に関与していたかわかりましたか。
 もちろんボンヘッファーは殺人が善になると言っているわけではありません。
 私たちは汚れの中にいます。
 ルターも奴隷意思論という本の中で語っています。人間には自由意思があるが、罪に支配された選択肢しかない。罪のリストの中から、大きな罪や小さな罪の中から自由に選べるだけ。
 だとしたら大きな罪を避けるために小さな罪を犯すことも赦される。大きな罪を避けるために、汚れたパンを食べることもあるのです。
 これが私たちの罪のために壊れたこの世界の現実です。

汚れたパンを食べよという主の命令

 今日の本文は主がエゼキエルに汚れたパンを食べるように命じる場面です。
 主は定めた分量のパンを毎日食べるように命じます。しかし捕囚の生活で材料を確保することは簡単ではありません。
 主はそのパンを人糞で焼くように命じます。それはパンを汚すことでした。エゼキエルは主の命令に反した汚れたパンを食べるようにと、主から命じられたのです。
 エゼキエルたちは汚れの中にいる民です。汚れたパンを食べなければならない状況にいます。それはパンのために互いに争うことを避けるために犯す罪です。
 そのような状況で主はエゼキエルの祈りに答え、牛糞でパンを焼くことを許しました。
 今日の本文を通して、汚れの中にいる私たちの現実、パンのために争うような醜い罪、その中で主が助けの手を差し伸べてくださる希望を持つ私たちとなることを期待します。

汚れたパンを食べる

 まず今日の本文の9節から13節で『9 あなたは小麦、大麦、そら豆、ひら豆、きび、裸麦を取って、一つの器に入れ、パンを作りなさい。あなたが脇を下にして横たわっている日数、つまり三百九十日間、それを食べなさい。10 あなたの食べる食物の分量は一日につき二十シェケルで、それを一定の間隔をおいて食べなければならない。11 あなたの飲む水の分量は六分の一ヒンで、それを一定の間隔をおいて飲まなければならない。12 大麦のパン菓子のようにそれを食べなければならない。それを人々の目の前で人糞で焼きなさい。13 更に主は言われた。「このようにイスラエルの人々はわたしが追いやる先の国々で、汚れたパンを食べる。」』 とあります。
 私たちは汚れの中で汚れたパンを食べるしかありません。

定められた分量

 主はエゼキエルに『小麦、大麦、そら豆、ひら豆、きび、裸麦を取って、一つの器に入れ、パンを作りなさい。』と命じました。たくさんの材料が必要です。
 それを390日間食べ続けるように命じました。毎日食べる量を確保しなければなりません。
 主はさらに分量を指定しました。パンは一日20シェケル。1シェケルは約11.4gなので、20シェケルは約228gです。食パン1斤が約340gなので、6枚切り食パンの4枚分に相当します。大人が一日で食べるにはもの足りない感じもしますが、捕囚中に食べるとしたら結構な量ですね。水は6分の1ヒンです。1ヒンは約3.8lなので、6分の1ヒンは約600mlです。ペットボトル1本より多いです。健康的な生活を送りたければもっと欲しいですが、文句は言えない量です。
 主はこれを食べなければならないと命じました。これだけ食べれるんだと考えれば満足できます。捕囚中だということを考えれば、これだけの材料と水を毎日確保できるのかと不安になってきます。

人糞で焼く

 主はエゼキエルの心をさらに惑わせることを命じました。このパンを人糞で焼くように命じました。
 人糞が何かわかりますか。
 うんこです。うんこを燃料にしてパンを焼けというのです。
 どんな香りのパンができるでしょうか。
 そんなパンは食べたくないですね。
 律法に照らしてみても、これは汚れた行為であって、パンも汚れてしまうことになりました。それを主ご自身が命じるのです。
 毎日、人々の目の前で、うんこでパンを焼いて食べなさいと。
 神さまがどうしてこのようなことを命じるのでしょうか。
 そもそも聖書にうんこの話が書いてあっていいのでしょうか。

 実は聖書にうんこの話が書いてあるから救われたという人もいます。
 元ヤクザの牧師、進藤龍也先生は若い頃に刑務所に入りました。
 そこで差し入れされた聖書を読んでみました。パラパラとめくってみると、たまたまエゼキエル書が開きました。
 最初の方は意味がわかりませんでしたが、4章のところに引っかかる単語がありました。
 「人糞?あー、うんこのことか。この本にはうんこのことが書いてあるのか!」
 それでエゼキエル書が面白くなり、どんどん読んでいきました。そして

わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ。お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

エゼキエル書33:11

 という御言葉で回心したそうです。
 聖書にうんこの話が書いてあるから救われる人もいる。神は偉大です。

罪の中で生きるしかない

 エゼキエルが置かれた状況は絶体絶命の状況です。
 390日の間、横たわっていなければならない。人々から嘲られようが何をされようが、耐えるしかない。
 それだけでも辛いのに、毎日食べるパンの材料と水を確保しなければならない。捕囚の状況でどうやってそれを確保できるのか。
 そしてそのパンは人々の目の前でうんこで焼く。
 こんな生活、どうして耐えられるでしょうか。逃げ出したくなるでしょう。
 もし逃げ出してしまったなら、エゼキエルは主の命令に背くことになる。
 もはやエゼキエルは汚れたパンを食べるしかありません。
 私たちが生きている現実とはこのようなものです。私たちの選択肢は罪しかない。

 こういう思考実験を聞いたことがあるでしょうか。
 炭鉱の中でトロッコが走っている。先のトンネルでは5人が作業をしている。ポイントを切り替えてトロッコを別のトンネルに行かせることもできる。しかしそこにも1人いる。あなたはそのまま見過ごして5人を事故で死なせますか。それともポイントを操作して1人を殺しますか。
 できればそんなことは考えたくないです。
 それでも私たちは日々決断しなければなりません。
 神様に従うことが家族を悲しませることになるかもしれない。友達をがっかりさせることもあるかもしれない。職場の同僚に負担をかけることになるかもしれない。
 全ての人が幸せになるような選択肢はないのか。絶対的な善を選択することはできないのか。
 残念ながら人間の力で善を選択することはできません。

わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。

ローマの信徒への手紙7:18

 パウロが言うように、私たちの内に善はありません。
 この人間の現実、汚れの中にいる民だということを知る必要があります。

パンのために争う

 また今日の本文の16節17節で『16 また、主はわたしに言われた。「人の子よ、わたしはエルサレムのパンをつるして蓄える棒を折る。彼らはおびえながらパンの目方を量って食べ、硬直した様で水を升で量って飲むようになる。17 彼らは罪のゆえにパンにも水にも事欠き、やせ衰えて、互いに恐れに取りつかれる。」』とあります。
 この世界の現実は私たちの罪の結果です。

蓄える棒が折れる

 主がエゼキエルにこう命じているのは、エルサレムの置かれた現実を見せるためでした。
 エルサレムはバビロンによって包囲される。そうすると物資が入らなくなり、エルサレムでは食べ物がなくなる。そして人々は汚れたパンを食べるしかなくなるというのです。
 主はエルサレムのパンをつるして蓄える棒を折ると言われます。
 食料を蓄えることができなくなる。そうすると毎日の食べ物のことが心配になります。今日は何とか食べ物を確保した。しかし明日はどうなるかわからない。
 明日がどうなるかわからない生活を送るとしたらどうですか。明日も生きていけるかわからないという生活です。

三浦綾子「海嶺」(角川文庫)

 三浦綾子さんの海嶺という小説があります。
 19世紀、愛知県の知多半島から江戸に向かった船が嵐にあって漂流し、3人がアメリカに漂着する。それからイギリスの助けでモリソン号という船で日本に向かうが、日本は大砲を打って追い払う。日本から追い払われた3人の日本人はイエス・キリストに出会い、聖書の日本語訳に協力するという話です。
 これは実際にあった話が元になっています。
 最初に日本を出たときには16人が乗っていました。それが1年2ヶ月も漂流する中で一人、また一人と死んでいきます。
 何もない海の真ん中で、仲間が死んでいく様子を見る。
 次は自分の番かと不安が襲います。
 ある船乗りはとうとう心を病んでしまい、他の船乗りを道連れにして海に飛び込み、死んでしまいました。
 明日がわからないという不安は私たちを殺します。

おびえながらパンを食べる

 私たちは不安に襲われると、まず自分の生存欲求を満たそうとします。自分が食べる物、飲む物を確保するのに必死になります。
 いつ誰に奪われるかわからない。おびえながらパンを食べ、硬直して水を飲む。
 全然楽しくなさそうだし、おいしくなさそうです。
 不安は生きる喜びを奪います。

互いに恐れる

 これは私たちの罪のためであると主は言われます。
 私たちの罪のために、私たちは不安になる。そして互いに恐れに取りつかれるようになる。
 互いに恐れるとどうなるでしょうか。敵になります。
 隣の人は自分のパンを奪おうとしているのではないか。あそこの家の人はたくさんのパンを持っている。ずるい。少しくらい奪ったっていいだろう。
 こうして互いに争うようになっていきます。
 これは私たちの世界です。私たちは互いに敵対している。疑いの目で見てしまう。国と国との間も互いに恐れ、いつ何が起きてもおかしくない緊張状態が続いている。
 これを取り除くには基本的な平安が必要です。大丈夫だよ、愛されているよ、受け入れられているよという基本的な平安が保障されていることが必要です。
 私たちの平安を保障するものは何でしょうか。
 私たちが神様の定めた基準を満たすことでしょうか。正しい行いをすれば平安でしょうか。きれいなパンを食べることができれば平安でしょうか。
 そのような行いも十分に満たされれば平安を感じるでしょう。しかしそれは一時的なものです。基準に満たなければ不安になり、お腹が空けば不安になります。それは条件付きの平安です。
 私たちに必要なのは無条件の平安です。無条件に愛されているよという平安です。
 残念ながら罪のために壊れたこの世に、そのような都合のいいものはありません。
 世が与える平安は私たちの不安を解消せず、偶像になるだけです。
 本当の平安はただ神から来ます。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

ヨハネによる福音書14:27

 たとえあなたが定められたパンを食べられなくても、たとえあなたが汚れたパンを食べようとも、あなたは愛されているよと神が言われるならどうでしょうか。
 もう自分のパンを確保することに必死にならなくてもいいです。汚れたパンだって食べられます。
 罪のために神から離れているこの世の現実は、不安と恐れに満ちています。
 その中で私たちは神の無条件の愛の中で生きる平安が約束されています。

祈りに答える神

 最後に今日の本文の14節15節で『14 そこで、わたしは言った。「ああ、主なる神よ、わたしはわが身を汚したことがありません。若いころから今に至るまで、死んだ動物や、野獣が引き裂いた動物の肉を食べたことはなく、定められた日数を過ぎたいけにえの肉を口に入れたこともありません。」15 主はわたしに言われた。「あなたが人糞の代わりに牛糞を用いることをわたしは許す。あなたはその上でパンを焼くがよい。」』 とあります。
 私たちが生きる道は神が開きます。

死肉を食べたことはない

 エゼキエルは汚れたパンを食べなければならない絶望的な状況に陥り、主に訴えました。
 「ああ、主なる神よ、わたしはわが身を汚したことがありません。若いころから今に至るまで、死んだ動物や、野獣が引き裂いた動物の肉を食べたことはなく、定められた日数を過ぎたいけにえの肉を口に入れたこともありません。」
 主はパンの話をしているのに、エゼキエルは肉の話をしています。何の話をしているのでしょうか。あまりの絶望におかしくなってしまったのでしょうか。
 エゼキエルが言いたいことは、今まで汚れた物は口にしたことがないということです。
 祭司の息子として祭司の訓練を受けてきたエゼキエルは、清く生きることに誰よりも心を配ってきました。
 そのようなエゼキエルにとって、人糞で焼いて汚れたパンを食べることは耐えられないことでした。
 そこで主に訴えたのです。「主よ、嫌です。そんなもの食べたくないです。」と。

牛糞を使ってよい

 主はエゼキエルの祈りに答え、人糞の代わりに牛糞を用いることを許すと言われました。人のうんこじゃなくて牛のうんこで焼きなさいということです。
 私たちにとっては、牛のうんこも嫌ですね。しかし当時の人々にとって牛糞は一般的に用いられた燃料でした。
 普通のパンを食べる道が開かれたのです。

神が道を拓く

 私たちには罪のリストの中で選ぶ自由しかありません。
 しかし神が道を開いてくださるなら、私たちは善を選ぶことができます。
 どんなことでも正直に祈っていいです。嫌です。苦しいです。主は聞いてくださいます。
 きれいな言葉で祈れないときもあるでしょう。

 KGK総主事の大嶋重徳先生の奥さんは最初の子を妊娠したとき、緊張しながら近所の産婦人科を受診しました。
 看護師さんから色々と聞かれますが、緊張のあまりよく答えられません。それで怒られてしまいます。
 さらに診察室に入ると医師からまず「産みますか?おろしますか?」と冷たく言われます。
 さらにエコー検査をしても赤ちゃんの姿が映らない。「もしかしたら子宮外妊娠かもしれない。そしたら大変だ。」
 どんどん不安が増していきます。
 その夜、奥さんは「ひどい、ひどい。神様、あの院長ひどい!」と正直に祈りました。
 大嶋先生も本当に正直に祈る人だなと驚いたそうです。
 その祈りの後、母に勧められて別の病院を受診すると態度が全く違い、祝福されて通院することができたそうです。
 主は私たちの正直な祈りを聞いてくださいます。
 どうしようもない絶望の中でも、私たちには主に祈ることができます。
 それは最後の希望であり、最強の希望です。

 私たちは汚れの中にいる民です。汚れたパンを食べなければならない状況に陥ることもあります。それでも主が無条件の平安を約束しています。
 そして最後まで祈りという希望が残されています。
 私たちの力ではどうしようもなくても、主が道を開いてくださる。
 主だけを信じ、祈る私たちでありたいと願います。

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