歴代誌講解78
灰の中から立ち上がる
歴代誌下 36:11-23
11 ゼデキヤは二十一歳で王となり、十一年間エルサレムで王位にあった。12 彼は自分の神、主の目に悪とされることを行い、主の言葉を告げる預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。13 彼はまた、神の名にかけて彼に誓わせたネブカドネツァル王に反逆し、強情になってその心をかたくなにし、イスラエルの神、主に立ち帰らなかった。14 祭司長たちのすべても民と共に諸国の民のあらゆる忌むべき行いに倣って罪に罪を重ね、主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した。15 先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、16 彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。17 主はカルデア人の王を彼らに向かって攻め上らせられた。彼は若者たちを聖所の中で剣にかけて殺し、若者のみならず、おとめも、白髪の老人も容赦しなかった。主はすべての者を彼の手に渡された。18 彼は神殿の大小の祭具のすべて、主の神殿の宝物も、王とその高官たちの宝物も残らずバビロンに持ち去った。19 神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。20 剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。彼らはペルシアの王国に覇権が移るまで、バビロンの王とその王子たちの僕となった。21 こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。22 ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口を通して約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。23 「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」
灰の中から新しい芽を出すユーカリ
冬は空気が乾燥します。12月頃には地域の子どもたちが「火の用心、マッチ1本火事のもと」と呼びかける声が聞こえていました。
火事は人の生活を灰に変えてしまう恐ろしい災害です。ご注意ください。
ユーカリはオーストラリアなどに生える木で、その葉をコアラが食べることでも知られています。成長が早く木材としても利用されます。
ユーカリの葉は引火性のある油を分泌します。
乾燥など何かのきっかけで発火すると、一気に燃え広がって大規模な森林火災を引き起こします。
特に2019年から2020年にかけて大規模な森林火災があり、19万㎢が焼けました。日本の領土の約半分の広さです。
森林火災はコアラやカンガルーなど動植物の生態系も破壊する恐ろしい災害です。
ユーカリが自ら引火しやすい油を出して火事を助長してしまうというのは、神様の設計ミスではないかと思えてきます。
ところがもう少し詳しく見ていくと、ユーカリは意図的に火事を引き起こしているかもしれません。
ユーカリは火事に合うと、燃えやすい皮の部分がはがれ落ちます。なので幹の部分は燃えずに残ります。
さらに火事の熱によって新しい芽を出します。種の発芽も促されます。
火事ですべて焼き尽くされたように見えても、その灰の中からユーカリの芽が出てきます。
このようにユーカリは、灰の中から新しい命をもって立ち上がる力を持っています。
神様は意図的に火事を起こし、そこから新しい命を芽生えさせることもします。
私たちの人生においても、すべてを失ったように思える状況があっても終わりではありません。
新しい命が灰の中から立ち上がります。
南ユダ王国の最後
今日の本文は南ユダ王国20代目ゼデキヤ王の話、歴代誌講解の最終回です。
イスラエル王国から続くダビデ王朝の王位はダビデの子孫によって受け継がれてきました。それは先代の王の子どもたちによって受け継がれています。
ゼデキヤの場合は先代のヨヤキン王が若くしてバビロンに連れて行かれてしまったため、例外的におじのマタンヤが王になりゼデキヤと名乗りました。
歴代誌上3章のダビデの子孫の系図は、このゼデキヤではなくヨヤキンによって続いていきます。
神の言葉に背いたゼデキヤ王
ゼデキヤ王の治世は12節で「彼は自分の神、主の目に悪とされることを行い、主の言葉を告げる預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。」と評価されています。悪い王でした。
預言者エレミヤはゼデキヤ王の時代、「バビロンに降伏し、その王に仕えよ」と繰り返し呼びかけます。
もし外国と戦争をしているときに「相手の国に降伏しなさい」と呼びかける国民がいたらどうでしょう。非国民として犯罪者扱いされても仕方ありません。
エレミヤの言葉も南ユダの民から無視され、裏切り者として牢屋に入れられたり泥のたまった井戸に入れられたりしました。
エレミヤはゼデキヤにも、「バビロンに降伏すれば命は助かります。しかし降伏しないなら都は火で焼かれ、あなたも逃れられません」と警告していました。
ゼデキヤは、その治世の初めにはバビロンのネブカドネザル大王に従っていました。しかし第9年に背きます。
ネブカドネザル大王について、神様は「わたしの僕」と呼びます。ゼデキヤは神が立てた僕であるネブカドネザル大王にも反逆しました。
ゼデキヤはエレミヤやネブカドネザル大王を通して語られた神様の言葉に背き続けたわけです。
神の憐れみを拒み続けて手の施しようがなくなる
ゼデキヤは強情になってその心をかたくなにしました。
同じような表現が出エジプト記に出てきます。
モーセはファラオに、イスラエルの民を去らせなさいと繰り返し要求します。ファラオはそれを拒み続けます。
神様はエジプトで災いを起こしますが、ファラオは心を頑なにし、モーセを通して示された神の御心に従うことをしません。
とうとうエジプトに第10の災い、死の災いが襲い、イスラエルの民を強制的に去らせるようにします。
神様は何度も何度もチャンスを与えていました。
それを拒み続けると、手の施しようがなくなります。
南ユダ王国には3つの罪がありました。
諸国の民のあらゆる忌むべき行いに倣ったこと。エルサレムの神殿を汚したこと。預言者を嘲笑い、その言葉を蔑み、愚弄したことです。
南ユダの民は占いやまじない、子どもをいけにえにするなど神様が忌み嫌うことをしました。神様を礼拝すべき神殿に偶像の祭壇を築いた王もいました。そして預言者たちを通して語られた神の言葉を無視しています。
とうとう主の怒りは燃え上がり、手の施しようがなくなりました。
エルサレム陥落
神はカルデア人の王ネブカドネザルを遣わし、エルサレムを包囲させます。
長引く籠城で食べ物が不足し、飢えて亡くなる人がいました。疫病で亡くなる人もいました。
城壁が破られると、剣で殺される人がいました。
そして神殿に火が放たれ、火事で亡くなった人もいました。
捕えられ捕囚になる人もいました。
エルサレムは破壊され、神殿は焼け、城壁も崩されました。
ゼデキヤ王は城壁が破られる前に逃げます。王が民を見捨てて真っ先に逃げました。
しかしバビロンに捕まり、ゼデキヤは目の前で家族を殺され、両目をえぐり取られ、バビロンに連れて行かれます。
バビロンに降伏すれば助かると約束されていたのに、それを拒んで悲惨な最期を招いてしまいました。
神様は南ユダを憐れみ、何度も救いの手を差し伸べてきました。
その神の憐れみを拒んだ結果、全く憐みのない無慈悲な破滅を迎えます。
BC586年のことです。
神は災いでなく平和の計画を持っている
今日の本文の21節で「こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。」 と南ユダ王国の最期が語られています。
エレミヤを通して語られていたように都は火で焼かれ、ゼデキヤは捕らえられ、南ユダ王国は滅亡しました。エルサレムはすべて破壊し尽くされました。すべてが終わり、この地に将来も希望もないように思えます。
しかし一度立ち止まり、主がエレミヤの口を通して告げられた言葉とは何だったかを思い起こす必要があります。
それは破滅の予告だけではありませんでした。
10 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
エレミヤ書29:10-11
エルサレムは火で焼かれましたが、これは終わりではありません。
70年の年が満ちたなら、恵みの約束を果たして連れ戻すと約束しています。
神は災いの計画ではなく、将来と希望を与える平和の計画をお持ちです。
すべて終わったように思える状況でも信仰に生きる
この約束の実現は70年という期間を必要とします。捕囚にあった人たちはまだその実現を見ることはできません。
それでも神が約束しています。
その望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することが信仰です。
たとえ町が廃墟になり王家が絶たれ国が滅亡しても、神の約束を握る人はその信仰によって生きます。
神は回復させる
土地の安息
本文の21節でもう1つ見ておきたいことは「この地はついに安息を取り戻した」という言葉です。
これはレビ記にある呪いの警告に関連があります。
『33 わたしはあなたたちを異国に追い散らし、抜き身の剣をもって後を追う。あなたたちの国は荒れ果て、町々は廃虚と化す。34 国が打ち捨てられ、あなたたちが敵の国にいる間、土地は安息し、その安息を楽しむ。35 土地は、打ち捨てられている間、あなたたちがかつて住んでいたころには得られなかった安息を得る。』(レビ記26:33-35)
神の言葉に聞き従わないとどうなるかという警告です。この警告の通りにイスラエルの民は他の国に釣れていかれ、国土は打ち捨てられました。
しかしそれはこの土地の安息になるのだと言います。
神様はすごいですね。土地にも安息を与えます。
人の罪のために土も呪われています。
しかし神は大地が灰で覆われた死の世界になることを望んではいません。
世を愛する神は砂漠に大河を流し、すべてが生きることを望んでいます。
苦難を通して回復の機会を与える
人生に苦難の時が来ますが、苦難は苦難で終わりではありません。
人を苦しめ悩ますことが神の御心ではないからです。苦難を通して私たちに回復の機会を与えます。
皆さんも突然の病気で仕方なく休みを取ったことがあると思います。
学校を休めば勉強が遅れ、会社を休めば仕事に支障が出る。そのような焦りが湧いて来るかもしれません。
しかし体がボロボロなのに動き続ければさらに大きな問題を招きます。
休んだことでリフレッシュし、勉強でも仕事でもより良いパフォーマンスを発揮できます。
70年後に再建された神殿
南ユダ王国の滅亡が記されましたが、歴代誌はまだ終わっていません。
しばらくバビロンの支配が続きます。その後メディアとペルシアが連合してバビロンに対抗します。そしてペルシア人のキュロス王がバビロンを打ち破ります。
神はこのキュロス王の心を動かし、エルサレムの神殿を再建せよという命令を出させます。そして「あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。」と言い、ユダヤ人を解放します。
「神なる主がその者と共にいてくださるように。」と祝福して送り出された民はエルサレムに帰り、BC516年に第2神殿を完成させます。
神殿が破壊されて70年後のことです。
エレミヤを通して神が約束した通りです。
偶然の一致ではないし、キュロスによる人為的なものでもありません。神が恵みの約束を果たしました。
どのような悲惨な状況があっても、それで終わりではありません。神の平和の計画が実現します。
灰の中から神を見上げる
苦難にあった人と言えばヨブがいます。
ヨブは友人との対話の中でこう言いました。
25 わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。26 この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。
ヨブ記19:25-26
突然の災難によって財産も子どもたちも失いました。自分の健康も失い、愛する妻からも見放されました。何もかも失いました。
ヨブは灰の中に座ります。
それでもヨブは知っています。
私を贖う方は生きている。この苦難に捕らわれた状態から私を買い戻してくれる方がいる。
当時の文化では、誰かが奴隷になったならまず身内の者が買い戻します。
ヨブにそのような身内はいません。
では誰がヨブを救い出すのか。
地上にいなくても天にいます。
父なる神は生きておられ、救い出してくださる。
神を見上げ信仰を告白しています。
復活の希望
私たちも告白できます。私を贖う方は生きている。
神様は今日も生きておられます。
そして私たちを滅びから救い出すために来られた贖い主イエス・キリストが生きておられます。
キリストはご自分の命を身代金としてささげて十字架で死に、3日目に復活して今日も生きておられます。
私たちは心をかたくなにしてはいけません。ゼデキヤや南ユダの民のように神を信頼せず神の言葉を無視し続けていくなら、神の憐れみを自ら拒むことになります。
このように自ら滅びへと向かう私たちを救うために、イエス様は十字架で死なれました。
死は終わりのように思えます。
しかしイエス様は死の力を破り復活しました。
そして灰の中に座る私たちを、新しい命をもって立ち上がらせてくださいます。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
コリントの信徒への手紙一15:20
イエス様は復活の初穂です。
イエス様を信じて眠りについた人たちは、イエス様が再び来られるときに復活します。
この約束があるので、私たちはどのような状況でも復活の希望を持って立ち上がることができます。
神なる主が共にいる
すべて焼き尽くされ灰だらけになってしまったかのように、何も残っていない、すべてを失ってしまったかのように思えることがあっても、神様は私たちに平和の計画を持っています。
今はその実現が見えなくても、神の約束を握る人はその信仰によって生きます。
今日も生きておられる神様を信頼し希望を持って立ち上がりましょう。
神なる主が私たちと共にいてくださいます。