野外礼拝
犠牲の上に立つ平和
イザヤ書 53:4-5
4 彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
5 彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
それは本当に平和と言えるか
誰かが苦しんだおかげで平和が与えられた。
このような考えを理解することができますか。
たとえば広島と長崎に原爆が落とされて、第2次世界大戦は終結した。今の私たちの平和があるのはそのような犠牲があったからだ。英霊に感謝しよう。
コロナ禍であっても平和の祭典であるオリンピックが開催されているのは、多くの医療従事者が日夜戦い続けてくれているからだ。医療従事者に感謝しよう。
苦しみを負わされている人たちがいるのに、彼らに感謝するだけで済まされるのでしょうか。誰かの犠牲の上に保たれている平和は、本当に平和だと言えるでしょうか。
キリストに焦点を当てることで見えるものがある
聖書には、主の僕が刺し貫かれ打ち砕かれたので平和が与えられたとあります。
しかしそれは理解しがたいことでした。
誰かが苦しみを受けているとき、その苦しみの理由は2通り考えられます。
1つは苦しみを受けている本人に理由がある。彼が悪いことをしたので、その罰を受けているのだ。
もう1つは、彼は悪い人たちのせいで苦しめられている。
そのどちらにしても、彼の苦しみで平和が与えられるとは考えられません。
ユダヤ人たちは聖書をよく研究しました。しかしこの聖書箇所を正しく理解することはできませんでした。
聖書はキリストに焦点を当てて読む
ある時、エチオピアの身分の高い役人がイザヤ書53章を読んでいました。異邦人である彼には当然理解できません。そこにフィリポという執事が来て、説き明かしてくれました。
フィリポはこのとき、イエス・キリストに焦点を当てて説き明かしたのでした。
エチオピアの役人はイエスを信じ、すぐに洗礼を受けました。
聖書はイエス様に焦点を当てるときに、その意味がわかります。
今日の本文もイエス・キリストについて書かれたものとして読めば理解ができます。
祭司長たちはイエスが神を冒涜したと訴えました。そしてイエス・キリストは十字架で死に、わき腹を槍で刺されました。
しかし実際にはイエス様に何の罪も見出すことはできませんでした。罪なき神の独り子が十字架で死にました。それは私たちの罪を代わりに背負って死なれたのです。
この十字架によって私たちの罪の償いは完了しています。
赦された者として平和に、神に造られたものとして新しい人生を歩み始めることができます。
だから聖書を読むときにはイエス様に焦点を当てることが大事です。
イエス様に焦点を当てるとき、世界の見え方まで変わってきます。
パウロは弱さがありました。しかしその弱さの中でキリストの力が大いに働くことを見出しました。
イエス様に焦点を当てるなら、恐れに縛られた生き方から、愛に駆り立てられた生き方に変えられます。
あなたはもう罪の奴隷ではなく、神との間に平和を得た神の子だからです。
平和を実現する
この平和はキリストによって成し遂げられたものです。すでに完了しました。同じことを繰り返す必要はありません。
しかし私たちは誰かを再び犠牲にすることで平和を得ようとします。
コロナ禍でステイホームが推奨されました。自宅にいながら仕事も生活もできるという人もいます。その生活はデリバリーで支えられています。余裕のある人は自宅で平和に暮らしているが、そうでない人は外で危険にさらされながら働いています。誰かを危険にさらせながら過ごすその生活は平和ですか。
あなたのために苦しんでいる人の存在を忘れない
星野富弘さんの詩に、
『あなたが苦しむことなく成功したとしたら誰かがあなたの代わりに苦しんでくれたのです』冬の朝ふるえながら行った教会で聞いた話 胸のおくがじいんとあたたかくなった 今もまだあたたかい
という詩があります。
それを忘れてはいけません。この世界はどこかで誰かが労苦している。
神が願っているのは誰かが労苦する世界ではありません。神の国には涙も嘆きも労苦もなくなるからです。
誰かの犠牲の上に立つ平和は、本当の平和ではありません。
平和のための犠牲はイエス・キリストお一人で十分です。
愛のために労苦し平和を作る
しかし現実には誰かが労苦しなければこの社会は成り立ちません。
それなら、あなたの自己中心的な生き方で誰かを労苦させるのではなく、誰かの労苦を取り除くために仕える生き方をしてください。
社会の犠牲になって労苦するのではなく、愛のために労苦するのです。
オリンピックは楽しいです。喜びがあります。しかしその陰で労苦している人がいます。医療従事者に感謝しましょうみたいな空しい言葉を言うだけではいけません。彼らの労苦を増やさないように、私たちも忍耐する必要があるのではないでしょうか。
誰かが死ぬことで平和が作られるような国にしてはいけません。戦争を二度と繰り返さないように戦う必要があります。
イエス様は言いました。
平和を実現する人々は、幸いである、
マタイによる福音書5:9
その人たちは神の子と呼ばれる。
誰かの犠牲の上に立つ平和ではなく、愛のために労苦し、平和を築いていきましょう。