棕櫚の主日

王を殺し罪人を生かす

マルコによる福音書 15:6-15

6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

棕櫚の主日

 今日はイースターの1週間前、棕櫚の主日です。
 棕櫚はヤシの仲間。イエス・キリストがエルサレムに入城するとき、人々は自分の上着や葉の付いた枝を道に敷きましたね。ヨハネはその枝がナツメヤシの枝だったと記録しています。これが翻訳されるときに棕櫚と訳され、今日まで棕櫚の主日と呼ばれています。

 その日に何があったかおさらいしましょう。
 イエス・キリストはロバの子に乗ってエルサレムに入りました。
 群衆はイエス・キリストをユダヤ人の王として迎え「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。」と叫びました。

十字架につけろ

 それからの1週間の歩みを曜日ごとに見てきて、今日は金曜日の場面です。
 木曜日の夜中に裏切られ逮捕されたイエスは、夜明け前に大祭司の屋敷で裁判を受けました。そこでイエスはメシアを自称したとして、冒涜の罪で死刑判決を受けます。石打ちで処刑することができます。
 しかし宗教指導者たちはこれで満足しません。
 まだ群衆の中にはイエスをユダヤ人の王として支持する者もいる。もっと惨めで、神に呪われた者として処刑したい。
 そこで十字架刑にすることを計画します。

十字架刑

 十字架刑は、漢字の十の形に交差させた木に、犯罪者の手足を釘付けにします。そして外にさらされます。
 十字架につけられた人は、痛み、苦しみながら、徐々に体力を奪われていきます。
 その間、人々はこの惨めな死刑囚を蔑み、嘲りののしります。
 肉体的にも精神的にも極限の苦しみを味わわせる処刑方法、それが十字架です。
 あまりにも残酷なので、ローマ帝国は市民権を持つ者には十字架刑を行いませんでした。
 異邦人の政治犯罪者や極悪人などを十字架につけて見せしめにしたのです。

ベラスケス「十字架上のキリスト」

 イエスが十字架につけられれば、もはやユダヤ人の王と支持する者はいなくなり、惨めな敗北者と見なされるでしょう。
 またユダヤ人にとって、木に架けられるというのは呪いの象徴でした。
 イエスは神に祝福されてなどいない。むしろ呪われた者だと知らしめることができます。

ピラトの裁判

 そこで夜が明けて金曜日の朝、祭司長たちはイエスを総督ピラトのもとに引いていき、ユダヤ人の王を自称しローマ帝国に反逆していると訴えました。
 ピラトはイエスを取り調べますが、死刑にするような罪は認められません。
 普段は対立関係にあるユダヤ人の指導者たちがわざわざ死刑にするように求めてきたわけです。何か裏があるということはすぐわかります。祭司長たちの言うままに、無実な人を死刑にするわけにはいきません。

 何とかこの男を釈放できないかと思っていた時、群衆が押しかけてきました。そして「いつものようにしてほしい」と要求してきました。
 ピラトは祭りの度に恩赦をしていたのです。
 そこでピラトは「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と問います。
 ところが返ってきた答えは「バラバを」でした。

 バラバはローマ帝国に反逆し暴動を起こしたテロリストです。殺人も犯していました。
 彼は死ぬべき犯罪者です。
 しかしユダヤ人の中には彼を愛国者として英雄視する人もいました。

 バラバの釈放を求める気持ちもわかる。
 では何も悪いことをしていないユダヤの王はどうするのか。
 ピラトが問うと、群衆から返ってきたのは「十字架につけろ!」という叫び声でした。
 この男はあの残虐な十字架刑を要求されるほどの犯罪者なのか。
 「いったいどんな悪事を働いたというのか。」
 ピラトのこの問いには答えることなく、群衆はますます激しく、「十字架につけろ!」と叫んでいます。

群衆の叫び

 群衆は日曜日にはイエスをユダヤ人の王として迎え、神の祝福を叫んでいました。
 ところが金曜日になると、イエスが木に架けられ呪われた者として死ぬことを要求しています。
 日曜日と同じ人々が金曜日にもいたかどうかはわかりません。それでも一週間の間に同じ街の中で一人の人に向けられた叫びとして、とても対称的です。

 「ホサナ」という叫びは、誰かに言わされたわけではありません。ロバの子に乗ってエルサレムに入るイエスを見て、人々の中から自然に起こった叫びです。たとえ禁止されても石が叫び出すほど、そう叫ばずにはいられませんでした。
 「バラバを」という答えは、祭司長たちに言わされたことです。
 何の罪も犯していないユダヤ人の王が殺されることを求め、人殺しの犯罪者が釈放されることを求めています。一部の愛国者は心からバラバの釈放を求めたかもしれませんが、他の人はそうではないでしょう。

自分の口で自分の思いを告白する

 「あなたは何をしてほしいのか。」「あなたはわたしを何者だと思うのか。」
 イエス様からこう問われた時、何と答えますか。
 自分の素直な思いを表現する練習をしておいてください。
 自分の思いを告白しないなら、私たちは他の人に植え付けられた言葉を言わされます。

 本当は癒されたいのに「助けてくれる人がいない。他の人に先を越される」と他の人を責めてしまう。
 本当は申し訳ない気持ちがあるのに「あなたが置いたこの女のせいだ」と愛すべき人と神を責める。
 「イエスはメシア、生ける神の子です」と告白したいのに、人を恐れて「あんな男は知らない」と言ってします。
 だからあなた自身の口で、素直な思いを表現してください。「私はこれが好きだ。こういう人になりたい。これはイヤだ。」
 それに加えて「ごめんなさい」と「ありがとう」も言えるようになりたい。
 「イエスは主です。でも私はあなたを拒んでいました。ごめんなさい。それなのにあなたは私を無条件の愛で愛してくださいました。ありがとうございます。私もあなたを愛しています。」

死ぬべき人を生かすためキリストは死んだ

 マタイによれば、このとき祭司長たちは群衆に、イエスの死刑も要求させていました。
 すると群衆は「十字架につけろ!」と叫び出しました。
 死刑の方法までは伝えていなかったようです。それなのに群衆の口から十字架という最も残酷な処刑法が出てきました。
 これは人間の心にあった思いです。
 どうせ死ぬなら、最も残酷な方法を願う。
 イエスが神に呪われた者として惨めに死ぬのを見たいのです。

人間の残虐さ

 皆さんもそういう思いがありませんか?
 誰かの不祥事が明らかになった。そうしたらその人に向かって何を言ってもいいと思う。
 学校の中で誰かターゲットを決めて、その人の人格を無視した扱いをする。
 芸能人やインフルエンサーなどに、SNSで誹謗中傷の言葉をあびせる。
 そうやって石を投げ、誰かを殺そうとしてしまいます。
 小学生ぐらいの子どもでも、そうします。
 人間の中にある残虐性です。

 ドッキリやイタズラを仕掛ける番組がありますね。私は大嫌いです。
 誰かがひどい目にあっているのを傍観する。視聴者も加害者の側に立たされているわけです。
 そういうことに無自覚で、誰かの惨めな姿を笑いますよね。

 ターゲットにされる人が悪いのではありません。たとえターゲットにされた人に問題があったとしても、寄ってたかって石を投げるのは、自己中心的な人間の罪性から出てくることです。
 罪なき神の独り子に対しても「十字架につけろ」と言うのですから。

自分を守るために神の子を殺す

 この残酷な群衆の訴えを、総督ピラトはどうしたでしょう。
 上に立つ権威は神によって立てられました。正義を行う責任があります。
 ピラトはイエスが何も悪いことをしていないとわかっています。
 それならばイエスを自由にするべきです。そして殺人犯のバラバはその罪の罰を受けなければならない。
 ところがピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから十字架につけるため引き渡しました。
 群衆を満足させるためです。
 彼らの要求を拒めば、騒ぎが大きくなるかもしれない。そうすると総督としての立場が危うくなる。今後の出世に響く。
 こうしてピラトは、何の罪もないイエスを十字架で殺す決定を下しました。

 私たちはなすべき善を知りながらそれを行わない罪を犯します。
 目の前に困った人がいるのに手を差し伸べない。
 誰かが間違った道を進んでいるのに、指摘しない。
 自己責任だ。
 手助けするのは相手をダメにしてしまう。
 知らない人に声をかけるのは迷惑だ。こんなオジサンが声をかけたら通報される。
 そういう言い訳をします。
 そこで大事にしているのは結局自分自身です。自分を守るために、色々な言い訳をして困っている人を見捨てます。
 人は自分を守るためなら、正しいことを後回しにします。
 そして神の子を殺すのです。

キリストは私たちのために死んだ

 この金曜日、人間の心にある残虐性、自己中心性が明らかにされました。
 本当に死ぬべき罪人は誰ですか。
 バラバだけではありません。祭司長たちも、群衆も、ピラトも、この場にいた全員です。
 イエス・キリストを除くすべての人です。
 そう、そこには私たちも含まれます。
 死ぬべき私たちに代わって、王の王、主の主であるイエス・キリストが殺されました。

4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

イザヤ書53:4-5

 この十字架の場面で、人間のあらゆる罪が明らかにされていきます。
 イエス・キリストはその人間のあらゆる罪を背負い、十字架で死なれました。
 その死によって、罪の償いは完了し、私たちの救いは成し遂げられたのです。
 王の王は殺され、罪人である私たちは釈放されました。死ぬべき私たちが生きるために。

アントニオ・シセリ「エッケ・ホモ」

 この人を見よ。
 これからの一週間、私たちの心にある罪をもう一度見つめ直し、私たちのために罪を負われたイエスを見上げてください。
 そして来週、死の力を打ち破り、復活されたイエスをたたえましょう。


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