生きよと願う神

エゼキエル書講解23

生きよと願う神

エゼキエル書 16:1-6

1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、エルサレムにその忌まわしいことを知らせなさい。3 あなたは言わねばならない。主なる神は、エルサレムに対してこう言われる。お前の出身、お前の生まれはカナン人の地。父はアモリ人、母はヘト人である。4 誕生について言えば、お前の生まれた日に、お前のへその緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布にくるんでくれる者もいなかった。5 だれもお前に目をかけず、これらのことの一つでも行って、憐れみをかける者はいなかった。お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられた。6 しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。

変化は生きているものにふさわしい

 春です。植物も新しい芽が出てきました。
 私たちも春になると新しいことを始めたくなります。
 日本では4月から新年度が始まります。新しい職場に就職したり、新しい学校に入学したり、新しい学年に進級したりします。新しい習い事を始めたりする人もいるでしょう。
 私も新しいことを始めようと思います。何だと思いますか?ケーキ屋さんです。おいしくてきれいなケーキを作ろうと思います。

 今日は4月1日ですね。何か新しいことを始めると言い出した人には注意した方がいいです。
 ケーキ屋を始めるつもりは全くありませんが、ケーキ作りは面白いなと思いました。
 先週月曜日に料理教室でケーキ作りを体験してきました。意外とよくできて、もしかして隠れた賜物が開発されたのかと思いました。
 そのように新しい季節に、新しいことに挑戦します。
 初めはうまく行くかもしれません。
 しかしちょっとしたきっかけで、やっぱりダメだと挫折してしまいます。それで元の状態に戻ってしまいます。
 現状を維持するだけで精一杯です。
 同じところに留まっているとしたら、それは死に向かうことです。
 鏡の国のアリスで赤の女王は「私たちは走り続けなければ同じところに留まることもできない」と言いました。
 前に進むことを止めることは、生きているものにふさわしくありません。

イースターエッグ

 今日はイースターです。
 イエス・キリストは十字架で死なれました。
 しかし神の子が墓に葬られたままでいることは命の神にふさわしいことではありません。
 神はキリストを3日目に復活させました。
 キリストは今も生きています。
 神は命の神です。生きることを願う神です。
 神が願っておられることは、私たちが落胆の中に沈んでいることでも、同じところに留まっていることでもありません。
 キリストを墓の中から復活させた神は私たちも新しい命をもって立ち上がらせます。

エルサレムの忌まわしいことを告げよ

 今日の本文は主がエゼキエルに、エルサレムの忌まわしいことを告げよと命じる場面の冒頭部分です。
 主はイスラエルの民を一人の娘の成長にたとえます。カナンの地で生まれた彼女は誰からも憐れまれず捨てられた子でした。
 血の中でもがき、死ぬべき存在だった彼女のもとに主が来て、目を留め、『生きよ』と言いました。
 私たちは罪の中でもがき、死ぬべき存在です。
 しかし主なる神は私たちを見捨てず、イエス・キリストを遣わし、救い出しました。
 イエス・キリストを復活させた神は私たちを新しい命に生かしてくださいます。
 今日の本文を通して、罪の中にもがく私たちの忌まわしいことを知り、私たちを見捨てない神の愛によって新しい命をもって新しい地へと進み出す私たちになることを期待します。

血まみれの誕生

 まず今日の本文の1節から5節で『1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、エルサレムにその忌まわしいことを知らせなさい。3 あなたは言わねばならない。主なる神は、エルサレムに対してこう言われる。お前の出身、お前の生まれはカナン人の地。父はアモリ人、母はヘト人である。』 とあります。
 私たちは血の中でもがく汚れた存在です。

血は神にふさわしくない

 主はエゼキエルに、エルサレムの忌まわしいことを告げよと言われます。
 主はまずイスラエルを生まれたばかりの赤ちゃんにたとえています。
 産まれたばかりの赤ちゃんと言えばどのような姿を想像しますか。
 シミや汚れのない無垢な存在で、真っ白な布にくるまれているようなイメージでしょうか。
 しかし実際にはそうではありません。赤ちゃんが産まれてくるとき、胎盤がはがれて血が出ます。本当に産まれたばかりの赤ちゃんは血や脂でベタベタの状態で出てきます。
 私は息子の出産に立ち会いましたが、かなりショックを受けました。
 新しい命が生まれるというのはすごいことです。
 とにかく赤ちゃんは汚れのない純粋無垢な存在などではなく、洗わなければならない存在です。

 律法の中で産まれたばかりの赤ちゃんは神殿に近づくことは許されず、出産したばかりの女性も汚れたものとして扱われました。
 それは何か不潔だという意味ではありません。聖書の中で汚れているという言葉は、神にふさわしくないという意味です。
 血は命です。
 血を流すということは命を失うことを連想させました。これは命の神にふさわしくないことです。
 新しい命の誕生はもちろん喜ばしいことです。しかしまず洗わなければなりません。母親はしばらく休まなければなりません。
 それで8日目に初めて神殿に上ることが許されました。
 今でも出産したばかりのお母さんと赤ちゃんはしばらく病院に入院しなければなりませんね。

罪にまみれたカナンの地

 主はエルサレムを一人の娘にたとえ、その誕生が決して汚れのない美しいものではなかったことを教えます。
 イスラエルの民も血まみれで生まれ、洗われるべき存在でした。
 エルサレムの出生地がカナンで、父はアモリ人、母はヘト人であると言っています。アモリ人とヘト人はどちらもカナンの7部族の1つです。ノアの2番目の息子ハムの子孫としてカナン地方に定住しました。
 一方、エルサレムは何でしょうか。やはりこの町もエブス人というカナンの先住民族がいました。そこをダビデが攻め落とし、イスラエル王国の首都にしました。
 主がここで言っているエルサレムとはイスラエルの民全体を一人の娘にたとえた表現です。
 そのイスラエルの民はアブラハムの子孫であり、さらにさかのぼればノアの長男であるセムの子孫になります。決してアモリ人の子でもヘト人の子でもありません。
 それなのに主がこう言われるのは、イスラエルがカナン人の霊的な養子のようになっているからです。
 主はイスラエルの民にカナンの地を約束しました。それはカナンの7部族が堕落し、滅ぼされるものになったからです。
 主はアブラハムに、子孫がこの地を受け継ぐと約束しました。それはアモリ人の罪が極みに達するからです。

13 主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。14 しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。15 あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。16 ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」

創世記15:13-16

 カナンの7部族は偶像崇拝にふけり、みだらな行いをしたり、自分の子どもを神へのいけにえとして火で焼いたりしました。それで主はこの地を征服させ、イスラエルの民に与えたのです。
 ところがイスラエルの民はカナン人の忌まわしい習慣に染まってしまいました。
 それで主はイスラエルもこのカナンの地で罪にまみれていると言っています。

エルサレムの忌まわしいこと

 私たちも生まれながらに罪人です。罪の中で生きるしかありません。
 血の中でもがく赤ちゃんのように、罪の中でもがいています。
 先週は受難週として過ごしました。イエス・キリストを十字架につけて殺した人たちを見ました。
 祭司長や律法学者たちは妬みのためにイエス・キリストを殺しました。自分たちが間違っていて、イエス・キリストが正しかったからです。
 ユダはイエス・キリストを銀貨30枚で売りました。神の愛を受けていながら、虚しい富に従いました。
 弟子たちは逃げ出しました。自分を守るために「あんな男は知らない」とイエス・キリストを呪います。
 群衆は十字架につけろと叫びました。死んだ魚のように、この世の権威や多数派の声に簡単に流されていきます。
 ピラトはイエス・キリストに罪がないと知っていながら十字架につけることを決めました。何が善であるかわかっても、それを行う力がありません。
 私たちは正しい方を妬む。神より大事なものがある。イエスは主であると証しすることから逃げ出す。この世の声に流されていく。成すべき善を知りながら、それを行えない。
 私たちも同じではありませんか。私たちもイエス・キリストを十字架につけて殺した者たちと同じです。その罪の中でもがいています。
 私たちは洗われなければならない存在です。

生きよと願う

 また今日の本文の4節から6節に『4 誕生について言えば、お前の生まれた日に、お前のへその緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布にくるんでくれる者もいなかった。5 だれもお前に目をかけず、これらのことの一つでも行って、憐れみをかける者はいなかった。お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられた。6 しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。』 とあります。
 神は死ぬべき私たちに生きよと命じます。

野に捨てられた子

 産まれたばかりのイスラエルは誰にも目を留められず、野に捨てられました。
 親はどこに行ってしまったのでしょうか。親からも嫌われたのです。誰からも祝福されない、望まれない子どもでした。みなしごになってしまったのです。
 赤ちゃんが親から捨てられて生きていけますか。誰からも愛されずに生きていけますか。一人では決して生きていけません。親から捨てられたなら、死ぬしかありません。
 私たちがこうして生きていられるのは、私たちを愛して、生きてほしいと願ってくれた方がいたからです。
 様々な事情で親元を離れなければならない子どももいます。父の愛か母の愛、どちらかの愛を失って育たなければならない子もいます。それも経済的な理由や、子どもへの悪影響を考えて、施設に入れたり里子に出したりします。一つの愛の表現です。
 しかし中には、本当に親から捨てられる子がいることも事実です。
 2014年に児童相談所に寄せられた虐待の相談件数は8万9千件でした。児童養護施設で暮らす子どもは約3万人いますが、そのうち4割が親の虐待などによって保護された子どもたちです。
 2013年の人工妊娠中絶は18万6千件でした。このように日本で多くの子が捨てられているという現実があります。

生きよと命じる

 たとえ親が子を忘れることがあっても、神は決して忘れません。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。

イザヤ書49:15

 親がその子の存在を望まないことがあるとしても、神はその子の存在を喜びます。
 神の目から見て、望まれない命などありません。
 主は血まみれのイスラエルの傍らを通り、血の中でもがいているのを見たと言います。
 命の神にとって血は忌まわしいものです。産まれたばかりの子は汚れたものとして神のもとに近づくことは許されません。
 それにもかかわらず、主なる神様の方から来てくださいました。
 そして目を留め、「生きよ」と命じました。
 これは神の願いです。
 創造主なる神様が願っていることは必ず実現します。
 神が「光あれ」と言われると光が生じました。神が「生きよ」と言うなら、どれほど死ぬべき存在でも生きます。
 罪の中でもがく私たちに神は願うことは、生きることです。

 私たちが神に近づくことはできませんが、神様の方から来てくださいました。
 イエス・キリストは天の栄光を捨て、私たちの間に共に住まわれたインマヌエルの神です。
 そして私たち人間が罪の中でもがく姿をご覧になり、深く憐れまれました。
 そして私たちに命を与えることを願われました。

瞳のように守る

 イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷の生活を送っていました。ファラオは彼らを憎み、男の子が生まれたらナイル川に捨てるように命じました。男の子がいなくなれば、やがてその民族は絶滅します。

 キタシロサイというサイがいます。今、世界で2頭しかいません。
 先日、最後のオスが死んでしまいました。残っている2頭はどちらもメスです。まだ絶滅していませんが、もう時間の問題です。

キタシロサイ最後のオス1頭の死

 イスラエルは憎まれ、死ぬべき民族とされていました。
 そのような時代に一人の男の子が生まれます。母親はその子を愛して3ヶ月の間隠しておきました。
 しかしファラオの命令は絶対です。とうとう隠し切れなくなり、ナイル川に捨てなければならなくなりました。
 母親は最後の望みを賭け、パピルスの籠にその子を寝かせ、葦の茂みの間に置きました。
 そこに来て、目を留め、拾い上げたのはファラオの娘でした。その子を殺すべきファラオの娘が、その子を育てることにしたのです。
 彼女はその男の子をモーセと名づけます。
 やがて神はモーセを通してイスラエルの民全体を救い出します。
 モーセは神の業を振り返り、荒野の中にあっても瞳のように守られたと賛美しました。

 人は瞳を本能的に守ります。まぶた、眉毛、まつげと何重にも張り巡らされたバリアに守られています。いつも涙で潤いが保たれています。
 実際、イスラエルの民は荒野の中にあっても雲の柱、火の柱で守られ、天からのパンで養われ、岩からの水で潤されていました。
 主なる神様は私たちを瞳のように守ります。
 私たちが死の陰の谷を行くときも災いから守り、緑のまきばで養います。生きるために必要なものは十分に与えられています。
 神は、私たちが生きることを願う神です。

命の水で洗う

 最後に神は私たちを洗い、新しい命で生かします。

キリストの血による洗い

 どんなに神が生きることを願ったとしても、血にまみれた赤ちゃんは命の神にふさわしくありません。
 罪人をそのままにしておくことは正義の神にふさわしくありません。
 そこでイエス・キリストは私たちの罪を十字架で取り除いてくださいました。私たちはキリストの血で洗われました。

25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

エゼキエル書36:25-27

新しい命

 キリストは死んで葬られました。
 しかし神が死んだままでいることは、命の神にとってふさわしくないことです。
 キリストは死の力を打ち破り、復活されました。
 イエス・キリストを信じる私たちはキリストと共に葬られ、新しい命に生かされています。

新しいことを成し遂げる聖霊の力

 新年度が始まります。期待していますか。それとも今までの失敗を引きずって同じところに留まりますか。
 どうせまた失敗する。長続きしない。いつしか挑戦することも諦めてしまいます。
 それは墓の中で死んでいる人と同じです。
 何かを始めるのに遅すぎるということはありません。料理教室に入ることもいいでしょう。楽器を始めることもいいでしょう。イエス・キリストを信じることもいいでしょう。
 死の直前にイエスを信じた強盗も、イエスは受け入れました。
 今が恵みのときです。今こそ始めましょう。
 神は全てを新しくします。立ち上がる力も与えます。
 私を強めてくださる方のおかげで、私にはすべてが可能です。
 恵みの機会を逃してはいけません。

 全日本リバイバルクルセードの中心的な働きをした田中政男牧師は、ビジョンがありました。それは天皇に伝道するというものです。
 周りの人は呆れていました。絶対無理だ。お前と祈っていると頭が痛くなる。そのように言われました。
 しかし田中牧師は諦めませんでした。
 ある時、軽井沢で集会をしていると、たくさんの人が集まっているのが見えました。
 当時の皇太子妃、今(2018年当時)の皇后である美智子さんがテニスをしに来ていたのです。
 ちょうど美智子さんが車に乗るところに居合わせました。
 田中牧師はとっさに、たまたまポケットにあった一冊の本を差し出しました。それは滝元明牧師の本でした。その本にはたまたま田中牧師の連絡先も入っていました。
 突然のことで誰も止められず、美智子さんが直接受け取りました。
 美智子さんが読んだかはわかりません。しかしその後皇室から連絡をいただき、数回会ったそうです。
 今の皇太子と田中牧師の息子は浜名湖で水泳をしたと言っていました。
 偶然でしょうか。運がよかっただけでしょうか。
 恵みのときをつかむのです。
 祈る者がその時を見分けます。
 恵みの機会を逃さず、新しくされたものとして、神の子として生きていくのです。

 私たちは罪の中でもがいています。
 神は私たちを見捨てず、キリストの血で洗ってくださいました。
 今、私たちは生きています。キリストと共に生きています。神がこれから私たちの人生を通して新しいことを成し遂げようとしています。
 そのように新しい命に満ち溢れて歩み出す私たちになることを願います。

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