歴代誌講解60
礼拝の場を修復する
歴代誌下 24:1-14
1 ヨアシュは七歳で王となり、四十年間エルサレムで王位にあった。その母は名をツィブヤといい、ベエル・シェバの出身であった。2 ヨアシュは祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行った。3 ヨヤダは二人の妻を彼にめとらせ、彼らの間に息子や娘が生まれた。4 その後、ヨアシュは主の神殿の修復に意欲を示し、5 祭司とレビ人を集めて言った。「ユダの町々に出かけて行って、あなたたちの神の神殿を毎年修理するため、すべてのイスラエル人から資金を集めよ。速やかに取りかかれ。」しかし、レビ人たちは速やかに取りかからなかった。6 そこで王は祭司長ヨヤダを呼んで言った。「なぜあなたはレビ人に要求し、主の僕モーセとイスラエルの会衆が、掟の幕屋のために定めた税をユダとエルサレムから徴収しないのか。」7 悪女アタルヤとその子たちが神殿を損い、主の神殿の聖なる物もすべてバアルのものとしていた。8 王は命令を出して一つの箱を作らせ、主の神殿の門の外に置かせた。9 そして、神の僕モーセが荒れ野でイスラエルに対して定めた税を主に納めるように、ユダとエルサレムに呼びかけさせた。10 高官も民も皆喜んで持って来て、溢れるまで箱に投げ入れた。11 その箱がレビ人によって運び込まれ、王の監査にかけられるとき、献金がたまっているのが認められると、王の書記官と祭司長の代表が来て箱を空け、また持って行って元の場所に戻しておいた。毎日このようにして、彼らは多くの献金を集めた。12 王とヨヤダは、その献金を主の神殿の工事の担当者たちに渡した。彼らは神殿を修復するために石工と大工を雇い、また神殿を修理するために鉄と青銅の職人を雇った。13 工事の担当者たちはそのように行い、彼らの働きによって修理の作業は進んだ。彼らは神殿を元の状態にし、また補強した。14 作業が終わると、彼らは残った献金を王とヨヤダに差し出した。これをもって儀式や焼き尽くす献げ物のための祭具、盃、金と銀の祭具など、主の神殿の祭具類が作られた。ヨヤダの生きている間、主の神殿では焼き尽くす献げ物が絶えずささげられた。
法隆寺への支援
奈良県に法隆寺という寺があります。世界文化遺産に指定されています。
西暦607年に聖徳太子によって建てられ、現存する世界最古の木造建築物です。
小中学校の修学旅行のコースにもよく選ばれます。
建物を維持管理するためにはお金がかかります。日本では地震や台風、湿気などの問題があります。木造建築なら防火もしなければなりません。首里城やノートルダム聖堂も火災にあいました。
法隆寺も維持管理のためにお金がかかるわけです。
国宝に関しては国が負担してくれるようですが、それ以外の部分は法隆寺の負担です。
今までは拝観料で賄ってきました。
しかし新型コロナウイルスの流行で参拝者が激減しました。修学旅行も中止になったり、各都道府県内だけで行う形になったりしました。
そのため、拝観料収入が減り、維持管理費用を出すことが難しくなってしまいました。
このままでは世界最古の木造建築を維持できなくなってしまう。
そこで法隆寺はクラウドファンディングで2000万円を集めることにしました。
そんな大金が果たして集まるのだろうか。支援開始の翌朝、驚くべきことが起こりました。
なんと一晩で目標金額に到達していたのです。最終的に1億5700万円が集まりました。
世界文化遺産だから支援が得られたという面もあるかもしれません。
また仏教の寺院、礼拝の場であるからという面もあったでしょう。
仏教の寺院を自主的に支援したいという人々の思いには、私たちクリスチャンも見習うべき部分があるのではないでしょうか。
喜んでささげる恵み
今日の本文は南ユダ王国7代目ヨアシュ王の話。
ヨアシュの先代アハズヤは神に背く王でした。北イスラエルでイエフが起こしたクーデターに巻き込まれ、殺されます。
アハズヤの母アタルヤはこれに付け込んで南ユダ王国ダビデ王朝を断絶させようと企みます。
そこで王女ヨシェバがアハズヤの末子であったヨアシュを連れて逃げます。
ヨアシュは神殿で大祭司ヨヤダに育てられます。
7年目にヨヤダはアタルヤを倒し、ヨアシュを王にし、神と民との関係を回復させました。
ヨヤダの支えで正しいことを行ったヨアシュ
ヨアシュの治世についてこう評価されています。「ヨアシュは祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行った。」
主に背いた先代や先々代の王とは違い、主の目にかなう正しいことを行う王でした。
ただし条件付きです。「祭司ヨヤダの生きている間は」と。
ヨヤダはヨアシュの王権を確立させダビデ王朝を立て直すため王を支えます。
その中でヨアシュに2人の妻をめとらせました。
ヨヤダのおかげでヨアシュは主の目にかなう正しいことを行ったと書いてある直後に、2人の妻と結婚する話が出てきます。ということは一夫多妻も主の目にかなう正しいことなのでしょうか?
あくまで聖書における結婚の原則は、一人の男性と一人の女性です。
しかし原則通りにいかない場合もあります。
この場面では、ダビデ家の男性がヨアシュしかおらず、彼がいなくなればダビデ王朝は滅亡です。何とかして後を継ぐ男子に生まれてもらわなければなりません。安全のために男子は複数人生まれてほしい。
しかし男子が生まれるかどうかは神のみぞ知る領域ですから、その重責を1人の女性に負わせるのは過酷。そこで例外的に、2人の妻をめとらせたのでしょう。
聖書に書いてあるからと言って一夫多妻は正しいと考えてはいけません。
神殿修復に意欲を示す
その後ヨアシュは主の神殿の修復に意欲を示しました。ヨヤダに導かれたヨアシュが国を立て直していく上で手を付けるべきだと考えたのは、神殿の修復でした。
ダビデやソロモンも神殿を大事にしました。数多くの戦いに勝利しイスラエルの帝国時代を築き上げたダビデは、自分がレバノン杉の王宮に住んでいるのに神の箱がテントの下に置かれていることを問題視し、神殿を建てることを決意します。そしてソロモンが跡を継ぐと、準備を整えて神殿を完成させます。
神殿は礼拝の場でした。彼らは礼拝の場を大事にしたのです。
神殿修復のための献金
神殿も維持管理にはお金がかかります。そこでヨアシュは祭司とレビ人に命じ、町々を巡って資金を出させました。
これは速やかに取りかかるべき最優先事項です。アタルヤの影響でバアルに汚された神殿を、一刻も早く修復しなければなりません。
しかし彼らは速やかに取りかかりませんでした。
理由は書かれていませんが、何となく理解はできます。
お金を集めるのは大変です。
税金のように「出しなさい」と言われたら出したくなくなります。
出したくない人に出しなさいと言うのは辛いです。
新約時代の徴税人のように利益を得られるなら嫌われてでもお金を出させられたかもしれませんが、この時代はそうではありません。
自ら進んでささげる
資金が集まらないのでヨアシュは大祭司ヨヤダを呼び、叱ります。
ここでヨアシュはこの集金が、モーセが掟の幕屋のために定めた税が根拠だと言います。
律法ではイスラエルの民は1人当たり半シェケルの銀を納めることになっていました。この律法にある税を集めるため、神殿の門の外に箱を置いてそこに入れるようにしました。
今回は町を巡ってお金を集めるのではなく、自ら進んでささげる形です。
すると高官も民も皆喜んで持って来て、溢れるまで箱に献金が投げ入れられました。
出しなさいと言ったら集まらなかったのに、心のある人はささげてくださいと自主性に任せたら溢れるほど集まったのです。
新約時代にも神殿税というものがありました。
イエス様はささげなくてもよかったのだけれど、ペトロを釣りに行かせて魚の口の中から取れた銀貨1枚を2人分として自主的にささげるようにしました。
現代の教会に神殿税はありませんが、十分の一献金のような定められた献金があります。
このような献金はささげるべきものです。
それでも自主性に任せられています。十分の一献金をささげないからと言って教会員の資格が制限されるようなことはありません。
ささげる自由もささげない自由もある中で、自ら進んでささげることが大事です。
ささげる思いが与えられたら、惜しまずささげてください。喜んでささげられたものは神様が豊かに用いてくださいます。
エルサレム教会が苦しい状況にあったとき、パウロは支援のための献金を呼びかけました。
この時パウロも惜しまず喜んでささげるように言っています。
6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。7 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
コリントの信徒への手紙二9:6-7
この恵みを体験してみてください。
本来あるべき状態に回復する
人々が献金を喜んでささげた結果、神殿の修復に必要な資材を整え、工事の担当者を雇うことができました。彼らによって神殿は元の状態になり、補強されました。
元の状態とは、ソロモンが建設した当初の状態。神が示した図面通りの状態です。
さらに補強も行われ、必要な祭具もそろえることができました。
こうしてヨヤダの生きている間、主の神殿では焼き尽くす献げ物が絶えずささげられました。礼拝も本来あるべき状態に回復しました。
これも人々が喜んでささげた結果です。
民の協力
王が命令しても資金は集まりませんでした。ヨヤダ一人がいてもできないことです。
王、祭司、レビ人、そして民が協力して、神殿の建物と礼拝が本来あるべき状態に回復しました。
私たちも教会を修復し、礼拝を本来あるべき状態に回復しなければなりません。
人間の集まりなので完全な教会はなく、完璧な礼拝もささげられません。必ずどこか足りないところがあります。
しかし不完全な現状に満足してはいけません。最善の礼拝をささげようとするべきです。教会をより良くしていくためにどうしたらいいのか、皆で悩み改革していくべきです。
教会の設備に関しても、皆がより良く礼拝をささげるためにどうしたらいいか考えてみてください。
掃除は行き届いているだろうか。照明、温度、湿度はちょうど良いか。放送はよく行われているか。楽器は活用されているか。礼拝堂の中を見回すだけで様々な必要が見えてきます。
教会の入口は入りやすいか、外の人に情報が提供されているか。
教会内の部屋は活用されているか。
3階の1室を学習室としてリフォームしたので、この部屋を活用していきましょう。
皆さんのアイデアが必要です。祈って与えられたアイデアを教えてください。
それを実現するために体を動かす人が必要です。
献金という形で支えてくださる方も必要です。
オンライン礼拝は、対面の礼拝に比べれば不十分な面が多々あります。
だからと言ってオンライン礼拝をより良くする工夫をしないなら、オンラインだからこそつながれる人に福音を届ける機会を逃しています。
私たちは折が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなさいと命じられています。
礼拝をより良くしていくためには新しいものも取り入れ補強することも大事です。
そのために、喜んでささげる皆さんの協力が必要です。
建物だけでなく心も修復する
4節に「ヨアシュは主の神殿の修復に意欲を示し」とあります。この「修復」という言葉は、ただ建物を直すという意味ではありません。
原語のヘブライ語では、詩編51編12節に出てくる単語と同じ言葉が使われています。
神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。
詩編51:12
この「新しく」という言葉と同じです。
ここでは建物の話ではなく、心の話をしています。罪を犯したダビデが悔い改め、心を新しくしてくださいと神様に祈る詩です。
ですから歴代誌のこのエピソードは、ただ単に建物の修復の話をしているのではなく、人々の礼拝に対する心も新しくするというメッセージが込められているのかもしれません。
人が人の心を変えることはできません。
しかし聖霊が私たちの心を変え、まことの礼拝者に変えてくれます。
パウロも私たちがなすべき礼拝をささげるために心を変えていただく必要があると言います。
1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ローマの信徒への手紙12:1-2
そしてなすべき礼拝とは、生活の中で神に自分をささげる生き方です。
神のかたちが回復する
13節で、修復された神殿は元通りになってさらに補強されたとあります。
これが私たちの礼拝者としての心を表わすのだとしたら、私たちの心が新しくされるとき、私たちは元通りになります。
神に造られた本当の自分になります。
罪によって壊れた神のかたちが修復されます。
礼拝をささげて生きることが本当の自分の生き方だとわかるようになります。
ある人がこう言いました。「クリスチャンになるというのは特別な人間になることではない。本当の人間になることだ。」
クリスチャンはいつも立派な振る舞いをし、喜び感謝しているフリをしなければならないわけではありません。
そのような仮面を取り外し、本当の自分になります。
無理をしてよい行いをしなければならないわけではないし、笑顔で「感謝します」と言おうと努力しなくてもいいです。
しかし本当にイエス様に出会う時、私たちは新しくされます。
罪人である私のためにイエス様が十字架で死んで復活してくださった。
これを本当に受け取ると、古い自分は過ぎ去って新しく造られた人になります。
神の傑作品としての自分が修復されます。
新しく確かな霊が授けられ、いやいやではなく喜んで自分をささげる礼拝者になります。
生活の中で神をほめたたえる人になる
初代教会の弟子たちはまさしく礼拝者に変えられました。
復活の主に出会い、天に昇るのを見届けた弟子たちはどうなったでしょうか。
絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ルカによる福音書24:53
賛美せずにはいられなくなりました。
その10日後、ペンテコステの日に聖霊が降りました。
46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
使徒言行録2:46-47
これが本当にイエス様に出会った人の生き方です。
毎日、絶えず、神を喜びます。
毎日教会に来るかどうかはそれぞれの生活がありますから強制はできませんが、教会で祈って出勤するとか、学校帰りに教会で遊んだり勉強したりするのもいいです。
そうでなくても、家や職場、学校など自分の生活の場で神様をほめたたえてください。
そうすると民衆全体から好意を寄せられるようになります。
そんなに神様をほめたたえて変に思われるようになるのではと恐れなくていいです。
これが本当に人間らしい生き方ですから。むしろ好意を寄せられ、私もあなたのように行きたいという人が日々仲間に加えられます。
私たちが本当にイエス様に出会う時、教会が建て直され、礼拝が回復します。
そして家族や友達、この町の人々から好意を寄せられ、救われる人々が日々与えられます。
そしてこの世界も、本来あるべき状態に回復していきます。