祈りとは

主の祈り1

祈りとは

ヨハネによる福音書14:14

わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

全集中の祈り

 オンライン祈り会をすることになりました。以前は早天祈り会、青年の祈り会、お母さんたちの祈り会、金曜日の夜の祈り会、礼拝前の祈り会と、様々な祈り会が行われていました。
 それがコロナウイルスの影響でことごとく休止になってしまいましたが、このようにオンラインでも祈り会ができることを感謝します。

 そもそも祈りとは何でしょうか。
 皆さんにとっては、もう呼吸のようなものになっているかもしれません。
 生きていくために酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出す。これはもう当たり前のことで、特に意識することはありません。
 祈りも信仰生活の当たり前のものになっていてほしいです。
 リラックスしているときも作業をしているときも、食事のときも寝ているときさえも、呼吸しますね。
 もし呼吸がうまくできなくなると、苦しくなり、やがて命を落とします。
 逆に呼吸をうまくコントロールすることで、力を引き出すこともできます。
 「鬼滅の刃」という漫画の中で「全集中の呼吸」とか「日の呼吸」、「水の呼吸」という言葉が出てきます。呼吸をコントロールすることで、鬼を倒す力が引き出されるわけです。
 もうちょっと身近な例で言うと、腹式呼吸とか、長距離を走るときや泳ぐときの呼吸の仕方とか、「ひっひっふー」という出産時の呼吸法がありますね。
 祈りも学ぶことで、私たちの神の子としての力が引き出されてきます。

祈りの中心は願うこと

 では、私たちは祈りをどのように学ぶことができるでしょうか。
 それはもちろん聖書からです。聖書全体の中に、祈りについて語っている箇所は多くあります。
 そのうちの一つ、ヨハネによる福音書14:14でイエス様はこう言いました。

わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

  祈りの中心は、願うことです。これはキリスト教に限らず、祈りについて一般的に理解されていることですね。
 七夕のときに願い事を書いた短冊を飾ります。クリスマスが近づくと、世界中の子どもたちがサンタクロースにプレゼントをお願いします。これらも祈りの一つのかたちですね。
 願うというのは、願う相手がそれを成し遂げてくれると信頼していなければできません。人に何かを願うときもそうでしょう。
 先日、小学生の勉強を見ました。子どもたちは私に、算数を教えてくださいと言って来ます。でも国語を教えてくださいとは言ってきません。私の日本語のレベルを知っているわけです。
 イエス様は『わたしがかなえてあげよう。』と約束しました。
 だからこの方を信頼して、願うのです。
 ちょっとだけ信頼している人は小さなこと、あるいは漠然としたことだけを願うでしょう。
 しかしものすごく信頼している人は、大きなことも、また細かく具体的なことさえも願うでしょう。
 イエス様を信頼して願っていきましょう。

御心との一致を願う

 ここで注意が必要です。
 人間の願いを叶えてもらうのがクリスチャンの祈りではありません。
 一生働かなくて済むように、サマージャンボ宝くじ7億円を与えてください!という願いも可能でしょう。
 これも大きく、具体的な願いです。
 しかしその方向性がよくありません。
 聖書にはこうあります。

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。

ヨハネの手紙一5:14

 神の御心に適うかどうかは大事なことです。
 もし私が宝くじで7億円を手に入れたらどうなるでしょうか。ダメ人間になるでしょう。私をダメにするようなものを神様が与えるでしょうか。
 だから祈りは、神様の御心と一致することを求めなければなりません。
 かと言って人間に神の御心なんてわかりませんから、神様に忖度して喜ばれるような祈りをしようなんて思わなくていいです。
 コロナウイルスの問題が終息してほしい。でもコロナウイルスの問題の中にも神様の御心があるかもしれない。そうしたらコロナウイルスの終息を願うのは御心に反しているのではないか。
 そんなことを考え出したら祈れなくなります。

罪の告白と感謝を添えて

 そのために私たちは、聖霊様の助けが必要です。
 私たちは神の御心はわからないし、神を知ることも探すこともない者です。

10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。

ローマの信徒への手紙3:10-11

  神様のことを神様の御心から遠く外れている私たちの弱さ、足りなさ、罪を告白するのです。
 そしてこのような罪深い私たちに憐れみを注いでくださる主に感謝をささげましょう。
 そもそも私たちが創造主である神様にお願いできること自体、すごい恵みではないですか。粘土が人に向かって何かを願うことはないでしょう。
 でも神様は人に祈りを与えてくださいました。
 神様は、人とコミュニケーションを取りたいのです。

キリストの名によって祈る

 イエス様は、「わたしの名によってわたしに何かを願うならば」と言いました。
 偉大な大祭司イエスが、神様と私たちとの仲介者になってくださいます。

だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

ヘブライ人への手紙4:16

  私たちは神の御心を忖度して祈る必要はありません。イエス様は私たちの弱さを知っていて、時宜にかなった助けを与えてくださいます。
 だから大胆に恵みの座に近づきましょう。
 そうしていく中で、私たちの願いは御心と一致したものへと導かれていきます。

 整理すると、祈りとはこのようなことだと言えます。
 祈りとは、神の御心に一致する事のために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです。

 祈りは私たちクリスチャンの特権です。神の子としての力を引き出す呼吸です。
 特権は使わなければもったいないです。
 どんなときも祈りましょう。リラックスしているときも作業をしているときも、食事のときも寝ているときさえも。
 忙しくて祈れないですか?
 そういう時こそ祈りの力が必要でしょう。忙しいときこそ、祈り、主の助けを求めるべきです。
 そして祈り会のようなときには集中して祈りましょう。
 「全集中の祈り」で、神様の恵みを豊かに受け取っていく私たちになることを願います。

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