歴代誌講解37
祈りを実現させるもの
歴代誌下 6:3-17
3 王は振り向いて、イスラエルの全会衆を祝福した。イスラエルの全会衆は立っていた。4 王は言った。「イスラエルの神、主はたたえられますように。主は自ら語り、わが父ダビデに約束なさったことを御手をもって成し遂げ、こう仰せになった。5 『わが民をエジプトから導き出した日からこのかた、わたしの名を置く家を建てるために、わたしはイスラエルのいかなる部族の町も選ばず、わが民イスラエルの上に立ついかなる指導者も選ばなかった。6 わたしはただエルサレムを選んで、そこにわたしの名を置き、ただダビデを選んで、わが民イスラエルの上に立てた』と。7 父ダビデは、イスラエルの神、主の御名のために神殿を建てようと心掛けていたが、8 主は父ダビデにこう仰せになった。『あなたはわたしの名のために家を建てようと心掛けてきた。その心掛けは立派である。9 しかし、神殿を建てるのはあなたではなく、あなたの腰から出る息子がわたしの名のために神殿を建てる』と。10 主は約束なさったことを実現された。主が約束なさったとおり、わたしは父ダビデに代わって立ち、イスラエルの王座につき、イスラエルの神、主の御名のためにこの神殿を建てた。11 またわたしは、そこに主との契約を納めた箱を置いた。その契約は、主がイスラエルの人々と結ばれたものである。」12 彼は、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を伸ばした。13 境内の中央に縦五アンマ、横五アンマ、高さ三アンマの青銅の台を造らせてあったので、ソロモンはその上に立ち、イスラエルの全会衆の前でひざまずき、両手を天に伸ばして、14 祈った。「イスラエルの神、主よ、天にも地にもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、15 あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを、今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。16 イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕、父ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの律法に従って歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を絶たず、わたしの前から消し去ることはない』と。17 イスラエルの神、主よ、あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。
見えざる手
岸田首相は生活に困っている人たちへの支援と経済活性化を目的に給付金の支給を行っています。
現在は所得が少ない人のための給付金の申請が始まっています。これは申し込みをしないと受け取れないので、忘れずに申し込んでください。
住民税非課税世帯等に対する臨時特別給付金の確認書等の発送について
昨年末には子育て世帯への給付金がありました。
これがクーポンにするのか現金にするのか、5万円ずつ2回にするのか10万円一括にするのか議論が分かれました。安倍さんがやったみたいに全員一括10万円にすればよかったのに。
もめた要因の一つとして、この給付金は子育て世帯への支援だけでなく経済活性化を目的としているということがあります。
経済を活性化するためには、とにかく使ってもらう必要があります。
現金なら銀行に預けておくこともタンスに隠すこともできます。
クーポンの場合、使用期限を決めておけばその前に使ってもらえます。
しかし子育てという条件があるため、クーポンで買える品物はどこまでなのか線引きをしなければならないし、クーポンを発行する手間もかかります。
このように国が各家庭のお金の使い方を管理しようとすると、色々な問題が生じます。
250年前の経済学者アダム・スミスは「国富論」の中で、個人個人がそれぞれの利益を追求していくと、結果的に社会全体の利益になると言いました。それはまるで、見えざる手によって導かれたかのように。
行動するのは自由意思を持った人間ですが、神の見えざる手によって全体は最善の状態に導かれていきます。
とにかく、神様から与えられた賜物はよく使ってください。
神の口から出た言葉を神の手が成し遂げる
今日の本文はソロモンの祝福と祈りです。
ソロモンはここで主を人であるかのように表現します。
「あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを、今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。」
主の口から語られた約束が主の手で成し遂げられました。
神との人格的な出会い
ところで神様に手があるのでしょうか。口があるのでしょうか。見たことがありません。
ソロモン自身も神様を見たことがありませんが、まるで口があるように、手があるように語ります。
これはソロモンが神様と人格的な出会いをしていたからこそ出てくる表現でしょう。
神の口から出る言葉は実現する
神の口から出る言葉は実現します。
天地創造も「光あれ」と神の言葉によって行われました。
旧約聖書にはメシアの誕生について「おとめが身ごもって男の子を生む」「ベツレヘムから指導者が出る」などの預言があります。それらはことごとくイエス様の誕生で成し遂げられました。
ヨハネによる福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と書かれています。この言はイエス・キリストのことです。
神の約束は、肉となった神の言葉、キリストにおいて現実のものになるのです。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。
イザヤ書55:11
神の言葉は、生きていて力があります。
神の見えざる手に導かれる
御手という表現もあります。
神の約束は主の力強い御手によって成し遂げられていきます。
恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。
イザヤ書41:10
神の手という表現は、神様の働きを象徴します。
神様の手を見た人は誰もいませんが、神の見えざる手に導かれて神の御心が成し遂げられていきます。
それは自転車を支える親の手のようです。
子どもがまだ自転車にうまく乗れない時、自転車の荷台や子どもの背中を親が支えます。
だんだん乗れるようになると、親は手を放します。
子どもからは親の手が見えませんが、後ろで親の手が守ってくれる、支えてくれるとわかるので、安心して自転車に乗れます。
見えなくても力強い手に支えられているので、恐れることはありません。
そのように神の手は見えなくても、現実に人を守り導きます。
神の口、神の手は見ることができませんが、神の御心を実現するものです。
御心は神の言葉に聞き従う人によって実現する
そうすると、神様がその口で語った言葉を神様がその手で実現する。私たち人間は関係ないじゃん。神様どうぞお好きになさってください。と考えることもできます。
しかし神様は自分勝手に御心を実現させるのではありません。
神の口から出た言葉は、神の御手に支えられた人間を通して実現していきます。
神殿は神が約束し人の手で造られた
ソロモンは神殿を背にし、イスラエルの民に向かってこの言葉を語っています。
この神殿は主がダビデに約束したことが実現したものです。
この神の口から出た約束が神の手で勝手に実現したのでないことはソロモン自身、国民自身がよく知っています。
ダビデが準備を始め、民も自ら進んで金銀をささげました。
ソロモンが始めた工事は、7年半かけて民が働いて完成しました。そこには外国人労働者や同盟国ティルスの協力もありました。
神殿は人間の手で建て上げられました。
神の口から出た約束は、神の御手に支えられた人々の手によって現実のものになったのです。
御言葉に聞き従う
特に神の約束は神に従う者によって成し遂げられていきます。
マルティン・ルターは宗教改革の代表的な人物です。宗教改革と言えばマルティン・ルター。マルティン・ルターと言えば宗教改革です。
しかしルター自身は宗教改革をしようとは思っていませんでした。ルターはカトリックの司祭であって、カトリック教会を建て直そうとしただけです。
ルターは聖書を読めば読むほど、当時の教会が聖書からズレていることに気づきました。それで95個の質問を書いて貼り出したところ、宗教改革が始まってしまいました。
ルターがしたことは徹底的に聖書に立ち帰ることです。
徹底的に神の言葉に聞き従おうとした結果、教会は改革されていきました。
このように聖書に立ち帰る人、神の言葉に聞き従う人によって神の御心は実現していきます。
聖書は私たちを羊にたとえます。
イエス様は「わたしは良い羊飼いである」「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言いました。
羊はそれぞれが自分の羊飼いの声に従います。
羊はいつも群れで行動するので、それぞれが羊飼いに従うことで、群れ全体がまるで1つの大きな生き物のように動きます。
またペトロは私たちを生きた石だと言います。
一人一人は石ころのように小さなものです。
その一人一人が御言葉に聞き従い、その置かれた場所で石を積み上げていきます。
こうして神殿が建てられ、神の国が建て上げられていきます。
一人一人が主に聞き従うことで、この地に主の御心が行われ、神の国が建て上げられていきます。
主の名による祈りは実現する
神の約束を実現していく上でもう一つ人間に求められるのは、主の名による祈りです。
今日の本文には主の名という表現も繰り返し出てきます。
エルサレムは主の名が置かれる場所として選ばれた。そしてダビデの息子によって主の名のための神殿が建てられると主が約束しました。
神殿は主が名を置く場所として選んだ場所です。
聖書の時代において名前というのはその存在の本質を表すものだと考えられていました。神殿に主の名が置かれるということは、神殿には神様ご自身がおられるということです。
だから神殿に向かって祈ることは必ず成し遂げられるのだと、ソロモンは信じています。それでソロモンはひざまずき両手を上げ、神殿に向かって祈りをささげます。
イエス様の御名で祈る
この主の名が置かれているところに向かって祈るというのは、私たちもしていることです。
主の名によって祈る。いつも祈りの最後に「イエス・キリストの御名によって祈ります」などと言いますね。
このように祈るのは、イエス様が教えたからです。
わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
ヨハネによる福音書14:13
主の名によって祈るなら何でもかなえると、イエス様がとんでもない約束をしています。
何でもと言っても、主の御心にかなうことが前提です。
だから祈りが実現していくために、主の約束の言葉に基づき、主の御手に支えられ、イエス様の名によって祈ることが大事です。
御心の天になるごとく地にもなさせたまえ
祈りの模範は色々ありますが、特に重要なのは主の祈りです。イエス様自身が、このように祈りなさいと言って教えた祈りです。
その主の祈りの中でこう祈ります。
「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。」
礼拝の初めや毎日の祈りの中で、「神様の御心が天で行われるように地でも行われるようにしてださい」と祈ります。
主の祈りは、こう唱えたら何だかよくわからないけどハッピーになれますという呪文ではありません。
主の祈りは、私たちの祈りです。だから自分のこととして、私たちはこう願っていますと心を込めて祈ります。
私たちは御心がこの地で行われることを願っています。
天では天使たちが御心を行います。では地上では誰が御心を行うのでしょうか。
私たちです。私がここにいます。私を用いて、御心がこの地で行われるようにしてくださいと祈るのです。
今週一週間もそれぞれの生活の場所で、御言葉に聞き従って祈りをもって御心を行っていきたいですね。
神様の御心、神様が願っておられることは何か、それはそれぞれが神様に聞く必要があります。
今週、あるいは今日、神様は私に何を願っているのだろうか。
愛を表現することで御心が行われる
大まかに言うと、神様は私たちを通して愛を行いたいと願っていると言えます。
愛は表現して、伝わって初めて愛になります。心の中で抱いているだけではダメだし、相手が愛として受け取れないものは愛になりません。
一年の中に何度か、堂々と愛を表現できる日があります。
誕生日はその人の存在そのものを喜ぶ日。一言おめでとうと祝福を伝えてください。
クリスマスはすべての人への喜びの知らせが伝えられた日。互いにプレゼントを贈りあってください。
そしてバレンタインデー。
女性から男性にチョコレートを贈る日みたいに思われていますが、バレンタインは愛を表現する日です。性別や贈り物の内容は何でもいいです。
こうして愛を実践していくとき、確実に御心がこの地で成し遂げられていきます。
神の口から出る言葉は神の手によって成し遂げられる。
ただしそれを行うのは神の言葉に聞き従い、イエスの名によって祈る私たちを通して成し遂げられます。
祈りを実現させるものは、主の約束の言葉、主の御手、そして私たち自身です。
私たちを通して御心が天で行われるように地でも行われます。