エゼキエル書講解54
神がここにいる
エゼキエル書 48:30-35
30 都の出口は、次のとおりである。北側は長さ四千五百アンマである。31 都の門はイスラエルの部族の名にしたがって、北の方に三つの門がある。ルベンの門が一つ、ユダの門が一つ、レビの門が一つである。32 東側も長さ四千五百アンマである。そこに三つの門がある。ヨセフの門が一つ、ベニヤミンの門が一つ、ダンの門が一つである。33 南側も長さ四千五百アンマである。そこに三つの門がある。シメオンの門が一つ、イサカルの門が一つ、ゼブルンの門が一つである。34 西側も長さ四千五百アンマである。そこに三つの門がある。ガドの門が一つ、アシェルの門が一つ、ナフタリの門が一つである。35 都の周囲は一万八千アンマである。この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。
名は体を表す
「そら」と言うと何か開かれた感じがしませんか。
「ぼう」と言うと何か真っすぐ伸びていく様子が目に浮かびませんか。
名は体を表すという言葉があります。
名前とその物の様子が一致することがあるということです。
つよしという名前の強い人や、しずかという名前の静かな人がいると、名は体を表すのだなと思います。
食べ物の名前を知らない人に、どちらがマシュマロでどちらがせんべいか、選んでもらったらどうでしょう。
シフォンケーキとガトーショコラ。
シュークリームとサーターアンダギーはどうでしょう。
聖書の中でもそういうことがあります。
アブラハムというのは「多くの国民の父」という意味があります。その通り、アブラハムの子たちは世界中に広がっています。
モーセというのは引き出すという意味があります。その通り、モーセはイスラエルの民をエジプトから引き出しました。
そしてイエスという名前は「神は救う」という意味があります。救い主の名前として天使が告げた名前がイエスでした。
名前には意味が込められています。こうなるように、という親の願いもあります。
それ以上に、神様の約束が込められているのです。
都の新しい名
今日の本文はエゼキエル書の最後の場面です。
新しい都には12の門があります。
人々はこの都を「主がそこにおられる」という名前で呼びました。
エゼキエルたちが置かれている状況は、反対に主から見捨てられたような状況でした。どうしてエルサレムが「主がそこにおられる」と呼ばれるようになると信じることが可能でしょうか。
私たちが今どのような状況にあっても神の約束を握っていくためにはどのようにすればいいのか、共に見ていきたいと思います。
神の未来をつかむ
まず現実の問題の中で、神の約束をどうして期待することができるのでしょうか。
悲惨な現実
名前と状態が一致しないこともあります。名が体を表していない。
体の弱いつよしくん、声の大きなしずかちゃんだっています。
さわやかという名のハンバーグ屋もあります。
ここからちょっと南に行くと田町がありますが、田町に田んぼはありません。
エルサレムという名は「平和の町」という意味ですが、エルサレムが平和だった時代があったでしょうか。
現実と名前が矛盾しています。
その名前に神の約束が込められているなどと、どうして信じることができるでしょうか。
新しい都の幻
エゼキエルたちが置かれている状況もそうでした。
彼らは捕囚にあいました。国は滅びました。神殿から主の栄光は去り、破壊し尽くされました。
祭司として働くことを夢見てきたエゼキエルですが、もう祭司として働く場所すらありません。
捕囚になってもう25年。何を期待することができるでしょうか。
そこで主は新しい神殿の幻を見せるのです。
エルサレムは建て直され、神殿に主の栄光が帰って来ます。
祭司としての役割を主が再び告げます。
都の大きさは1辺が4500アンマです。この幻の中での1アンマは約52.5㎝なので、だいたい2.3㎞。
問題は、これがいつ実現するのかです。
まだそのような神殿は建てられていません。
この幻は黙示録につながります。
2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
黙示録21:2-4
イエス・キリストが帰って来て、新しいエルサレムが来ます。
この都の大きさは1辺が12000スタディオンです。1スタディオンは約185mなので、だいたい2.2㎞。エゼキエルが見たのとほぼ同じサイズです。
聖所から川が流れ、川岸に木が生えているのも一致します。
エゼキエルが見た幻は、最後の日に完成するということです。
ということは私たちはそれまで待たなければならないのでしょうか。
世の終わりのラッパが鳴る時まで?イエス・キリストが雲に乗って来る時まで?
いつですか?
それまでこの苦しい現実を耐えなければならないのか。
それではただの気休めでしかありません。何も解決されません。
マルクスは「宗教はアヘンだ」と言いましたが、信仰がただの気休めに過ぎないなら、確かに宗教はドラッグと同様に危険なものでしょう。
いや、私たちの信仰は空しい希望や現実逃避の思い込みではありません。
信仰は、現在進行形の現実であり、世に打ち勝つ勝利です。
私たちは神の未来を、今ここに持って来ることができます。
神の幕屋は私たちの間にあり、神はここに生きています。
小羊の玉座から流れる命の川は私たちの心の内から溢れ流れ、私たちの周りに命が溢れます。
また、イエス・キリストの十字架の死と復活は2000年前の事件です。
しかし私たちはそれを今ここに持ってきて、この私のために血を流されたキリストと共に死に、復活のキリストと共に新しい命を持って立ち上がります。
天と地をつなぐ鍵はここにあります。
神の国はもう来ている
神の国はもうここに来ています。
だから目の前の現実に左右される必要はありません。
自分の罪に悩むことがあるとしても、その罪はもうイエス・キリストが償ってくれました。
神は私たちを義と認め、神の子として扱っています。
職場や学校や家庭、この町に問題があるとしても、私たちはここに神の国を持って来ることができます。
神の国のビジョンを持ってこの世界を見渡してみてください。
どういう家族を築いていきたいですか。どういう社会になったらいいと思いますか。
私たちがここに神の国が臨むと信じるなら、そうなります。
御心に適った祈りは、既に成し遂げられているからです。
御国が来ますようにと祈り続けましょう。
神の国は今日、私たちの間にあります。
世界に開かれた門
次に今日の本文の30節から34節に『30 都の出口は、次のとおりである。北側は長さ四千五百アンマである。31 都の門はイスラエルの部族の名にしたがって、北の方に三つの門がある。ルベンの門が一つ、ユダの門が一つ、レビの門が一つである。32 東側も長さ四千五百アンマである。そこに三つの門がある。ヨセフの門が一つ、ベニヤミンの門が一つ、ダンの門が一つである。33 南側も長さ四千五百アンマである。そこに三つの門がある。シメオンの門が一つ、イサカルの門が一つ、ゼブルンの門が一つである。34 西側も長さ四千五百アンマである。そこに三つの門がある。ガドの門が一つ、アシェルの門が一つ、ナフタリの門が一つである。』 とあります。
神の国は誰のためのものでしょうか。
神の国に入るのは誰か
神の国に誰が入ることができるのでしょうか。
入口には門があります。
門は、中に入るのにふさわしい人とそうでない人を区別する役割があります。
自分は神の国にふさわしい人間だと胸を張って言える人は誰かいますか?
もし自分こそふさわしいと思っていたら、ちょっと危険です。
多くの人は、自分のような人間は神の国にふさわしくないと直感的に感じています。
教会という場も、神聖な場所で、結婚式のような特別な機会でないと入れないと思っている人が多くいます。
神の国の門は、誰に向かって開かれているのでしょうか。
門は開かれている
新しい都には東西南北それぞれ3つの門があります。あわせて12の門です。
この門にはヤコブの12人の息子たちの名前が付けられています。
イスラエルの12部族の中でマナセとエフライムは父ヨセフの名前でまとめられ、レビも入っています。要は全イスラエルということです。
とすればやはり新しいエルサレムは、イスラエル人のためのものなのでしょうか。
いいえ、神の国はイスラエルの民のものです。つまり神の民のものです。
誰がアブラハムの子でしょうか。
アブラハムの最初の子はイシュマエルですが、祝福を受け継いだのはイサクです。
イサクこそ、約束の子、信仰の子だからです。
血統による子ではなく、信仰による子こそ真のイスラエルであると言えます。
だから私たちイエス・キリストを信じる者は、神の民です。
24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。25 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。
黙示録21:24-25
黙示録によれば12の門はいつも開かれています。
東西南北、世界中に向かって開かれています。
本来はふさわしくない私たちですが、神は私たちの名前を呼び、招いています。
イエス・キリストが十字架で死なれたとき、至聖所の幕は真っ二つに裂けました。
だから私たちは唯一の羊の門であるイエス・キリストを通し、大胆に恵みの座に近づくことができます。
今日私たちがここに集まり、共に礼拝をささげていることも、主が門を開き、招いてくださっているからです。
諸国の民の栄光を携えて入る
この門を通り、諸国の民が栄光を携えて上ってきます。多様な人が神の国に集まります。
神の国には、色々な人がいていいのです。
この人はいい、この人はダメだと裁くのは私たちの役割ではありません。
神の国がここに来ているのだとすれば、私たちも門を開け、多様な人々を歓迎していきたいものです。
私たちの頭の中には色々な差別があります。
クリスチャンはこうあるべきだという固定観念もあります。
そのために門を閉じてはいないでしょうか。
段差や階段などハードの部分は簡単に変えられないので、車イスや足腰の弱い方には物理的に苦労をかけてしまって申し訳ないです。
しかし通訳や情報発信など、ソフトの面で門を開く工夫はいくらでもできるでしょう。
日本語の不自由な方、幼い子どものいる方、自分は神の国にふさわしくないと自分の罪汚れを知っている人にこそ、教会の門を開いていきたいです。
できれば教会の扉に鍵をかけるのもやめたいのですが…。防犯上難しいですね。
去年の年末に、他教会の信徒さんとしばらく早天祈り会をしました。
最近、そこで祈っていたことが成し遂げられそうだと、うれしい報告を聞きました。本当に感謝です。
教会は色々な人が、気軽に来れるカフェのような場所であってほしいと願っています。
教会はすべての民の祈りの家なのですから。
名前の通りになる
最後に今日の本文の35節に『35 都の周囲は一万八千アンマである。この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。』 とあります。
私たちは神の国の民としてどのように生きていけばいいのでしょうか。
名は体を表す
エゼキエル書は新しい都の名前で終わります。
その名前は「主がそこにおられる」
ヘブライ語でアドナイ・シャンマです。
人々はこの都を見ながら、そう呼ぶわけです。
人は名前を付けることで、色々な物を区別します。
物の名前。これはペンです。ペンと言っても、ボールペン、シャープペンシル、蛍光ペン。色々ありますが、名前を付けて区別します。
動きにも名前を付けます。座る。立つ。回る。
感情もです。喜び、怒り、悲しい、楽しい。
状態を表す名前もあります。大きい、小さい、暑い、寒い。
その特徴に注目して名前をつけることもあります。カブトムシ、ひまわり、山下町。
アダムもそのように名前を付けたのでしょうか。
名前を付けると言うのは神のかたちとしての人間の知性の表れだと言うこともできます。
その特徴が明らかなら、人々は言語を超えて、同じような名前をつけるでしょう。
私たちは神の民ですが、神の民であることを特徴づけるものは何かあるでしょうか。
主がそこにおられる
私たちはクリスチャンですが、クリスチャンという呼び方はアンティオキア教会から始まりました。
自分たちでそう呼んだのではなく、人々からそう呼ばれました。
意味は、「キリスト中毒者」です。
キリストを信じて変わってしまった人たちなので、バカにする意味でクリスチャンと呼ばれました。
しかしアンティオキア教会の人々は、バカにされても気にしません。むしろ自分たちでもクリスチャンだと名乗るようになりました。
事実、キリストに出会って変えられてしまった、クリスチャンだからです。
新しい都の特徴は何でしょうか。
それは主が共におられるということです。
私たちは神を捨て、神から離れて生きてきました。
神は死んだと言う時代に生きています。
世界は悲惨さを増し、人々は生きる指針を見失っています。暗闇のような状況です。
しかし神がここにおられるなら、どうなるでしょうか。
愛があふれ、人々は神に向かい、夕べになっても光がある。
そのような特徴が明らかになるとき、人々は誰かに教えられなくても、「主がそこにおられる」と言うようになります。
ユダヤ人なら「アドナイ・シャンマ!」と言うでしょう。
日本人も、特に関西の人は、その栄光に畏れを抱き、「あー、どないしよー」と言うかもしれません。
人々の目に明らかになる
だから私たちは、神がここにいるということを周りに表していきましょう。
命の水を、溢れ流していきましょう。
それは、互いに愛し合うことを通して表されます。
34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ヨハネによる福音書13:34-35
バレンタインデーが近いですね。
日本では女性が男性に愛を表現する日と考えられています。私はそういう考えが嫌いです。男とか女とか関係なく愛を表現したらいいです。
好きな相手じゃなくても、愛することにチャレンジしたらいいです。
敵のような人にも、チロルチョコでも5円チョコでもいいからあげてみたらどうですか。
私たちがそのように愛をもって生きるとき、人々は神がここにいると知るようになります。
今の現実がどうであったとしても、約束された神の国は今ここに来ています。
門を開き、神の愛を表していくとき、人々は神がここにいると知るようになっていきます。