歴代誌講解47
神と戦ってはならない
歴代誌下 13:1-15
1 ヤロブアム王の治世第十八年に、アビヤがユダの王となり、2 エルサレムで三年間王位にあった。母は名をミカヤといい、ギブア出身のウリエルの娘であった。アビヤとヤロブアムの間にも戦いは続いた。3 アビヤは四十万のえり抜きの戦士から成る軍隊をもって戦いに臨み、ヤロブアムも八十万のえり抜きの戦士をもって戦いに備えた。4 アビヤは、エフライム山地のツェマライム山の上に立って言った。「ヤロブアムとイスラエルのすべての人々よ、わたしに耳を傾けよ。5 イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルを治める王権をとこしえにダビデとその子孫に授けられたことを、あなたたちが知らないはずはない。6 ダビデの子ソロモンに仕えていたネバトの子ヤロブアムは立ち上がって自分の主君に反逆し、7 また命知らずのならず者が彼のもとに集まって、ソロモンの子レハブアムを圧迫した。レハブアムはというと、若すぎて気も弱く、彼らに立ち向かうことができなかった。8 そして今あなたたちは、おびただしい軍勢と、ヤロブアムがあなたたちのために造って神とした金の子牛を頼みとして、ダビデの子孫の手にある主の王国に立ち向かおうとしている。9 また主の祭司であるアロンの子らとレビ人を追い払い、諸国の民と同じように自分たちの祭司を立てているではないか。若い雄牛一頭と雄羊七匹をもって任職を願い出た者が皆、神でないものの祭司になっている。10 しかし、我々にとっては、主が我々の神であり、我々は、その主を捨てはしない。主に仕える祭司はアロンの子孫とレビ人で、その使命を果たしている。11 彼らは朝ごと夕ごとに主に焼き尽くす献げ物を燃やして煙にし、香草の香をたき、純金の聖卓にパンを供え、夕ごとに金の燭台とそのともし火皿に火をともす。我々は我々の神、主に対する務めを守っているが、あなたたちはそれを捨てた。12 見よ、神が頭として我々と共におられ、その祭司たちは、あなたたちに対する進軍のラッパを吹き鳴らそうとしている。イスラエルの人々よ、勝ち目はないのだから、あなたたちの先祖の神、主と戦ってはならない。」13 ヤロブアムは伏兵を迂回させて、相手の背後から襲わせようとした。こうして彼らはユダの人々の前方にいて、その後方には伏兵がいた。14 ユダの人々が見回すと、前方にも後方にも戦いが迫っていたので、主に助けを求めて叫び、祭司たちはラッパを吹いた。15 そしてユダの人々は鬨の声をあげた。ユダの人々が鬨の声をあげると、神はアビヤとユダの人々の目の前でヤロブアムとイスラエルのすべての兵を撃退された。
沖縄復帰50年
今日は沖縄復帰50年の日です。
第2次世界大戦で沖縄には米軍が上陸し、地上戦が行われました。民間人を含む18万人が犠牲になっています。
戦後日本は連合国の統治下に置かれました。戦争の放棄などをうたった日本国憲法が制定され、日本は平和国家として歩み出します。
しかし東アジアの情勢は不安定で、中華人民共和国、北朝鮮、北ベトナムといった共産主義国家が成立していきます。朝鮮戦争やベトナム戦争も起こりました。そうした中で日本はアメリカにとって重要な土地になります。
1952年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本は主権を回復。連合国による統治は終了しました。しかしこの条約で沖縄はアメリカの管理下に置かれることになっていました。
沖縄の人々は日本国籍を持っていましたが、本土との行き来はパスポートが必要でした。道路は右側通行でした。
日本は高度経済成長を迎え、新幹線が走り、東京オリンピックを開催するなど発展していきます。しかし沖縄は置き去りにされました。
近年アメリカが公開した資料によって、沖縄には核兵器が配備されていたことも明らかになりました。
アメリカから核兵器を落とされ、核兵器を持たず、作らず、持ち込ませないと誓う日本の沖縄にアメリカの核兵器が置かれていたのです。
沖縄は日本として扱われていませんでした。
日本政府はアメリカと交渉を続け、ちょうど50年前の1972年5月15日、沖縄は本土に復帰します。
しかし沖縄は今も大きな負担を背負わされています。
沖縄県民の所得は全国平均の4分の3です。
日本にある米軍基地の70%は沖縄にあり、沖縄本島の面積の14.5%が米軍基地です。
戦後77年になりますが、戦争は過去のものではありません。
戦争は戦時中も多くの犠牲を生み、戦後も長い間人々を苦しめます。悲劇しか生みません。
戦争を祝福した教会の偉い人もいましたが、聖なる戦いなどはなく、神が望む戦争などありません。
アビヤの山上の説教
今日の本文は南ユダ王国2代アビヤ(アビヤム)王の話です。
アビヤ王について、列王記はレハブアムの罪を引き継いだ悪王として記録しています。分量は8節。
それが歴代誌では23節も割かれています。約3倍です。
内容は北イスラエルとの戦いの記事だけなのですが、神の側に立って戦った良いリーダーとして描かれています。
とても対称的です。
なぜ歴代誌は列王記と真逆とも見える記事を記録したのでしょう。
それは歴代誌の著者にとって、アビヤ王個人の働きにほとんど関心がなかったからだと言えます。
歴代誌の著者にとって大事なのは、神様が何をなさったか、でした。
対称的な南ユダと北イスラエル
北イスラエルと南ユダの対立は続いていました。
アビヤは40万の軍隊をそろえて戦いを挑みます。
北イスラエルのヤロブアム王は2倍の80万の軍隊で迎え撃とうとしています。
アビヤはまず山の上に立ち、北イスラエルに向かって呼びかけます。アビヤの山上の説教です。
アビヤはまず、主がイスラエルと結んだ塩の契約について語ります。
塩の契約という言葉は民数記に出てきます。塩漬けされた食べ物が腐らないように、永遠に変わることがない約束という意味です。
ここでは主がダビデとその子孫にイスラエルを治める王権をとこしえに与えたということを思い起こさせます。
ダビデとその子孫は、主が立てた王でした。
それなのにヤロブアムはソロモンとレハブアムに反逆した。
レハブアム王は若く意志も弱く、ヤロブアムに立ち向かうことができませんでした。
一方のヤロブアムが立ち向かったのは、主の王国です。
ダビデ王朝は主が立てた王朝。主を頼り、主が任命した祭司たちがおり、主を礼拝しています。
北イスラエルは自らが王となろうとした人が王となり、人の手で造った金の子牛の像を頼り、人の功績によってその地位を買い取った祭司たちがおり、勝手な礼拝をささげています。
神様を中心とした南ユダ王国と神様を無視し捨て去った北イスラエル王国。
とても対称的です。
イスラエルよ、神と戦うな
そしてアビヤは説教のまとめとして言います。
「見よ、神が頭として我々と共におられ、その祭司たちは、あなたたちに対する進軍のラッパを吹き鳴らそうとしている。イスラエルの人々よ、勝ち目はないのだから、あなたたちの先祖の神、主と戦ってはならない。」
イスラエルをエジプトから導き出した万軍の主と戦うことは愚かなことです。
神から離れては人に勝ち目はありません。
だから神と戦ってはならない。
このように停戦を呼び掛けています。
神の言葉を語ったアビヤ
アビヤは兵をそろえていますが、積極的に戦おうとしているわけではありません。
イスラエルと戦わざるを得ない状況になり、神と戦ってはならないと呼びかけ、イスラエルが神に立ち帰るよう促しています。
これらの言葉は申命記の戦いについて書かれた箇所を思い起こさせます。
律法によれば、戦いの時には主が共にいることを思い起こさせ、敵に降伏を呼びかけます。
アビヤは律法に基づいて語っています。
これはアビヤ自身の言葉というより、神の言葉です。
まさしくアビヤは説教を語っています。
神中心と人間中心
アビヤの治世は全体的に見れば主と一つの心ではありませんでした。
しかしアビヤは神を中心にし、神の言葉をイスラエルに語ったことが少なくとも1度はありました。
歴代誌の著者はこの1点に焦点を合わせています。
神が中心です。
それに対し北イスラエルは人間が中心です。
自分のしたいことをし、自分に都合のよい神を作ります。その神を頼りとし戦争を起こし、他人の物や命を奪おうとしています。
これは神に敵対することです。
イエスの山上の説教
イエス・キリストは山上の説教のちょうど真ん中あたりで言いました。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書6:33
イエス様も山の上から、神様を中心にしなさいと呼びかけています。
人間中心の罪
人は神から自由意思が与えられています。だから人間には自分のしたいことを自分で選択し実行する自由があります。
しかしそこで神を忘れてはいけません。
神を無視して自分のしたいことをしたらどうなるのでしょう。
あの木の実おいしそう、食べちゃおう。
そこで神を思い起こすなら、神の言葉を思い出し、神様が喜ぶ生き方を追い求め、サタンの誘惑を退けることができます。
そのように神様を中心にして自分の人生を選び取る自由も与えられていました。
神を忘れて自分のしたいことをしようとするなら、人は神を捨て、神に敵対します。
キリストと共に生きる人生
生活の中で神を忘れてしまっていませんか。
私はこれをしたいという自分の意志を持つことは大事です。それも神から与えられた自由な思いです。
そこで神は私に何を願っているのかという神の願い、神の計画を忘れないでください。
そして神は、神を捨て敵対した人間を救うために独り子イエスを十字架で死なせ、救い出してくださいました。
私たちには復活のキリストと共に新しい命が与えられています。
それならばこの命を何のために使いたいと願いますか。相変わらず自分中心に生きられますか。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙2:20
キリスト中心の人生に変えられていきます。
神を愛する人生。そして神が愛しておられる隣人を愛する人生に変えられていくのです。
そのような人生を選び取る自由をキリストが与えます。
もはや自分の利益を優先して生きることはできず、神様のため、誰かのためにささげたいという願いがわいてきます。
神様の願いに心を向ける
神様を無視することは神様に敵対することです。
神と戦ってはなりません。
神様は何を願っておられるのか。
御言葉を聞きながら、祈りながら、神様中心に生きることを選び取ってください。
戦うべき相手は誰か
アビヤは北イスラエルの人々に向かって説教を語ったわけですが、彼らは悔い改めず、生き方を変えませんでした。ヤロブアムは結局戦いを挑んできます。
2倍の兵力を持つヤロブアムには、アビヤの説教がただのはったりのように聞こえたかもしれません。
ヤロブアムは自分の策略を実行に移します。兵を2手に分け、片方を南ユダ軍の背後に向かわせ挟み撃ちにしました。
神を求めた南ユダ
敵に挟まれたことに気づいた南ユダの兵たちはどうしたでしょう。
絶体絶命の状況に恐れませんでした。
彼らは主に助けを求めて叫び、祭司たちはラッパを吹き鳴らしました。
神を求めたのです。
そして彼らがときの声を上げて戦うと、北イスラエルのすべての兵を撃退することができました。
神が敵と戦う
勝ち目のない状況で敵が総崩れになる。
エリコの戦いもそうでした。
ただ城壁の周りを回り、祭司がラッパを吹いてときの声を上げると城壁が崩れました。
人間の力でできることではありません。ただ神が与えてくださった勝利です。
これらの戦いは、神ご自身が戦われた神の戦いです。
神と戦って勝ったイスラエル
イスラエルは神と戦い、神に打ち破られてしまいました。
イスラエルという名には、神と戦う者という意味があります。
創世記にその起源が記されています。
その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
創世記32:29
ヤコブは神と戦って勝ち、イスラエルとなりました。
神と戦ってはならないという話をしていますが、イスラエルは神と戦って勝っています。説得力がなくなりますね。
ただ、イスラエルと神との戦いは、神に敵対する戦いではありませんでした。
この戦いはレスリングのような格闘として描かれていますが、祈りだったと見ることもできます。
自分の策略で生きてきたヤコブ
ヤコブは自分の策略で生きてきました。
こうすればお兄さんをだまして長子権を奪い取れる。こうすればお父さんをだまして祝福を勝ち取れる。こうすればかわいいラケルちゃんと結婚できる。こうすればラバンおじさんを出し抜ける。
そのヤコブが20年ぶりに兄のエサウと再会することになりました。
かつて自分がだまし、自分の命を狙っていた兄です。
どうにか受け入れてもらおうと、会う前に贈り物をし、妻と子どもを先に行かせました。
そこで気をよくしたところで会おうと、自分は最後に残るのです。
生き方を改め、徹底的に神にすがりついたヤコブ
その夜、自分の手札を使い果たしたヤコブには、しなければならないことが残っていました。
それが神との格闘です。
ヤコブは夜通し神と戦います。
「神様、これまで私は自分中心に生きてきました。しかしこの生き方ではダメだと気づきました。これからは神様中心に生きます。神様、どうか私に顔を向けてください。私を祝福してください。あなたが祝福してくださるまで、私はあなたを離しません!」
このような戦いです。
ヤコブは神と戦って勝ち、ヤコブの祈りを神は聞き、イスラエルという名をもらいます。
戦うべき相手を間違えてはならない
イスラエルが戦うべき相手は南ユダではありません。神に敵対し、神の王国に立ち向かうべきではありません。
イスラエルが戦うべき相手は自分中心に生きる自らの罪、また神に敵対させようとするサタンです。
そして父祖ヤコブがしたように、徹底的に神にすがりつくという戦いをするべきです。
私たちも戦う相手を間違えてはいけません。
人間が起こす戦争に神の祝福などありません。
私たちは自分たちの罪と戦わなければなりません。
神の偉大な力で強められ、霊的戦いを戦い抜かなければなりません。
私たちにも徹底的に神にすがりつく祈りの戦いが求められています。
神はあなたに何を願っておられるのでしょうか。神の言葉はあなたが変わるべき点を指摘していないでしょうか。祝福してくださるまでは離さないと、神の祝福を慕い求めていますか。
このように徹底して神を求めてください。