歴代誌講解46
神に従うことを学ぶ
歴代誌下 12:1-12
1 レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、すべてのイスラエル人と共に主の律法を捨てた。2 レハブアム王の治世第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来た。彼らが主に背いたからである。3 彼は戦車千二百両、騎兵六万を擁し、彼がエジプトから率いてきたリビア人、スキイム人、クシュ人の民は数えきれないほどであった。4 彼はユダの砦の町を次々に陥れ、エルサレムにまで迫った。5 預言者シェマヤが、シシャクのことでエルサレムに集まっているレハブアムとユダの将軍たちのところに来て言った。「主はこう言われる。『あなたたちはわたしを捨てた。わたしもあなたたちを捨て、シシャクの手に渡す。』」6 イスラエルの将軍たちは王と共にへりくだって言った。「主は正しい。」7 主は彼らがへりくだるのを御覧になった。主の言葉がシェマヤに臨んだ。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさず、間もなく彼らに救いを与える。わたしの怒りをシシャクの手によってエルサレムに注ぐことはしない。8 ただし、彼らはシシャクに仕える者となり、わたしに仕えることと、地の王国に仕えることとの違いを知るようになる。」9 エジプトの王シシャクはエルサレムに攻め上り、主の神殿と王宮の宝物を奪い取った。彼はすべてを奪い、ソロモンが作った金の盾も奪い取った。10 レハブアム王は、その代わりに青銅の盾を作り、王宮の入り口を守る近衛兵の長たちの手に託した。11 王が主の神殿に来る度ごとに、近衛兵たちは来てその盾を持ち、また近衛兵の詰め所に戻した。12 王がへりくだったので、主の怒りは彼から離れ、彼が徹底的に滅ぼされることはなかった。ユダにも良い事があった。
継続して感謝する方が良い
ゴールデンウィークはどのように過ごしましたか。
ずっと連休だった方。カレンダー通りに平日を挟んだ連休だった方。休日関係なく仕事だった方もいますね。家族や友人と出かけた方、普段できないことをした方、ごろごろ寝て過ごした方、浜松まつりを楽しんだ方、いつも通りの日常を過ごした方もいるかと思います。
今年は3年ぶりに行動制限がないゴールデンウィークになりました。久しぶりに家族親戚で集まったという方も多いのではないでしょうか。
もしゴールデンウィークを家族で過ごせなかった人も、今日は母の日ですから、お母さんに感謝を表していただきたいと思います。
普段は感謝を表現してこなかった人が、ありがとうと言ってくれたりプレゼントを贈ってくれたりするとうれしいですね。
しかしそのうれしさは普段とのギャップから作られたものです。
母の日に喜んでもらうために、普段はあえて感謝を表さないというのは良くありません。
母の日は感謝してくれたのに、次の日から感謝しなくなったら悲しいですね。
普段から継続して感謝を表す方が良いです。
普段は神に従ってこなかった人が神に立ち帰ったら、そのギャップに喜びます。
その人がまた神に背くとがっかりします。喜びは帳消しです。
普段から継続して神に従うのが良いです。
悔い改めることは良いこと
今日の本文はレハブアムの治世の後編です。
南ユダ王国は神様を優先する人たちの存在によって祝福され、強くされました。しかしそれは3年の間だけ。
神様の恵みで強くされたのに、レハブアムは力をつけると、神様から離れました。律法を捨て、神の言葉に聞き従うことをしなくなりました。王が神から離れると、民も神から離れて行きます。
エジプト軍の侵攻
神から離れたレハブアムは、神の恵みに生かされていたことを思い知らされます。
レハブアムの治世第5年、エジプトのファラオ、シシャクが大軍を率いて攻め込んできました。エジプトだけでなく、その周囲の民も加わった連合軍です。
シシャクは北イスラエルの王ヤロブアムとつながりがありました。ヤロブアムがソロモンから逃れてエジプトに亡命した時、彼をかくまったのがシシャクでした。ヤロブアムがシシャクの娘と結婚したとする記録もあります。ヤロブアムはシシャクの婿ということになります。
そしてヤロブアムの北イスラエルと南ユダは対立している。
だからシシャクは南ユダを攻めたわけです。
南ユダの民はこの連合軍になすすべなく、首都エルサレムまで進軍を許します。
レハブアムは神殿と王宮の宝物、ソロモンの金の盾を差し出して連合軍に撤退してもらいました。
命を守っていた者から離れると命を危険にさらす
南ユダがエジプトに攻め込まれた経緯はこのように説明できます。
しかし歴代誌の著者は明確に「彼らが主に背いたから」攻め込まれたのだと言います。
預言者シェマヤも言いました。「主はこう言われる。『あなたたちはわたしを捨てた。わたしもあなたたちを捨て、シシャクの手に渡す。』」
あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。これは必然的なことです。
命を守っていたものから離れれば、命を危険にさらします。
魚が水から出ると生きられません。
枝が折られると枯れます。
信号を無視すると事故にあいます。
命の源である神から離れては、人は生きていけません。
シシャクがヤロブアムを支援するために南ユダを攻めたなら、なぜ5年も待ったのでしょう。
1~2年のうちに攻めて南ユダを滅ぼすこともできたのではないでしょうか。
しかしシシャクは手が出せなかった。レハブアムが3年間は神に従ったからです。
ユダにも良いことがあった
レハブアムと将軍たちはシェマヤが伝えた神の言葉を聞き、告白しました。
「主は正しい。」
彼らは自分たちの間違いに気づきました。
力がつき、自分の力で生きられると思っていた。
しかし実際は神の恵みで生かされていただけだった。
神なしには生きられない。神が正しい。
こうして彼らはへりくだり、神に立ち帰りました。
彼らがへりくだったのを見て神は南ユダを徹底的に滅ぼすことはしませんでした。
「ユダにも良い事があった。」と記されています。
悔い改めたことはレハブアムの良い点として評価されています。
神から離れて生きる愚かさを知る
神から離れて生きることの愚かさを知らなければなりません。
まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。
エレミヤ書2:13
命の水の源から離れては生きられません。
自分の力で水溜めを作ったとしても、それは不完全で、空しくなるだけです。
自分の力で穴を掘り、自分を生かす水を汲んできても、その水は漏れて流れていってしまう。
自分の力で生きていけると高ぶるのは愚かなことです。
どうすればいいのでしょうか。
命の水の源に帰ればいいです。
神に立ち帰ればいいのです。
イエスは悔い改めを心待ちにしている
イエス・キリストは失われた人を探して救うために来ました。神から離れた人が帰って来るとき、天には大きな喜びがあります。
遅すぎることはありません。イエスと共に十字架につけられた強盗も、死の直前にイエスを信じ救われました。どんな人生を送ってきても、死の直前であっても、悔い改めるなら赦されます。
赦しの回数に制限はありません。何度でも何度でも、神に立ち帰ってください。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
ヨハネの手紙一1:9
イエスは何度でも赦します。
イエス様は私たちが悔い改めて帰って来ることを待っています。
悔い改めを一時的なものにしてはいけない
それでも最終的にレハブアムの評価は、悪を行った王です。
レハブアムにも良い点はあったけれど、総合的に見たら悪王なのです。
悔い改め、神の言葉に聞き従ったこともありましたが、それは一時的なもの。その後の12年間はやはり神に背き続けてしまいました。
イエスを再び十字架につける愚か者
罪人が悔い改めたときに天で大きな喜びがあるなら、罪を犯せば犯すほど大きな恵みを体験できるのではないか。救いのギャップを広げるために、もっと罪を犯してやろう。
いつでも赦されるなら、罪を犯し続けて、死の直前に悔い改めればいいのではないか。
何度でも赦されるなら、何度でも罪を犯してもいいではないか。生き方まで変える必要なんてない。
そのように思う人は神の恵みがわかっていません。
罪の赦しという特別な恵みを与えるために、神はどのような代価を支払ったのか。それを忘れてはいけません。
4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
ヘブライ人への手紙6:4-6
一度救いの恵みを受け取りながら再び神を捨てるような人は、イエスを再び十字架につけるような愚か者です。
イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪が赦されたと知ったなら、どうして同じ罪を繰り返すことができるでしょうか。
もう2度と同じ過ちはできないと思わされ、生き方が変えられるはずです。
後でいいやとは言えません。すぐに罪から離れ神に立ち帰ろうと決意させられます。
悔い改めを一時的なもので終わらせず、神に従う人生に変えられていきます。
手遅れになる前に学ぶ
シェマヤは今回の出来事がこのような結果を生むと言います。「彼らはシシャクに仕える者となり、わたしに仕えることと、地の王国に仕えることとの違いを知るようになる。」
神を捨てて世の王に従うことと、神に従うことの違いを学びます。そして神に従うことの素晴らしさを気づかされるはずでした。
この経験はレハブアムの教育の機会になります。
痛い経験から学ぶことがある
失敗は成功の母とも言います。失敗することは悪ではなく、失敗を恐れる必要もありません。
痛い経験から学ぶことはあります。
聖書を見ても、辱めを受けたのは良かったとうたう詩編もあり、苦しい出来事が益に変えられる話が出てきます。
300年後、南ユダ王国は結局神に背き、ついに国が滅びてしまいます。
しかしその究極の悲劇の中でも、神はイスラエルを見捨てないのだということをユダの生き残りの民は知ります。
エレミヤはこう歌います。
22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
哀歌3:22-23
これも痛い経験から学んだことです。
痛い経験から学ぶ授業料は高い
痛みを伴う気づきは忘れることができません。傷が残ります。
癒えない傷跡を見るたびに、あの苦しみを通して神様が教えてくれたと思い起こします。
それならやはり苦しんで学んだ方がいいのではないか。あえて神から離れてみて、痛い目にあった方が深い学びができるのではないか。
いいえ、この学びの授業料は高いです。大きな代償を払うことになります。
レハブアムは宝を失い、町を失い、民を失いました。
南ユダの民は神殿を失い国を失いました。
神に従うことを学ぶために、大切な多くのものを失いました。
失って気づいても遅い
私たちも痛い経験から学ぶことはあります。
しかしそれでは遅いこともあります。
「親孝行したいときに親はなし」という言葉もあります。
失ってから親孝行の大切さを学んでも、手遅れです。
痛い経験をしてからでは遅すぎることがあります。
かけがえのないものを失う前に学べ
私は教会の仕事を夜遅くまでしていた時がありました。寝る間を惜しんで働き、結果を残すべきだと思っていました。
ある時、ゴスペルシンガーを招いてコンサートをすることになりました。
私がシンガーと教会の青年を乗せて次の会場に送迎していました。
その時も夜更かしをして働き、寝不足でした。
天気の良い春の午後だったと思います。大きな交差点で信号待ちをしていた時です。手前の信号は赤で、その先の信号が緑に変わりました。眠気でぼーっとしていた私は、先の信号を見てブレーキから足を離しました。
しかし実際は赤なので、前の車は止まったままです。しかし私には見えていませんでした。
ガンッ!とぶつかって気づきました。
この経験から、運転に気をつけることや、ちゃんと寝ることなどを学びました。
その時は、自分が乗っていた車と前の車に傷がつく程度で済みました。
もしこれが信号待ちでなく運転中だったら、どうだったでしょう。
車は廃車になったかもしれない。
自分や同乗者、前の車の人にケガを負わせていたかもしれない。
ケガでは済まず、かけがえのないものを奪っていたかもしれません。
そこで学んだら遅すぎます。
だから痛い目にあう前に気づく必要があります。
今日この御言葉が語られたのだから、今日が学びのチャンスです。
命の源である神に立ち帰り、命を得る。
そのような学びの時としてください。