神に愛されている者、出でよ
ヨハネによる福音書11:1-6, 38-44
1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
ラザロの死
今日の本文はラザロが生き返る場面です。
エルサレムの東にあるベタニア村にマルタ、マリア、そしてラザロというきょうだいが住んでいました。イエス様は彼らの家に何度か滞在しました。親しい関係にあったようです。ラザロについては「あなたの愛しておられる者」と呼んでいます。
そのラザロが病気で危険な状態にありました。マルタとマリアは使者を送り、ラザロの病気をイエス様に知らせました。
しかしイエス様は同じ場所に2日間滞在していました。イエス様がいたのは洗礼者ヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていたあたり。それはヨルダン川の東の方でした。
イエス様がそこを出発しべタニアに着いたとき、ラザロは既に死んで葬られ、4日目になっていました。
迎えに来たマリアにイエス様は大切な約束を語ります。
25 イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。26 生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ヨハネによる福音書11:25-26
それからマリアも来てイエスの足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。
マリアや一緒に来たユダヤ人が泣いているのを見て、イエスは心に憤りを覚え、墓に向かいました。行く途中、イエスは涙を流します。
人の罪と悲惨を見て涙を流すイエス
この時代のユダヤでは、亡くなった方の遺体に香料を塗り、布で巻いて埋葬しました。
地面に穴を掘っただけの墓もありましたが、洞穴の中に遺体を置き、入口に大きな石を転がして封印する墓もありました。ラザロの墓も洞穴を利用したものでした。
ラザロは確かに死んでいました。マルタとマリア、それに村人たちはラザロの早すぎる死に嘆き悲しんでいます。4日経っても悲しみは癒えません。その姿を見てイエス様は心に憤りを覚え、涙を流しました。
ラザロの墓の前に立つと、匂いがしました。遺体の腐敗が始まっているのです。イエス様もその匂いをかいだでしょう。墓に近づいたところでイエス様は再び心に憤りを覚えました。
イエス様は何に憤り、涙を流したのでしょうか。
それは人間の罪とその悲惨な現実です。
もう一か所、福音書の中でイエス様が涙を流した場面があります。
エルサレムの都を見ながら涙を流しました。エルサレムが神に立ち返らなかったからです。
イエス様は罪の中にあって神から離れている人間のために嘆きます。罪の結果として壊れたこの世界の悲惨さ、やがて襲いかかる死という逃れられない現実。それを見てイエス様は憤り、涙を流します。
誰も逃れられない罪と悲惨
私たちもこの罪と悲惨から逃れることはできません。
日々私たちは言葉と行いと行動によって罪を犯し続けます。愛するということは人間の力ではできません。言葉によって人を傷つけてしまいます。怒りや憎しみがわき上がってきます。誰にも言えない悩みを抱えています。自己中心的に生きてしまいます。
最初の人アダムの罪によって、すべての人が罪の状態に陥っています。そして罪の呪いとしてこの世界は壊れ、死が入り込みました。塵から造られた私たちは、やがて塵に返るのです。
このパンデミックの中で多くの人の命が失われています。緊急事態宣言を出して多少の効果はあったと思います。しかし首都圏の悲惨な状況は改善する様子が見えません。当初の1ヶ月という期限まであと1週間。あと1ヶ月ほど延長する可能性が出てきました。初めから延長する前提だったのではないかと思えてきます。1ヶ月で解除すると言ったなら、1ヶ月で解除できるような対策を打たなければならない。緊急事態宣言を出した人は緊急事態だという自覚があるのかと問いたくなります。
では私たちに何ができるのか。多くの人にとって最善の選択肢は家に閉じこもることです。
この悲惨な現実に対して、何もできない。もどかしすぎて心がどうにかなってしまいそうです。
経済的に困っている人たちも大勢います。自助ではどうしようもない。それなら共助だ。しかし彼らを助けるために何ができるのか。多くの人は助けたくても助ける力がありません。
この世界に絶望し、弱く足りない自分の罪に嘆き、私たちは打ちひしがれます。
神無き人間の悲惨の中で、私たちは死んでいます。
死んでいるだけではありません。長い間苦しみを抱え、腐ってきました。虫がわき、匂いがします。
絶望の谷底にあまりにも長い間置かれていたために、白骨化し、枯れ果てているかもしれません。
嘆く神
こんな私たちの姿を見て、神はどう思っているのでしょう。
罪人ども、これが罪の刑罰だ、泣きわめいて歯ぎしりするがいい。そのように笑っていると思いますか。
高慢な人間よ、自分の力で何でもできると思うな。バベルの塔は崩される。このパンデミックや自然災害を通して神に立ち返れ。そのように厳しい顔で訓練をさせていると思いますか。
そういう面もあるのかもしれませんが、聖書にはそれとは違う神の顔が見えてきます。
私たちの神はむしろ人間の罪のために嘆くお方です。
地上に悪が増すのを見て心を痛めます。血の中でもがく赤子を見捨てず、生きよ、生きよと呼びかけます。誰の死をも喜ばず、立ち返って生きることを願っています。
聖霊も弱い私たちのために言葉にならない呻きをもって執り成しています。
そしてイエスは私たちのために憤り、涙を流しています。
特にイエス様は私たちの罪と悲惨をその身に負われました。
私たちの罪のために十字架で殺されました。そして墓に葬られました。
だから私たちがどんなに低く暗く冷たいところに閉じ込められていても、墓の中で腐り始めていても、ついに枯れた骨になったとしても、イエス・キリストは共にいます。
あなたは神に愛されている者です。キリストはあなたの痛み、悩み、苦しみを知っています。
わたしは復活であり命である
そしてそこから立ち上がらせます。
墓に葬られたラザロに向かい、イエス様は大声で叫びます。
「ラザロ、出て来なさい」
すると死んで腐り始めていたラザロが、自分の足で立って出てきました。
イエス様はこのしるしを通して、ご自分がどのようなお方かを私たちに見せています。
つまりイエスは、復活であり、命である。イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きるのです。
墓に葬られたキリストは、3日目に復活し死の力を打ち破りました。死のとげは抜かれました。
このお方を信じるとき、絶望の谷底に聖霊の風が吹き、枯れた骨さえも生き返ります。墓の中で腐っていた私たちも、新しい命に生きることができます。
アダム一人によってすべての人が死ぬことになったように、一人の正しいお方イエス・キリストによってすべてが生きます。
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙6:23
この神の賜物、プレゼントを受け取ってください。
空白の2日間
私たちの神は嘆く神。イエス様は私たちのために涙を流すお方。
しかし謎があります。なぜイエス様は、愛するラザロが病気だと聞いてすぐべタニアに行かなかったのでしょうか。2日間も留まったのでしょうか。
大事な用事があったとは書かれていません。病気のラザロのもとに駆け付けることこそ大事でしょう。しかしイエス様はそうしませんでした。
そもそもイエス様がべタニアに着いたとき、ラザロはもう死んで4日経っていました。2日間留まらずにすぐ出発しても手遅れでした。
ヨルダン川からべタニアまでは1日で行ける距離です。だからマルタとマリアが使いを送ったときはまだ息があっただろうけれど、それからすぐ亡くなっていたわけです。
もしかしたらイエス様にラザロの病気を伝えた時点で、既に亡くなっていたかもしれません。
そしてイエス様は、ラザロの死を知っていました。はっきりと、ラザロは死んだと言いました。
イエス様がラザロの死を嘆き、生き返らせることが目的なら、すぐ駆けつけるべきだったでしょう。
2日間も足踏みしている間、マルタとマリアは2日間も余計に苦しまなければなりませんでした。
ラザロは死んでしまった。使いの者は帰ってきたが、イエス様は来ない。次の日も来ない。そのまた次の日になってようやく来た。
なぜラザロを見捨てたの?なぜ私たちを置き去りにしたの?あなたがそうしなければ、ラザロは死ななかった!
マルタとマリアはそのように訴えたかったのかもしれません。
荒野の日々を通して得るものもある
この空白の2日間は無駄だったのでしょうか。
私たちの人生の中には、嘆きの中で失われたような年月があるでしょう。辛い環境に置かれ、ただただ苦しかった日々。突然の悲劇に襲われ、どん底に落ちた日々。計画がことごとく打ち砕かれた2020年。
何の意味があるのかと思えるような荒野の日々があります。
ヨセフはエジプトに売られ、奴隷になりました。モーセは荒野で40年間羊を飼いました。親に愛され将来を期待された人生は完全につまずいてしまったように思えたでしょう。
しかしその日々があったからこそ、彼らは偉大なリーダーになりました。
神は人間の現実に嘆いています。嘆いているんです。私たちを見捨てはいません。
そして嘆いて終わりではありません。そのような人間の悪や悲惨な年月さえも善に変えることができます。
人間の罪による十字架の死という人類史上最悪の状況を、神は栄光に変えました。
発酵期間
腐敗と発酵は原理的には同じものです。
腐った豆は人間の体に害を与えます。
しかし発酵した豆から、みそ、しょうゆ、納豆などの食品が作られます。ある人には納豆も腐っているように見えるかもしれませんが。
神から見捨てられ、墓の中で腐っていくような日々も、神の目から見ればいい味を出すための発酵なのかもしれません。
神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。
ローマの信徒への手紙8:28
私たちの嘆きの日々を、神は逆転させます。
あなたのために仕え祈る人がいる
「ラザロ、出て来なさい」これは私たちに対する呼びかけです。嘆きの日々は終わります。石でふさがれた真っ暗な日々は終わります。
そのためにイエス様は人々に呼びかけます。「その石を取りのけなさい」
そしてラザロが布を巻かれたまま出てくるとまた人々に呼びかけます。「ほどいてやって、行かせなさい」
ラザロのために涙を流していたのはイエス様だけではありません。マルタとマリア、そして村の人たちが一緒に涙を流していました。
墓の中で腐っていたラザロを立ち上がらせたのはイエス様の声だけではありません。石を取りのけ、布をほどいた人たちがいました。
ラザロは神に愛された者。そして人から愛された者でした。
べタニア村には、ラザロ一人のために共に涙を流し、ラザロ一人のために共に仕える人たちがいました。
あなたに対してイエス・キリストは呼びかけます。「出て来なさい。」
嘆きの日々は終わります。
神はあなたのために心を痛め、呻き、涙を流しています。イエス・キリストはあなたに新しい命を与え、再び立ち上がらせます。あなたは神に愛された者です。
そしてあなたを愛する人がいます。あなたのために共に喜び、共に泣く人たちがいます。あなたが立ち上がるために石を取りのけ、布をほどくように、仕え、祈る人たちがいます。
その愛を受けて、神に愛されている者よ、自分の足で立ち上がり、出て来なさい。
新しい命に、生きよ、生きよ。