アドベント
神に立ち返らせる者
ルカによる福音書 1:5-20
5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。11 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。12 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。13 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」18 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」19 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。20 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
主役を引き立てる脇役
C.S.ルイスのナルニア国物語の第一部「ライオンと魔女」は、白い魔女に支配され雪に閉ざされたナルニア国が舞台です。ナルニアの住民たちには、「2人の『アダムの息子』と2人の『イヴの娘』が4つの王座を満たす時、白い魔女の支配は終わる」という言い伝えがありました。
そこにペペンシー家の4人の子どもたちが、衣装だんすを通ってやってきます。約束された人間が来たのです。
ところがペペンシーきょうだいの次男エドマンドの裏切りをきっかけにライオンのアスランが殺されてしまいます。
きょうだいたちとナルニアの住民は武器を持って戦いますが、魔女に歯が立ちません。
そこに復活したアスランが現れ、魔女を倒します。こうしてナルニアは再び豊かな国になりました。
ナルニア国物語シリーズではこのペペンシーきょうだいが繰り返し出てきて、主人公のように見られることもあります。しかし彼らの役目は、アスランを引き立てることです。
ペペンシーきょうだいはあくまで脇役で、主人公はアスランなのです。
神の時を待ち望む
この時期、教会やキリスト教系の幼稚園などで聖誕劇が行われることがよくあります。
主な登場人物はマリア、ヨセフ、天使。赤ちゃんイエスさまは人形。他には博士たち、羊飼い、ヘロデ王といったところ。
聖誕劇では省略されがちですが、クリスマスの物語でザカリアとエリサベトも重要な登場人物です。
ザカリアに妻の妊娠が告げられる
ザカリアはアビヤ組の祭司。ダビデによって分けられた24の祭司グループの1つですね。
ザカリアにはエリサベトという妻がいました。二人は律法をよく守り正しく生きていました。
しかし1つ問題がありました。それは子どもを望んでいたのに与えられなかったことです。長い間祈ってきましたが、二人とも既に年をとっていました。
ザカリアが聖所で香をたく当番になったとき、香壇の右に天使ガブリエルが立ちました。
恐れるザカリアに天使は言います。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」
神から見捨てられたような嘆きの時
望んでいた子どもが与えられなかったことで、二人はどれほど苦しい思いをしたことでしょう。
特にエリサベトの方は、もしかすると姑から責められたかもしれないし、自分で自分を責めたかもしれません。同年代の女性が子どもを連れている姿を見ただけで心が痛みます。
後で妊娠を知らされたエリサベトは「主は今こそ、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」と言いました。
嘆き悲しみの時も主はそばにいる
神の言葉に忠実に聴き従っても、どんなに熱心に祈っても、祈りが叶えられないことがあります。神様に見捨てられたような気持ちにもなります。
しかし神が私たちを見捨てることはありません。
あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。
詩編56:9
人の嘆きを数えて記録する。流した涙を革袋に蓄える。
遠く離れているなら、見向きもしていないなら、このようなことはできません。
私たちが嘆き悲しむとき、神は見捨てているのではなく、すぐそばにいます。
神のなさることはすべて時にかなって美しい
すぐそばにいるなら、その場で問題を解決してくれよと言いたくなります。
しかし問題はすぐには解決しないことがあります。
神様には時があるのです。
神がすることはすべて、時にかなって美しいものです。
神様は最も良い時に最も良いことをします。
どんなに祈っても解決されない問題はあります。子どもを求めても子どもが与えられない人もいます。病の癒しを祈っても癒されない人もいます。
それでも神様の恵みは十分注がれています。
神は恵み深いお方です。
嘆きに応え、涙をぬぐい、恥を取り去る時を神は備えています。
アドベントのこの時、神様が最も良い時に最も良いことをしてくださることを待ち望みましょう。
静まって神に心を向ける時
天使は続けてこのように言います。「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
生まれる子は聖霊に満たされていて、人々を神に立ち帰らせる者である。
父の心を子に向けさせる。これは神様が人々に目を向けるようにさせるということです。
先ほど言ったように、神様が私たちを見捨てることはありません。
神がついに目を向け、嘆きに応え、涙をぬぐい、恥を取り去る時が来るということです。
それは神様が正義を行うときです。神が正義を行うとき、悪は滅ぼされなければなりません。
だから神に目を向けられる人間の方も準備をしておかなければなりません。
主を迎える準備をする
旧約聖書の最後にこうあります。
23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。
マラキ書3:23-24
旧約聖書の最後に、主の日が来るとの預言があります。
その主の日は大いなる恐るべき主の日です。破滅をもってこの地を撃つかもしれないと警告されています。
主の日が大いなる恐るべき日になるのは、イスラエルの民が神から離れている場合です。神に背いているなら、破滅をもってこの地は撃たれます。
そうならないように神は預言者エリヤを遣わし、父の心を子に向けさせると共に、子の心を父に向けさせます。
人々が悔い改めて神に立ち返るように、エリヤを遣わすのです。
イスラエルを神に立ち返らせた者
主がマラキを通して語ったエリヤ到来の約束が、天使を通して再び語られています。
エリヤの霊を受け、エリヤのように人々を神に立ち返らせる者が、生まれようとしています。
ではエリヤは何をしたのでしょう。
エリヤが活動した時代、北イスラエルは神から離れ、バアル崇拝に陥っていました。主の預言者は殺され、エリヤただ1人が残っています。
エリヤはバアルの預言者450人と対決しました。主の預言者とバアルの預言者、どちらが先に祈りをもっていけにえに火をつけることができるかという対決です。
バアルの預言者たちは熱心に祈りました。何時間も祈りますが、何も起こりません。
その間エリヤは、何もしません。沈黙しているだけです。
バアルの預言者たちはついに自分の体を傷つけ、血を流しながら祈ります。それでも何も起こりません。
そこでエリヤが動き出しました。エリヤはいけにえの祭壇の周りに溝を掘り、水を汲んでこさせます。そしていけにえも薪も水浸しにしました。そんなことをして火がつくはずがありません。
そこでエリヤは祈ります。「主なる神よ、わたしに応えてください。そうすればこの民は、あなたが神であることを知るでしょう。」
もしこの状況でいけにえに火がついたなら、これは神がなさった業であるとしか言いようがありません。
エリヤが祈り終わったまさにその時、天から火が降り、いけにえを焼き尽くし、溝にあった水まですべて蒸発してしまいました。
これを見た民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と告白し、バアルを捨て去りました。
これがエリヤのしたことです。
エリヤは人々を神に立ち返らせる者でした。
神と出会う前の沈黙
神に立ち返る前に、沈黙の時があります。神は何もしてくれないと思えるような沈黙の時があります。
エリヤの場合は半日でした。マラキの預言の後、神は沈黙します。400年間の沈黙です。
その沈黙の時が過ぎたなら、神が応える時が来ます。
部屋はありますか
私たちも神を迎える準備が必要です。
クリスマスが近づいてきました。今日はアドベント3週目。来週はクリスマス礼拝です。
何も準備しなくても、時間が経てば、クリスマスは勝手に来ます。
では心の準備はどうでしょうか。イエス様を迎える心の準備は出来ていますか。
イエス様が来た時に、主はあなたの心の扉をノックします。
その時、「部屋はいっぱいです。他の所に行ってください。」と言ったベツレヘムの住民のようになってはいけません。
「ようこそ」とイエス様を迎える準備をするのです。
あなたの心は何でいっぱいになっていますか。
仕事、学校、お金、健康、人間関係、様々な心配があります。過去の嫌な思い出に心が支配されているかもしれません。
一度静まって、神様に心を向ける時が必要です。
自分の心を占めている不要な思いは捨て去って、イエス様を迎える準備をしましょう。
主役はイエス様
天使は「その子をヨハネと名付けなさい。」と名前を指定します。
ヨハネという名前は、元はヨハナンというヘブライ語の名前から来ています。
ヨハナンには「主は恵み深い」という意味があります。
神様は私たちを見捨てず、目を留めている。主の日に破滅をもたらす神ではない。神に心を向ける私たちの嘆きに応え、涙をぬぐい、恥を取り去る神様です。
そのことを思い起こさせる役割があるから、生まれる子にヨハネという名を付けさせたのかもしれません。
この子の名はヨハネ、主が恵み深いことを思い起こさせる子
この後、天使が約束したとおり、エリサベトが妊娠したことがわかりました。
ザカリアは時が来れば実現する天使の言葉を信じなかったので、しゃべれなくなります。
10ヶ月の沈黙の後、エリサベトは出産します。
近所の人たちや親戚が集まり、お祝いしました。そして赤ちゃんにザカリアJr. という名前をつけようとしました。
ところがザカリアが板に「この子の名はヨハネ」と書いたので人々は驚きました。
するとザカリアは再び話せるようになりました。
イエス様を指し示した洗礼者ヨハネ
それから30年後、生まれた子は洗礼者ヨハネとして活動することになります。
洗礼者ヨハネは荒野で叫ぶ声として、イエス様が活動を始める道を準備した人です。悔い改めの洗礼を宣べ伝え、人々に悔い改めを迫りました。人々を神に立ち返らせる者でした。天使が言った通りです。
そこにイエス様が、ヨハネから洗礼を受けるために来ました。
そのときヨハネはイエスについてこう言います。
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
ヨハネによる福音書1:29
ヨハネは「この人を見よ、この人こそが私たちの救い主だ」とイエス様を指し示したのです。
徹底してイエス様を引き立てる
ヨハネは福音書前半における名脇役です。徹底的にイエス様を引き立てました。
ヨハネのもとにも多くの弟子がいましたが、ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったことでイエス様に乗り換えた弟子もいました。この中にアンデレとゼベタイの子ヨハネも含まれていたと思います。
ヨハネはそれを止めません。むしろ「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と、引き立て役に徹します。
あくまで主役はイエス様です。
イエス様より先に妊娠が告げられ、先に生まれ、先に活動を開始したのはヨハネです。しかし俺が先輩だとか、俺がお前に洗礼を授けてやったんだとか言うことはありません。ヨハネはイエス様を迎える準備をする者でした。
人生を通してイエス様を指し示す
先の人には先の人の役割があります。後から来る人のための準備をする役割です。
先に救われた人には、これから救われる人々のための役割があります。
それは人々の心をイエス様に向けさせ、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とイエス様を指し示すのです。
クリスマスが近づいてきました。私たちの周りの友だちや家族がイエス様に出会うチャンスです。
クリスマスの主役はイエス様です。サンタクロースは脇役です。私たちも脇役になって、人々の心をイエス様に向けさせ、イエス様に立ち返らせるのです。
クリスマスの時期だけではありません。私たちの人生を通して、主が恵み深い方であることを指し示すのです。