ペンテコステ・使徒言行録講解48
神の招きを確信した
使徒言行録16:6-10
6 さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。7 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。8 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
神に導かれてきた
私は九州の出身で、九州にある大学に進学しようと考えていました。しかし大学受験に失敗をし、静岡の大学に入学しました。
学校の先生になることが目標で、教員採用試験を受けました。不合格でした。
私立高校の教員の試験も受けていて、そこから声がかかりました。まず三島の高校から内定をもらいました。その後、清水区のミッションスクールからも声がかかりました。清水の方が近いし、ミッションスクール。いい条件だなと迷いましたが、三島の高校で働くことにしました。
念願の教師になることができ、やりがいもありました。しかし段々心が枯れてきました。生徒の言った軽い言葉にも深く傷つきました。
これでいいのかと悩みました。このまま教師を続けでいけるか。ミッションスクールの方がよかったのではないか。
そんなとき、数学の先生の研修がありました。場所は静岡市のミッションスクールでした。早く着いたので、礼拝堂を見学させてもらいました。
その学校では毎朝礼拝を行っています。その日の聖書箇所は使徒言行録16:6-10と書いてありました。
それが妙に気になり、研修室に戻ってカバンに入れてあった聖書を開きました。そこに書いてあったのは、パウロが行こうと思っていたところに行けず、思いがけない道を行くが、神の招きを確信したという場面でした。
これを読んだ瞬間、私は閃きました。今まで点のように存在した出来事が、線のようにつながった感じです。それは過去の挫折や失敗も含めて今の私があり、ここに導かれた。これでいいのだ。私はここで働くよう召されているのだと確信できました。
後で転職して牧師になったわけですが、そのときも神の導きを確信してのことでした。
教師を辞めるときに周囲の反対などもありましたが、神の導きを確信していたので、迷わず進みました。
神は私たちを通して働きたいです。神様は私たち一人一人を招いています。その確信が与えられるといいですね。
トロアスへ
パウロはシラス、テモテと共に新しい町に行って伝道しようと思っていました。
目指していたのはアジア州です。エフェソやコロサイなどの都市があります。
しかしアジア州で御言葉を語ることはできませんでした。
それでアジア州の東側にあるフリギア・ガラテヤ地方を通っていきました。
そしてミシア地方の近くまで行き、そこからさらに北に行ってビティニア州に入ろうとしました。ビティニア州にはニカイアやカルケドンという、教会の歴史の中でとても重要になる都市もあります。
しかしパウロはビティニア州に入ることができませんでした。
それでミシア地方に入り、トロアスに着きます。
パウロがなぜ計画通りにアジアで御言葉を語ることができなかったのか、ビティニア州に入れなかったのか、詳しいことは書いてありません。ユダヤ人からの妨害があったのでしょうか。あるいは体調を崩し、計画を修正しなければならなくなったのかもしれません。
詳しいことはわかりませんが、使徒言行録の著者は「聖霊から禁じられた」「イエスの霊が許さなかった」と表現しています。
計画通りに行っていない最中はわからなかったと思います。なぜこんなことになるのかと悩みながら、計画を変更していったことでしょう。そしてその後の出来事で、これは神の招きであったと確信することになります。
滅びの道を進む計画
民数記にバラムという預言者が出てきます。貪欲な人で、高額な報酬のためにイスラエルの民を呪おうとしました。
ロバに乗って出かけますが、ロバが道をそれて畑に入ってしまいます。バラムはロバを打って、道に戻させました。
ぶどう畑の間の道に入ったとき、ロバはまた進路を変えようとしました。しかし両側に石垣があります。バラムは足を石垣に押し付けられました。それでまたロバを打ちました。
道は段々狭くなってきます。とうとう右にも左にもそれることができなくなったところで、ロバはうずくまってしまいました。バラムは怒りに燃え、ロバを杖で打ちました。
そのときロバがしゃべり出します。「わたしがあなたに何をしたというのですか?三度もわたしを打つとは!」
そしてバラムの目は開かれました。目の前に剣を持った天使が立ちふさがっています。間違った道を進むバラムを止めるために、主が送った天使です。ロバはこの天使を見たので、まっすぐ進むのを拒んだのでした。
自分の計画した通りに進むことがいいことではありません。それは滅びに向かう道かもしれません。
人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。
箴言14:12
主は天使を送り、ロバを用いてでも軌道修正させます。滅びから救うためです。
それなのに私たちはロバを打ちます。
それどころか神の子さえも鞭で打ち、十字架に着け、滅びの道を進んでいくのです。
神の招きに従う
だから自分の計画がうまく行かないとき、それをチャンスだと考えることもできます。神は私をどこへ招こうとしておられるかを知るチャンスです。
これが難しいです。
バラムのように欲望に目がくらんでいれば、間違いに気づきやすい部分もあるでしょう。
しかしパウロは、御言葉を語ろうとしたのです。悪いことですか?よいことでしょう。それを妨げられたら、「私は御言葉を語ろうとしているのに、それを妨げるとは…。退け、サタン!」という気持ちになるかもしれません。
しかしよい動機でも、時や場所によって、避けなければならないということもあります。
それを無視して、よい目的のためなら何をしてもよいという風になると、危険です。
もちろん霊的な戦いというものも存在します。福音から遠ざけようと、サタンも働いています。
聖霊の働きか、サタンの妨げかを見分ける明確な方法はありません。
大事なことは、主に目を留めることです。
自分の願うことではなく、御心が行われるように祈りながら、進むときは進む。止まるときは止まる。そのように神の招きに従って行くことを願います。
マケドニア人の幻
パウロはトロアスの町で幻を見ました。1人のマケドニア人が立ち、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」とパウロに願うという幻です。
それで「わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。」とあります。
すぐに出発したというのも注目すべきポイントですが、「わたしたちは」という主語に注目したいと思います。
使徒言行録のここまでの文章は、会話を除けば、「パウロは」とか「彼らは」という三人称で語られています。それがこの10節からしばらくの間、「わたしたちは」という表現が出てきます。
これは何を表しているのでしょうか。
使徒言行録がどのような文書だったか思い出してください。医者であるルカから、テオフィロという人物に宛てて書かれた2つの文書の下巻です。
ルカが「わたしたちは」と書いているということで最も自然に考えられるのは、ルカ自身がその中にいるということです。
「わたしたち」とは、「パウロ、シラス、テモテとルカ」です、ということです。
医者であるルカがこれからしばらくの間、パウロたちと一緒に旅をすることになります。
パウロは第1次伝道旅行で、石で打たれ死にかけました。ダマスコに行く途中、一時的に目が見えなくなっています。もしかするとそのとき、馬から落ちたということもあったかもしれません。
常に医者の助けを借りなければならない体になっていたのでしょう。
パウロがトロアスに来たのも、体調が悪くなり、もう伝道旅行を続けられなくなり、トロアスにいる医者ルカに出会うためだったかもしれません。
というか、そんなに体がボロボロなら休むべきでしょう。ドクターストップ!伝道旅行は中止!とルカも言ったのではないでしょうか。
しかしパウロは、トロアスに着いたその日の夜にマケドニア人の幻を見て、すぐに出発しています。すごい行動力です。
どこからそんな力が湧いてくるのか?
ルカはこう書いています。「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」
神の招きを確信したので、その使命に押し出されてパウロたちはヨーロッパに渡りました。
この時のためにこそ、私はここにいる
神の招きを、教会の言葉で召命と言うこともあります。
このために神が私をここに招いたのだ、という召命感があれば、どんな困難も乗り越えることができます。
自分の計画がうまく行かなくても、主に目を留めて軌道修正できます。サタンの妨げには屈しません。そして命をかけて進むことができます。
ユダヤ人のエステルが王妃だったとき、ユダヤ人の大虐殺が計画されていました。
おじのモルデカイはエステルに、この計画の中止を王に嘆願してくれと言います。
しかし王の許可がないのに王に近づけば、処刑されてしまいます。
ためらうエステルにモルデカイは言います。
この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」
エステル記4:14
この時のためにこそ、私はここにいる。
エステル記に神という言葉は出てきませんが、これはまさに神の招き、召命です。
その召命を感じたからこそ、エステルは「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」と答えました。
この召命というものはパウロやエステルのような特別な人にだけ与えられたものなのでしょうか。
現代で言えば牧師や宣教師、伝道師のような人だけのものでしょうか。
いいえ、召命は特定の働きをする人だけのものではありません。
神様は一人一人に計画を持っておられ、招いています。
牧師には牧師としての召命が与えられている、というだけのことです。
ある人は社会で働くことで地の塩、世の光になるという召命を受ける人もいます。子どもたちに対しての召命を持つ人もいます。音楽や料理など、賜物を生かす召命を持つ人もいます。
元阪神タイガースのマット・マートン選手は、ヒーローインタビューで「イエス様に平安がある」と言っていました。入場の時にはクリスチャンロックバンドのナイトdeライトの曲を流しました。彼は野球を通して、人生の主導権は私にあるのではなく、イエス様にあると証ししています。
そのようにスポーツを通してイエス様の素晴らしさを伝えるという召命を持つ人もいます。
イエスの霊、聖霊が私たちを導いています。
キリストの体である私たちは、主を見上げ、神の招きに従って歩んでいきます。
私たち一人一人に神様は召命を与えています。
今私がここにいるのは、この時のためだと、神の招きを確信できることを願います。